第5章 大会前夜、揺れる心と整えられた拠点
翌朝、ひよりは電車の窓に映る自分の顔を見て、少し驚いた。
昨日よりも、ほんの少しだけ表情が柔らかい。
(……森の空気、まだ残ってるみたい)
会社に着くと、千夏がすぐに声をかけてきた。
「ひより、今日もいい感じじゃん。なんか……前より元気そう」
「そうかな……?」
「うん。なんか、雰囲気が明るいよ。ゲーム、そんなに楽しいの?」
ひよりは少し照れながら笑った。
「うん……森が綺麗で、NPCの子たちが優しくて……
料理してると、なんか落ち着くんだ」
「料理……ゲームで……?」
千夏は目を丸くし、すぐに笑った。
「ひよりらしい〜! 癒し系ゲーム、似合うよ」
その言葉が、ひよりの胸にそっと染みた。
***
仕事を終えて帰宅すると、ひよりは自然とスマホを手に取っていた。
ログインボタンを押すと、白い光が視界を包み、次の瞬間、森の匂いがふわりと広がった。
「……ただいま」
その一言に反応するように、NPCたちが一斉に駆け寄ってくる。
「ひよりちゃーん! 今日も来たね!」
「お疲れー! 今日は何作るの?」
「素材なら任せて! 危ないとこ行ってくる!」
「行かないで!?」
ひよりは笑いながら、今日の料理を考えた。
「今日は……スープと、ハーブパンのトーストにしようかな」
エルダが目を輝かせる。
「パン焼くの!? 絶対うまいやつ!」
ひよりはパン生地をこね、焚き火のそばで焼き始めた。
バターがじゅわっと溶け、香ばしい匂いが森に広がる。
スープは黄金色に輝き、ハーブの香りがふわりと立ち上る。
「……いい匂い」
ひよりがつぶやくと、エルダは鼻をひくひくさせながら鍋とパンを交互に覗き込んでいた。
***
そのとき、低く静かな声が森に響いた。
「……また騒がしいな」
木陰から現れたのは、黒いコートをまとい、長い前髪で顔を隠した男——クロウ。
昨日よりも少しだけ、その視線が柔らかい気がした。
「今日も来ていたか」
「え、あ……はい」
クロウはひよりの周りを見渡し、眉をひそめた。
「……この拠点、まだ整備が足りないな」
「えっ」
ひよりが見回すと、昨日整えられたはずの拠点は、まだところどころ不安定だった。
調理台の横の石はぐらつき、焚き火の周りの枝は湿っている。
エルダが笑う。
「クロウ殿、昨日あんなに直したのに、まだ気になるんだ?」
クロウはため息をついた。
「……危なっかしい初心者が使う場所だ。完璧にしておく必要がある」
そう言うとクロウは無言で歩き出し、
調理台の脚をさらに固定し、
焚き火の石を組み直し、
湿った枝を乾いたものに交換し、
足元の石を丁寧に並べ直した。
ひよりはぽかんと口を開けた。
「……すごい……」
「これくらい、誰でもできる」
「いや、できないよ!?」
クロウは視線をそらし、小さくつぶやいた。
「……怪我をされると、面倒だからな」
ひよりの胸が少し温かくなる。
(……心配してくれてるのかな)
***
エルダが思い出したように言う。
「そうだ! クロウ殿、明日だよね? 大会」
ひよりは驚いて顔を上げた。
「えっ……明日なんですか?」
クロウは短く答えた。
「ああ。プレイヤー1位を決める大会だ」
エルダが続ける。
「今年は特別なんだよね。NPCの覚醒が条件の“隠しルール”が追加されててさ」
ひよりは目を丸くする。
「隠し……?」
クロウはひよりを見つめた。
「……あんたの料理が、その条件を満たしている」
「そんな……私、戦えないのに……」
「戦う必要はない。だが……あんたの存在が、誰かの力になる」
クロウの声は低く、静かだった。
「……だからこそ、あんたを狙うプレイヤーも出てくるかもしれない」
ひよりは息を呑む。
エルダが慌てて言う。
「大丈夫! 俺らが守るから!」
クロウはエルダを一瞥し、静かに言った。
「……守るのは俺だ」
ひよりの胸がどくんと鳴る。
クロウは視線をそらし、焚き火の火を整えながらつぶやいた。
「……あんたが危なっかしいからだ。それだけだ」
(……それだけ、なのかな)
ひよりは胸の奥が温かくなるのを感じた。
クロウは焚き火の火を見つめながら、静かに言った。
「……大会が終わるまでに、この拠点をもっと整える必要があるな」
エルダが笑う。
「クロウ殿、完全にひよりちゃんの保護者じゃん!」
「黙れ」
クロウの声は冷たい。
けれど、その横顔はどこか優しかった。




