第8章 帰還の刃、初めての怒り
森の空気が震えていた。
ひよりの作ったスープから生まれた“風の結界”は、まだ淡く光を放ちながら、ひよりを守るように揺らめいている。
焚き火の炎がその光に照らされ、赤と金が混ざり合って揺れ、森の影が不規則に踊っていた。
しかし——
プレイヤーたちは諦めていなかった。
「クソ……なんだよこの結界……!」
「初心者のくせに……ふざけんなよ!」
「壊せ! 力で押し切れ!」
怒号が森に響き、鳥たちが一斉に飛び立つ。
木々の葉がざわざわと揺れ、風が冷たく吹き抜ける。
プレイヤーたちは武器を構え、結界に向かって一斉に攻撃を叩き込んだ。
——バキィィィィンッ!
結界が軋む音が響き、ひよりの身体がびくりと震える。
「や、やめて……!」
ひよりの声は震え、喉がひりつく。
足元の落ち葉が風に舞い、ひよりの足首に絡みつくように揺れた。
エルダが必死に立ち上がる。
「ひよりちゃんに……触るな……!」
だが、エルダの身体はプレイヤーの攻撃で傷だらけだった。
服は破れ、腕には赤い傷が走り、息も荒い。
「NPCが……調子に乗るなよ」
プレイヤーの一人が、エルダの胸ぐらを掴み上げた。
エルダの足が地面から浮き、落ち葉がぱらぱらと落ちる。
「やめてっ!」
ひよりが叫んだ瞬間——
空気が、凍りついた。
風が止まり、木々のざわめきが消え、
森全体が息を潜めたような静寂。
「……離れろ」
低く、静かで、しかし底に怒りを孕んだ声。
木々の間から、黒い影が歩み出る。
クロウだった。
黒いコートが風に揺れ、月明かりがその端を照らす。
前髪の隙間から覗く瞳は、闇よりも深く、鋭かった。
プレイヤーたちは一瞬怯んだが、すぐに強がった。
「お、お前……大会はどうした!」
「逃げてきたのか?」
「バフ役を守りに来たってわけかよ!」
クロウは答えない。
ただ、エルダを掴んでいるプレイヤーに向かって歩く。
その歩みは静かで、しかし一歩ごとに空気が震えた。
「……離れろと言った」
「はっ、NPCなんか庇って——」
——ドンッ!
次の瞬間、プレイヤーの身体が吹き飛んだ。
クロウが剣を抜いたのを、誰も見ていなかった。
「なっ……!?」
「速すぎ……!」
クロウは剣を構えたまま、低く言い放つ。
「俺の仲間に触るな」
その声は、氷のように冷たかった。
ひよりは息を呑む。
(……クロウさん、怒ってる)
クロウは普段、どんな相手にも冷静だった。
怒りを見せることなど、ほとんどなかった。
だが今——
彼の瞳には、はっきりと怒りが宿っていた。
「お前ら……ひよりに何をした」
プレイヤーたちは後ずさる。
「な、何もしてねぇよ!
ちょっと脅しただけだ!」
「そうだ、悪気は——」
クロウの剣が、地面に突き刺さった。
——ズドンッ!
地面が割れ、衝撃が森に響く。
落ち葉が舞い上がり、木々がざわりと揺れた。
「……二度と近づくな」
その声は、怒りを押し殺したように震えていた。
ひよりは胸が締めつけられる。
(……私のせいで、クロウさんが……)
プレイヤーたちは舌打ちし、後ずさる。
「く、クロウ相手は無理だ……!」
「撤退だ、撤退!」
「覚えてろよ……!」
プレイヤーたちは武器を捨て、森の奥へ逃げていった。
静寂が戻る。
風が木々を揺らし、焚き火がぱちぱちと音を立てる。
ひよりの呼吸だけが、やけに大きく響いた。
「クロウさん……ありがとう……」
ひよりの声は震えていた。
クロウは剣を収め、ひよりから視線をそらした。
「……礼はいい」
だがその声は、いつもより少しだけ優しかった。
ひよりの膝ががくりと折れた。
緊張が解け、身体が震える。
「ひより!」
エルダが支えようとするが、クロウが先に動いた。
「……立てるか」
クロウの手は温かく、力強かった。
ひよりの手は震えていたが、その手に触れた瞬間、少しだけ落ち着いた。
「ご、ごめんなさい……私のせいで……」
「違う」
クロウは短く言った。
「悪いのは……あいつらだ」
ひよりの目から涙がこぼれた。
クロウはその涙を見て、胸の奥が痛むのを感じた。
(……こんな気持ち、初めてだ)
クロウは静かに言った。
「……大会はまだ終わっていない。
だが……ひよりを一人にはしない」
「え……」
「エルダ。ひよりを守れ」
「もちろん!」
エルダは胸を叩き、ひよりの横に立つ。
クロウはひよりに向き直り、低く、しかしはっきりと言った。
「……必ず戻る。だから……待っていろ」
その言葉は、まるで誓いのようだった。
ひよりの胸が熱くなる。
クロウは闘技場へ向かって歩き出す。
その背中は、孤高で、鋭く、しかしどこか優しかった。
森の風が、彼のコートを揺らした。
ひよりはその背中を見つめながら、
胸の奥で静かに願った。
(……どうか、無事で)




