第1章 小さな疲れと、小さなログイン
平日の朝。
佐倉ひよりは、いつものように満員電車に揺られていた。
事務職の仕事は嫌いではない。
でも、毎日同じ作業の繰り返しで、心がじわじわと疲れていく。(今日もミスしないようにしなきゃ……)
そんなことを考えながら、会社のビルに吸い込まれていく。
昼休みはコンビニのおにぎり。
帰り道は、少し冷たい夜風。
家に帰ると、小さなワンルームの部屋が静かに迎えてくれる。
「……疲れたなぁ」
バッグを置き、ふとスマホを見る。
友達にすすめられたRPG——
**『Eternal Sphere Online』**のアイコンが光っていた。
(……ちょっとだけ、やってみようかな)
ログインボタンを押すと、視界が白く染まり、ふわりと風が頬を撫でるような感覚がした。
次の瞬間——
草原が広がっていた。
淡い緑の草が風に揺れ、遠くには雪をかぶった山脈が連なっている。
空は澄んだ青で、雲がゆっくりと流れていた。
「……きれい」
会社の蛍光灯の下では感じられなかった、胸の奥がふっと軽くなるような感覚。
足元の草を踏むと、さらりと音がした。
風が吹くたび、草の匂いがふわっと漂う。
(……なんか、癒される)
しばらく景色に見とれていると、ぷるん、と小さな音がした。
水色のスライムが、好奇心いっぱいにひよりを見上げていた。
「えっ……倒さなきゃいけないの?」
攻撃ボタンに指を伸ばしかけて、ひよりは手を止めた。
スライムは攻撃してくる気配もなく、ただそこにいるだけ。
(……かわいそう)
そっと横を通り抜けると、スライムはぽよんと跳ねて見送った。
「……戦わなくてもいいんだ」
その瞬間、ひよりのゲームスタイルが決まった。
石畳の街に入ると、露店から香ばしい匂いが漂ってきた。
焼きたてのパン、ハーブの束、スパイスの瓶。
「へぇ……料理できるんだ」
試しに買ったハーブとキノコを組み合わせて、街角の調理台で初めての料理を作る。
——《森の香りスープ》が完成しました。
湯気が立ち、ハーブの香りがふわっと広がる。
スープの表面には、細かく刻んだ葉が浮かび、黄金色のだしがきらりと光っていた。
「……美味しそう」
そのとき。
「おっ、いい匂いするじゃん!」
振り返ると、ひょろっとした青年NPCが立っていた。
明るい笑顔で、軽いノリ。
でも、どこか目の奥に影がある。
「食べる?」
「いいの!? やったー!」
スープを一口飲んだ瞬間、
NPCはぴたりと動きを止めた。
「……これ……やば……」
「やばい味だった!?」
「違う違う! うまい! めっちゃうまい!
てか……なんか……懐かしい……」
軽い口調なのに、その声には震えがあった。
「俺、エルダ。よろしくね、ひよりちゃん!」
「え、名前……?」
「さっきメニュー開いてたでしょ? 見えた見えた!」
「えぇ……」
エルダはにかっと笑った。
その笑顔は、どこか“作り物じゃない”温度を持っていた。
次の日も、仕事は忙しかった。
書類の山、電話対応、上司の急な指示。
(……疲れた)
帰宅してログインすると、森の空気がひよりを包んだ。
「ひよりちゃーん! 今日も来たね!」
「スープ作る? 火加減任せて!」
「素材採ってきたよー!」
「危ないところ行かないでよ!?」
NPCたちの明るい声が、会社では感じられなかった“温かさ”をくれる。
エルダは噴水の縁に座りながら言った。
「プレイヤーってさ、NPCのこと雑に扱う人多いんだよね。
話しかけてもスキップされるし、クエストの道具扱いっていうか」
「そ、そうなの?」
「まぁね。でも……ひよりちゃんは違う。普通に話してくれるし、料理もくれるし…… なんか、嬉しいんだよね」
ひよりは胸が温かくなるのを感じた。
「エルダくんは、エルダくんだよ。
NPCとか関係ないよ」
エルダは目を丸くし、照れたように笑った。
「……やば。惚れるわ」
「えっ!?」
「冗談冗談! でも……ありがと」
その瞬間、エルダの中で何かが“覚醒”した。
夜の街はランタンの灯りが揺れ、石畳に柔らかい影を落としていた。
エルダはひとり、街の門の前に立つ。
「……ひよりちゃん、危なっかしいんだよなぁ。戦闘しないし、すぐ森に行くし……」
深く息を吸い、決意する。
「……よし。あの人に頼むか」
エルダは街を飛び出した。
本来なら絶対にしない行動だ。
草原の夜風は冷たく、遠くで狼の遠吠えが響く。
モンスターに囲まれながらも、彼は必死に走り続けた。
「……クロウ=ヴァルツ……どこだ……!」
そしてついに、黒いコートを揺らしながら歩く男を見つけた。
月明かりに照らされたその姿は、静かで、鋭くて、孤独だった。
「クロウ殿ーーーっ!」
クロウは足を止め、前髪の隙間から鋭い視線を向けた。
「……NPCが、こんな場所に?」
エルダは息を切らしながら、それでも笑って言った。
「お願いがあるんだ。ひよりちゃんを……守ってほしい!」
クロウの眉がわずかに動いた。
「……誰だ、それは」
エルダは真剣な目で言った。
「森で料理してる初心者の女の子。あの子の料理は……俺らの記憶を呼び覚ます。プレイヤーの誰も気づいてない“特別な味”なんだ」
クロウはしばらく黙り、静かに息を吐いた。
「……NPCがここまで言うなら、放っておけないな」
エルダは満足げに笑った。
「だよね! 頼んだよ、クロウ殿!」
——こうして、佐倉ひよりの癒しの世界に、静かな影が歩み寄っていく。




