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復讐霊嬢 ―私を殺した夫を幼馴染の呪い師と断罪します―  作者: ねねこ


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1/3

前編

殺されて幽霊になった令嬢の復讐のお話です。

 湖の中は、静かだった。

 冷たさも痛みもなく、ただ私だけが、沈んでいく。

 このまま湖の底に着いたらそこが天国か地獄の入り口なんだろうか。


 ……どうして。

 どうして、私は死んでいくのだろう。


 最後の力を振りしぼって瞼を開けたとき、視界いっぱいに広がっていたのは、深い群青の闇だった。

 頬をすり抜ける水泡の感触。動かぬ指。重い足、水の中に広がるドレスが花のように思えた。ああ、お気に入りだった靴が脱げてしまったのね、はだしだわ。

 こんな気持ちを最後に、私の意識は終わった。


 ……私は、確かに殺された。

 覚えている。杯に満たされた葡萄酒、笑みを浮かべた婚約者、いや、夫。唇に触れた苦い味。

 吐き出そうとして、グラスごと押さえつけられ、無理やり飲まされた。

 そのあとの強い吐き気と、冷たく沈んでいく感覚。


 ――けれど、どうしてまだ、意識があるの?


 死んだはずの身体は湖の底。けれど、意識が、心だけがどこかに繋ぎとめられている。

 私をこの世に繋ぎとめるのは……。

 その名前を思い出した瞬間、胸の奥が熱くなる。


 リエル。


 あの灰色の瞳を、もう一度見たい。

 どんな姿になっても、彼だけは私を見つけてくれる――そんな根拠のない確信だけが、私の魂をこの世へ縛りつけていた。


 次の瞬間、湖底に落ちた私の体が光に包まれ、魂が剥がれ落ちるように浮かび上がり、夜の湖の外に出た。

 靄のように透ける腕、風を感じない足。

 ああ、私はやはり死んだのだ。

 それでも私は、立ち上がった。

 死者の形をしたまま、再び歩き出すために。

 決して許すことができない者へ鉄槌を下すために。


 

 久しぶりに見る街は変わっていた。

 瓦斯灯が並ぶ通りに、黒い馬車が走り、人々は夜を恐れなくなっていた。

 だが、私に見える世界は色を失い、まるで色あせた灰色の絵画のようだった。

 私の瞳には色がもう映らない。

 でも唯一、導かれるような灯りが滲む建物があった。

 古びた煉瓦造りの屋敷。扉には黒い花の印。

 昔よく遊びに来た場所。


 ――ここだ。


 懐かしい声が耳の奥で囁く。

 幼いころ、いつも一緒にこの屋敷の庭で泥遊びをした。思い出すのは遠慮のない笑い声。

 そこにいるはずの人の気配を、確かに感じた。


 扉をすり抜けて中へ入ると、冷たい空気が頬を撫でた。

 おかしなものね、感覚はなくても部屋の冷たさは分かるのね。

 そのまま、地下の部屋へと赴くと、扉を開けずとも中に入れた。

 部屋の中の机の上には呪符と黒い羽根、床には血で描かれた魔法陣。

 その中央に、ひとりの青年がいた。


 黒髪に、灰色の瞳。

 指先に刻まれた無数の呪いの印。

 ――リエル。


 声を出そうとして、息が漏れた。

 けれど彼は、すぐに顔を上げた。


 「……誰だ」


 低く乾いた声。

 その瞬間、彼の周囲に黒い風が巻き起こる。

 呪いの力だ。亡霊を祓うための防御。

 私は思わず後ずさった。だが、叫んだ。


 「リエル!私よ、セリス!」


 風が止む。

 呪符がひらひらと落ち、床に舞う。

 彼は、息を詰めたまま私を見つめていた。


 信じられない、という顔。

 そして、長い沈黙のあとで、唇が震えた。


 「……そんなはずがない。セリス……お前は、死んだはずだ」


 彼の呪いを見る目に、霊となった私はどんなふうに映っているのだろう。

 最後に会ったのはいつだったかな……もう忘れちゃった。


 「ええ、死んだわ。でも、戻ってきたの。驚かせてごめんなさい」

 「驚いたよ……でも、セリスならいいさ。……どんな姿でも」


 リエルの灰色の瞳が、大きく揺れた。

 そこに浮かぶ涙を見たとき、私はようやく理解した。


 ――ああ、この人は泣いてくれたのだ。

 私のために。死んでしまった私のために。



 

 蠟燭の灯がゆらゆらと揺れる中で、リエルの指先がわずかに震えていた。

 しばしの沈黙。そして、彼はようやく言葉を搾り出した。


 「……セリス。お前の身に、何があったんだ」

 「……」

 「教えてくれ。俺の知っている情報とすり合わせたい」


 私は一瞬、答えをためらった。

 けれど――この人には、嘘はつけない、つきたくない。


 「……初夜の寝室でのことよ。初夜のために用意した、という葡萄酒の杯に毒を入れられたの。苦くて吐き出そうとしたら、無理やり飲まされて……そのあとは湖の底よ」

 言葉を紡ぐたびに、胸の奥が冷たく疼く。

 あの男の殺意に満ちたためらいのない笑みを思い出すと、私の中で炎が燃えあがる。

 「私がいなくなったことは公にされているの……?」


 リエルは黙っていた。

 だが、拳から血がにじむほど爪を立てているのが見えた。


 「ふざけるな……」

 低く絞り出す声。

 「お前が消えたあと、発表されたのは、新婚初日に行方不明だと。それから一月後、魔の森で“遺体が発見された”と報告された。……葬儀まで行われたんだ。おまえの墓は結婚相手の身内以外は近づけないようになってる。おそらく万が一、何も入っていない墓を暴かれたら、という警戒のためなんだろう」

 「……私のお父様が黙っていないのでは?」

 私の言葉に、リエルの灰の瞳がぎらりと光った。

「おまえの父は……タンドール伯爵はお前が行方不明だと知り、すぐに、おまえを探しに行った魔の森でおまえより早く遺体になって発見された。これは俺が検分したから間違いない。魔獣にやられた痕跡があったから、人の仕業じゃない。どうして単独で魔の森へ行ったのかはまだ調査中だが……」

「お父様が……!?それ、本当なの!?」

「ああ、本当だ。タンドール伯爵家は後継ぎを決めていなかったから、おまえの夫が家督を継ぐことになったとつい最近発表があった……」

「なんてこと……」

 私のお父様はとても清廉潔白な人で、陛下の覚えもめでたく、上爵も近いと言われていた。

 将来的には近い親戚から養子を迎えて家督を継がせるつもりだから、おまえは安心して嫁ぎなさいと言われていた。

 「つまり、お前の結婚相手はお前を殺し、その死を不慮の事故として捻じ曲げた。“魔物の犠牲”に仕立てた。そのうえでお前の実家を乗っ取ったんだ……」


 蝋燭の火が吹き消されたように、部屋が闇に沈む。

 リエルの周りの空気が震えた。

 机の上の呪符が、ひとりでに舞い上がる。


 リエルの怒りが暴走し始めていることを悟った私は、慌てて彼を止めようとする。


 「リエル、だめよ……!」


 私は叫んだが、彼に届かない。

 黒い風が巻き起こり、床の血の魔法陣が光を帯びる。

 彼の呪いが発動した。

 それは強力であるが故に発動者の命を削るものだと知っていた。


 リエルの声が暗い地下の部屋に響いた。

 「俺が誓う。お前を殺し、おそらく、伯爵まで殺した者に呪いを与える」


 その言葉に、私は息を呑んだ。

 彼が泣いてくれた優しさと、復讐に命まで捧げようとする苛烈さ。

 その両方が、ひどく愛おしかった。


 リエルの瞳が深い闇のように落ち着きを失っていた。

 私の声も指先も、今の彼には届かない。だが、その震えは確かに伝わる。切迫した熱を伴った震えが、彼の全身から伝染してくるようだった。


 「ダメ……!」

 と、私はもう一度言った。だが、私の言葉は彼の怒りに溶けた。

 彼の呪の気配は膨れ上がり、窓の外を吹く夜風さえも押し返すように、重く、冷たく、部屋を締め付ける。


 リエルはゆっくりと立ち上がった。

 床に置かれた銀の短剣を取り上げる手は粗く、震えが止まらない。短剣の刃先に、自らの指を滑らせて――小さな赤が、硝子のように輝いた。彼はそれを呪符の中央に、血で一滴、垂らした。

 それは初めてみる呪符だった。


「リエル……その呪符は……?」

「これは呪いの代償を誓い、おまえをこの世に縫い留めるためのものだ」


 私の声は驚きと恐怖で細くなる。

 生きている者にしか貸し与えられない力が、ここにある。

 人の命を削る意志が、静かに、しかし確実に動いている。


 リエルは低く、しかしはっきりと言った。


「お前がここにいるためなら、俺は代償を払う。――命の一部をやる。お前を現世に留める代わりに、俺の時を削る」

「リエル……」

「セリス、いいか、これは俺が決めた俺のための復讐でもある。おまえを殺し、恩ある伯爵を……おまえの父を殺した者を許すなどありえない」

 私の反論は、彼の手が振るわれたわずかな動きで止められた。彼は断固として首を振る。

「いいんだ。たとえ俺の命の残り時間をどれだけ削っても、俺はお前を殺した奴らに報いを与える」


 その言葉に、私の胸の奥にあった何かが軋んで壊れた。生前、彼に言いたかったことを、どうしても言えなかった自分への後悔と、彼が私をこの世に抱き留めようとするその必死さ。私は言葉を探したが、見つからない。代わりに、私の魂がふわりと震えた。

 彼にこんな決意をさせてしまったのは私だ。

 ならば私はその責任をとらなくてはならない。


 リエルは短剣で自らの手の甲を深く切り、血を床の魔法陣に沿わせるように塗り広げた。血は呪符の線を伝い、魔法陣を走り、その模様を満たしていく。蝋燭の灯が一瞬、冷たい青白い光へと変わり、部屋の空気が固まる。


 「己が名前を魔法陣に捧げろ」

 リエルの声は命令のようだった。だが、その裏には震えるほどの弱さがあった。

 私は、彼の命令に従った。

 自分の名を、ただ彼が見つめる床の魔法陣に向けて囁いた。


 「セリス・タンドール」


 私の名が呪符に吸い込まれ、魔法陣が輝く中心に、私の姿に似せた小さな像のようなものが現れる。透けるが確かにかたちを持っている。リエルの手のひらから、白い光が漏れ、そこに注がれた。

 像は固まり、像の私は少し微笑んでいるかのようにすら見えた。

 その、代償は……。

 彼の体のどこかで、呪いが刻まれた。鎖骨の部分に黒い紋章が浮き上がるのが分かった。

 彼は息を漏らし、笑った。痛みをこらえる様な、しかし救われたような笑いだった。


 「これで……お前は、俺のそばで形を持ち、声を出せる。触れられないなら、せめて声だけでも聞かせてくれ」

 リエルは震えながらも笑っていた。

 その狂気が愛しく思う私もまたもうおかしくなっているのだろう。

 当然か、だって私はもう死んでいるのだ。


「リエル」

「セリス……」

「私のためにごめんなさい……」

 私はふわりと、彼の背後に寄り添った。世界はまだ灰色だが、私の心には鮮やかな炎の色がある。これはリエルがくれた復讐の意志の炎だ。

「1つだけ約束してくれる?」

 私が囁くと、リエルは短く首を振った。

「なんだ?」

「復讐を手伝ってくれるのは本当に嬉しいけど、どうかそのためにあなたの命をあきらめないでね」

「……なら、一つ俺もお前に約束をしてほしい。この先、お前のいない世界で生きていく意味を俺にくれ」

「それは今はどうしたらいいか分からないけど、これから探すわ」

「ああ、それでいい。俺の大事な幼馴染で恩人の娘のおまえの名を穢す奴らを、俺の全身全霊で焼き尽くてやるよ」

 彼の声には揺るぎがなかった。


 その夜、私とリエルの契約は交わされた。

 私は完全には消えなかった。

 魂だけの薄い形でこの世に留まり、彼の耳に囁き、彼と言葉を交わせる。

 だが代償は重い。リエルの命の時間を削ることが必要なのだから。


「リエル」

「ああ、セリス」

「ありがとう、私の共犯者になってくれて」

「おまえの無念を晴らすためなら共犯者でもなんにでもなってやるさ」


 彼は私の名を呼び続け、私は彼の声を反芻した。

 二人の約束は、復讐という名の小さな種になった。やがてそれは根を張り、枝を張り、結実するだろう。必ずしてみせる。


 私は彼の背に寄り添いながら、静かに言った。


 「リエル。あなたの呪いで、真実を引きずり出して、あの愚か者に鉄槌を」


 彼は私を振り返らずに、ただ一言だけ答えた。


 「――ああ。呪い師(まじないし)リエル・クリスの名に懸けて誓う」


 窓の外の夜は変わらぬ顔で流れていた。だが、その夜から、私たちの時間は復讐と言う結末に向けて進みはじめた。

 この行く末を誰にも邪魔はさせない。



 まず私たちが向かったのは、元々の私の実家だった。

 真夜中の屋敷は静まりかえっていて、人の気配はない。念のため、私が中に入り込んで確認してきたが、見張りも警護もいなかった。

 どうやら彼はこの屋敷を使うつもりはないらしい。門の前に「取り壊し予定」の看板があったところをみると、屋敷を取り壊して新しい屋敷を建てるつもりなのだろう。

「……主人がいなくなったとはいえ、伯爵邸を無人にするなんてな……」

「取り壊し予定の看板があったわ」

「ああ。こんな歴史のある屋敷を取り壊すなんて、よっぽどこの建物を残しておきたくないようだな」

 吐き出すようなリエルの嫌悪に満ちた声に、私は彼を屋敷の中に導くために、裏に回った。

 生垣の一部は今も私が子供の頃抜け出すために壊したままだった。

「懐かしいな、ここ」

「でしょう?昔、よく二人でここから抜け出して森に遊びにいったよね」

 リエルはうちの領地の隣の領地の子爵家の5男で、幼いころは行儀見習いでうちに預けられていた時期があって、その頃に仲よく遊んでいたのだ。

 お父様もリエルのことは気に入っていて、いずれ、私と婚約させても良いと言っていた。幼い私はそれが嬉しくて心待ちにしていたものだ。しかし、リエルが市井に降りて呪い師(まじないし)となったため、その話は消えた。

「ここからなら入れるはずだわ」

「だな」

 リエルが這いずるようにして生垣の穴を抜けて庭の中に体を入れる。シンとした屋敷の冷え冷えとした雰囲気が私とリエルの前にあった。

「こっちよ」

 リエルを導いたのは、お父様から以前聞いていたからくり通路の入り口だった。いや、これは出口か。

「こんなのあったのか……」

「タンドール家の直系だけに知らされる秘密の通路よ。以前、お父様から聞いていたの。ここからなら、お父様の書斎に行けるはずだわ」

 カンテラに明かりをつけ、リエルが通路の入り口から中に入る。

 閉め切った空間だからか、通路も壁も湿った感じはあるけど、足元が滑るようなことはなさげで良かった。通路の両端に掌二つ分ほどの水路があって、地下水が流れている。

 暗い通路を進んだ先に階段があり、そこを上ると回すだけの簡単な鍵があった。

 これはいざ、ここを使うときにここが見つかっても、内側から簡単な鍵でも閉めてしまえば時間稼ぎになるからだと教えられていた。

 鍵を開けて扉を押すと軽かった。

 入口はお父様の使っていた書斎の仕事机の下の床部分だ。

 ギイッと音が響いて床が開き、懐かしい部屋がそこにあった。

 お父様が使っていた重厚な仕事机は触られた形跡があった。

「この部屋を漁った人間も、ここには気づかなかったみたいだな……」

「そうみたいね……」

「ここからどうする?」

「私の部屋へ行きましょう。嫁ぐときには何も持ってこなくて良いと言われていたので、亡くなったお母さまにいただいたネックレス以外は置いていったから、私の部屋も家探しはされていると思うけど、見つかっていなければ、アレが残っているはず」

「分かった、じゃあ行こうか」

 リエルの背中を追うように、すでに懐かしくすら感じる二階の南側の私室に歩を進める。

 廊下に置いてあったはずの先祖代々の置物や絵画が根こそぎなくなっていることに怒りがにじむ。

 さぞ良い値段で売り払われたのだろうなと考えると怒りがマグマになりそうだ。

 取り壊しの看板があったところを見ると、屋敷の中のものは片付けも兼ねて売り払われてしまったのだろう。

「セリス、ここだな?」

「ええ」

 私の部屋のドアをそっと開けると、部屋の中は思っていたよりも荒らされていた。家具は半分壊され、鏡も割れて、カーテンも破れている。

 クロ―ゼットの中にあったはずのドレスも、お父様がくれた宝石類のアクセサリーも、全部空になっていた。

 目に見える金目のものを持ち出しただけじゃなくて、家具を壊してまで、何か隠してないか探したってことか。

 だけど、私が探しに来たのはそれじゃない。

 ひょっとしたら、リエルが使えるかもしれないと思っているものが残っていたら、と思ってきたのだ。

「リエル。ベッドの下の貼り付けてあるものが残っているか確認してくれる?」

「分かった」

 カンテラを手に、ベッドの下にリエルが潜り込む。

「これは……」

「残ってた?」

「ああ。しかし、こんなところに貼ってたのか、セリス」

「そうよ。だって、昔あなたが言ったんじゃない。これは悪夢を祓う札だから、ベッドのどこかに貼るようにって」

「はがすぞ」

「ええ」

 リエルがベッドの下、枕を置いてある辺りからはがしたのは、昔リエルが作ってくれた悪夢を食べるという動物を描いた一枚の札だった。

 色褪せた羊皮紙に描かれたその獣は、ずんぐりむっくりの丸い体形の動物で、リエル曰く、幻獣の一種だという。

 当然、家探しした奴らは、ベッドの下まで確認しただろうけど、古びた札をはがすようなことまではしなかったってことね。

 昔、お母さまが亡くなった後、やたら悪夢ばかり見る時期があって、呪い師(まじないし)に弟子入りしたばかりのリエルに相談したらこの札を作ってくれたのだ。

 この札を使うようになってからは確かに悪夢を見なくなった。

「……ああ、まだちゃんと残ってるみたいだな」

「残る?」

「これは夢喰いの獣を描いた札だ。こいつにはおまえの長年の悪夢がしこたま詰め込まれている。……使える」

 どこか艶めいた陰惨な笑みを浮かべるリエルに、これが助けになるのなら目いっぱい使ってもらおうと決めた。



 アレクシスは最近、毎夜のように悪夢に悩まされていた。

 深い水の底に沈む夢が始まりだった気がする。

 もがいてもがいて目を覚ますとそこは水の底ではなく自分のベッドでしかない。

 汗だくの体の重みと、息苦しさも残るような眼ざめは最悪で。

 そんな悪夢を数日続けてみていると、次第に眠るのが恐ろしくなった。

 次に、睡魔を振り払いきれずに転寝をしていても、悪夢が忍び込んでくるようになった。

 悪夢はスピードを増してきて、最近ではとうとう眠った瞬間に大きな影が剣を振りかざし、首を切り落としてくるようになった。

 時には生きたまま火あぶりにされたり、高い場所から付き落とされたりと多岐にわたる悪夢の内容だった。

 

 アレクシスは目に見えて衰弱してゆき、仕事にも支障が出るようになっていた。

 アレクシス・タンガーは、伯爵家の次男で実家の家督を継ぐことはできないが妻となったセリスの実家のタンドール伯爵家を継ぐ予定だった。

 だが、蓋を開けてみれば、タンドール伯爵家は親戚から養子をもらって家督を継がせることがすでに決まっているという。

 

 ふざけるな……!

 

 自分がタンドール伯爵になることで、実家を継ぐ兄に並ぶことができると思っていたアレクシスは怒りのあまり婚約者となったセリスに冷たく当たった。八つ当たりだと自分でもわかってはいたが、抑えきれなかった。そして、セリスとの婚儀の夜。完全に状況に追い詰められていたアレクシスはやってはいけないことに手を出した。

 タンガー伯爵家には代々伝わる自決用の毒薬があり、それは当主だけが知るものであるはずだったが、アレクシスはその在処を知っていてひそかに盗み出して入手していた。これを兄に使い、兄を亡き者にすれば、タンガー伯爵家の家督を自分が継ぐことができる。そんな恐ろしい野心を正しいと思いこんだのだ。

 兄がいなくなれば、タンドール家はダメでもタンガー家を継ぐことはできる。

 暗い野望はふつふつと沸騰したまま蓋をされてた。だが、そんな沸騰は蓋がはじけて当然だ。

 セリスとの初夜に、彼女は隠していた毒薬を見つけアレクシスを問い詰めたのだ。

「これは一体なんですか?」

 小さな小瓶に入れた青い粉。

 セリスに中身の正体を知られては破滅だ。

「新婚初夜を盛り上げるために使うものさ」

 と、用意していた葡萄酒に小瓶の1/3ほど青い粉を落とす。

「さあ、結婚のお祝いだ。セリス、乾杯しよう」

 自分のグラスも用意して、同じように青い粉を落とす。

 グラスを合わせた音が破滅の始まりだった。

 セリスが口をつけた瞬間、たちまち顔をゆがめて吐き出そうとし、無理やり押さえつけるようにしてグラスの中身を飲ませた。

「ダメだよ、セリス。夫婦になったのだから、僕との初夜のために全部飲んでくれないと」

 その声は甘くもあり、どこか狂気じみていた。

 セリスの目には、恐怖と怒りと、言葉にならない混乱が渦巻く。

 どれほどの時間が過ぎただろうか。ぐったりとしたセリスの体が重くアクレシスの腕に落ちる。

「おや……眠ってしまったか。新婚初夜に夫を放って眠ってしまうなんて、妻失格だよ、セリス」

 腕の中に落ちた美しい妻からは答えはない。

 薬に似た真っ青な顔で永遠に眠ったのだ。

「さて……どうするかな」

 このままにしておいては、明日の朝大騒ぎになる。この毒のことはすぐに父は気づいてしまうだろう。

「セリス……君が眠る場所を決めたよ」

 アレクシスはそっと部屋を出ると裏庭の馬小屋へ行き、一頭の馬を連れ出す。幸い乗馬には自信があったし、くくりつけられても、もう彼女は文句も言わないのだ。部屋に戻ると、ドレス姿のままのセリスをシーツに包んで連れ出し、鞍の後ろにロープで縛りつけた。

 そのまま裏口を出て、向かったのは魔の森と言われる魔獣が跋扈する森の入り口近くにある湖だった。

 湖畔には花が咲いているのが月明りに照らされていた。

 この湖は深く、湖底には魔獣も棲んでいると言われていて、まず人はめったに来ないので、ここに沈めてしまえば見つからないだろう。

 うまくいけば、湖底にいると言われている魔獣が食べてくれるだろう。

 アレクシスは馬からセリスを下ろし、括り付けていたロープを使い湖のそばでたくさんの石を拾ってシーツに投げ込み重しにしたものをセリスにくくりつけ、彼女の体を湖に沈めた。

 そういえば高そうなネックレスをしていたな、あれだけはもらっておけばよかった、と後悔したが、何から足がつくか分からない危険は冒すべきではない、と思い直す。

 セリスの体が湖の底に沈んでいくのを確認して、アレクシスは屋敷に戻った。幸い、誰も起きてきた様子はなかった。

 そのまま寝室に入り、朝を迎える。家令がノックし、顔を出すやいなや、アレクシスは震える声で告げた。

「セリスが……いない……」

 隣で眠っていたはずの妻が姿を消し、窓は開いている。葡萄酒を二人で飲んで眠った昨夜の記憶をポツポツと嗚咽交じりに押し出すように、彼は泣き崩れた。

 悲劇の夫、その演技に疑問を挟む者は誰もいなかった。

 事態はすぐに警邏隊に伝えられ、セリスの実家にも報告された。アレクシスは、昨日の夜の出来事を説明する以外、問い詰められることはなかった。

 だが、この時、アレクシスの頭の中では目まぐるしい計算が渦巻いていた。


 ――これで、道は開けた。

 タンドール伯爵家の家督は、いずれ空席になる。セリスが消えた今、夫である自分がその座を補うのは自然の流れだ。

 悲嘆に暮れる伯爵を支え、家の務めを手伝う。そうすれば、やがて彼の口から“後継”という言葉が出るだろう。

 乗っ取るのではない、当主の座を空席にしないための当然の流れだ。


 セリスの行方はわからないまま、時は過ぎていった。

 焦燥と疲労で弱りきった伯爵に、アレクシスはひそかに毒を垂らす。

物理的な毒ではない、心の毒だ。

 

 タンドール伯爵家で仕事の手伝いをしていたアレクシスが、最初の一滴の毒をこぼす。

「伯爵……あの、実は少し思い出したことが」

「何だね、アレクシス」

「夢うつつでしたので、現実かどうかは分からないのですが……あの夜、寝台のすぐそばで誰かが話していたのです、魔の森に捧げるいけにえにふさわしい、などと」

「なんだと……!?」

「夢うつつでしたので、本当かどうかは私にも判断がつきません。ですが、魔の森には邪神を信仰する邪教の集団が棲んでいると聞いたことがあります。もしかしてセリスは……」

「……」


 伯爵の目の奥で、光が小さく揺れた。

 ――毒は、確かに効きはじめていた。

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