1536年。一月四週目 七億二千万文と、安芸へ向かう道
一月四週目。
八郎の本拠では、久しぶりに大掛かりな帳面合わせが行われていた。
「そういや、一か月ぐらいまともに締めてませんでしたね」
「八郎様が視察やら宴やら軍の準備やらで飛び回っておられましたからな」
帳面係が分厚い帳面を開く。
「ざっくり申し上げます。交易利益が二億文」
「はい」
「市の利益も約二億文」
「合わせて四億?」
「この一月でございます」
さらに支出。
「四国を中心に一万五千の兵を待機、訓練させた費用が、およそ九千万文」
「結構使いましたね」
「ただ、安芸へ移動してからの炊き出し、治療、輸送などはこれから本格的に帳面へ乗ります。
二週間で三千万文ほどは見ておいた方がよろしいかと」
「なるほど」
「それでも現在、手元の銭は概算で七億二千万文ほどございます」
八郎はしばらく黙った。
「……もう数字が大きすぎて分かりませんね」
「八郎様がそれを言いますか」
周囲から笑いが起きる。
だが、大内の姫君だけは笑えなかった。
「父上の軍は……」
「まだ情報が遅いんですよ」
八郎は少し声を柔らかくした。
「こちらで分かってるのは、大内軍が月山富田城を攻め切れずに敗走したこと。
陶興房殿という方が四千ほどをまとめて抜けたらしいこと。それぐらいです」
「父上が無事なのかどうかも?」
「確かな報告は、まだです」
書状は数日遅れ。
安芸で何が起きたか分かる頃には、その場ではさらに状況が変わっている。
「ただ、一万五千を先に送った意味はあったと思います」
「ありがとうございます」
「いやいや、大内家のためだけではないですよ」
八郎は苦笑した。
「安芸全部がそのまま尼子側へ流れるのも困りますし、八郎商会としても
安芸との商売を広げたいですから」
大内にも敵意がないことは何度も伝えている。
尼子とも、できる限り戦わないよう命じてある。
「それでも一万五千が安芸に入ったんです。大内も尼子も、そらびっくりしてるでしょうね」
「八郎様は、安芸へ行かれるのですか?」
「行かなあかんでしょうね」
大内と尼子。
捕虜。
賠償。
安芸の国人衆。
その間へ一万五千を送り込んだ以上、八郎本人が最後まで姿を見せないわけにもいかない。
「道はどうされます?」
「一番真っすぐなのは、大友さんに話を通して豊後へ出て、そこから海を渡って安芸でしょうね」
九州の東側から瀬戸内へ抜ける。
距離だけを考えれば、それが早い。
「では大友家に?」
そう言いかけた八郎へ、大内の姫君が口を挟んだ。
「八郎様」
「はい?」
「できましたら、大内領を通っていただけませんか」
「大内領を?」
「はい」
姫君は少し迷ってから続ける。
「今、大内の者たちは皆、不安になっていると思います」
敗戦。
尼子の追撃。
そして突然現れた八郎軍一万五千。
書状で敵意はないと伝えていても、現場の国人衆や城主がどこまで事情を知っているか分からない。
「そこへ八郎様ご本人が、大友領から突然安芸へ入られますと……」
「余計に怖がられる?」
「はい」
姫君が頷いた。
「でしたら私どもも一緒に参ります」
「姫君も?」
「大内の姫が同行している。それだけでも、大内方の者は少し安心すると思います」
さらに大内方の家臣たちも顔を出す。
道中の城や国人衆に、
『八郎は大内と戦いに来たのではない』
と直接説明できる。
八郎は絵図を見ながら考えた。
「豊後から行く方が近いんですけどね」
「はい」
「でも今は速さだけでもないか」
八郎が頷く。
「分かりました。大内領から入ります」
大内の姫君の表情が少し緩んだ。
「ありがとうございます」
「こちらとしても、その方が後々楽ですしね」
大内の城を通る。
そこで八郎本人が顔を見せる。
停戦を守る意思を示す。
その上で安芸へ向かう。
「米、味噌、塩、干魚、それから薬も追加で運ばせましょう」
「また炊き出しでございますか」
「戦の後ですから」
表向きの打ち合わせは、それで終わった。
しかしその夜。
八郎は身内と古参の重臣だけを集め、安芸の絵図を広げた。
「では、本当の話をしますね」
「やっぱりあるんか」
「予想していた形に近くなりました」
八郎は安芸を指した。
「交渉次第ですが、大内方だった安芸の国人衆には、こちらへ寄ってもらう方向で動きます」
「昼間と言うてること、だいぶ違わへん?」
「違いませんよ」
「六歳児がそんな顔で言うな」
「腹黒いことしてるつもりもないです」
「その自覚ないのが怖いねん」
八郎は気にせず続けた。
「今回、安芸の国人衆は大内に従って兵を出した。でも負けた。まだ恩賞も十分出てないでしょう」
しかも捕虜や敗残兵を助けたのは八郎軍である。
「その人らを帰す交渉まで、こっちがやることになったら?」
「八郎に恩感じるな」
「そういうことです」
そこから八郎商会を入れる。
飯を振る舞う。
戦で膨らんだ城や農民の借金を帳面に並べる。
適正な値で品を買い、仕入れ代金で借金を消していく。
「九州でやったことを安芸でもやるんやな」
「はい」
「それで気付いたら?」
「商売が根付きます」
「その先や」
「まあ……八郎側になるかもしれませんね」
「怖すぎるわ!」
八郎は首を傾げた。
「攻め取るわけちゃいますよ」
「一万五千置いた上で言う台詞ちゃうぞ」
八郎は安芸の絵図を眺めながら笑った。
「まあ、ぬるっといきましょう」
大友領から真っすぐ向かうより、あえて大内領を通る。
不安を和らげ、恩を売り、顔を見せる。
その先で八郎は、戦ではなく帳面と商売で安芸へ根を張ろうとしていた。




