母とのみえない鎖
第一章:葛藤の来訪者
二〇二八年、夏。世良カウンの日常は、AIが制御する完璧な静寂の中にあった。先日、ドローンと液体窒素で蜂の巣を「デバッグ」した一件は、都市の片隅で歪んだ伝説となり、彼の元には解決不能な悩みを抱えた者たちの気配が、磁場のように引き寄せられ始めていた。
ピロン。
静寂を切り裂く、無機質な通知音。スマートフォンの画面に表示された新規メッセージを開くと、支離滅裂でありながら、切迫した悲鳴のような文章が目に飛び込んできた。
差出人:大林 博美
『はじめまして。小森さんからお噂を伺いました。私、もうどうしたらいいのか分からなくて。母が、私のために引っ越すと言っているんです。でも父は反対で。私はグループホームにいるべきなのに、ピアノを弾くためには実家に帰らなくてはならなくて。でも帰ると母と喧嘩になって、お互いを傷つけて、でも離れると寂しいと言われて。自立することが幸せだと分かっているのに、ピアノが、あのピアノがないと私は生きていけないんです。先生、私は間違っているのでしょうか。私は、どうすれば幸せになれるのでしょうか』
テキストデータから、依頼人のプロファイルが瞬時に構築される。長期にわたる精神的な不安定。強い依存傾向。そして、自ら作り出した葛藤の迷宮からの、救いを求める叫び。
世良は、その蒼い瞳をわずかに細めた。まるで、難解なバグを発見したプログラマーのように。彼は一言も発することなく、画面に表示された『受諾』のボタンを、静かにタップした。
翌日の午後二時。予約時間きっかりに、『セラ・ラボ』のインターホンが鳴った。
ドアの向こうに立っていたのは、大林博美、五十八歳。ゆったりとしたワンピースは、彼女の太り気味の体型を隠そうとして、かえってその輪郭を強調している。その顔に刻まれた深い皺と、怯えたように揺れる瞳が、彼女の人生の過酷さを物語っていた。
「こ、こんにちは……。世良、先生、ですよね?」
「ええ。お待ちしていました。どうぞ、そちらのソファへ」
博美は、居心地悪そうにソファの端に浅く腰掛け、大きなハンドバッグを膝の上で固く抱きしめた。
「あの、本当に……。私の悩みなんて、聞いてもらえるんでしょうか……」
「もちろんです。そのために、ここはありますから」
世良は彼女の正面に座ると、ただ黙って、その蒼い瞳で博美を見つめた。急かすでもなく、同情するでもない。ただ、ありのままを受け入れるという、絶対的な肯定の視線。その不思議な圧力に、博美は観念したように、堰を切ったように話し始めた。
「どこから話せばいいのか……。そう、母のことなんです。母が、私がいるグループホームの近くに、引っ越してこようとしてるんです。父と住んでる実家を売って」
「ほう」
「『博美の近くにいてあげたい』『何かあったらすぐに駆けつけられるように』って。一見、いい話に聞こえるでしょ? でも、違うの! 絶対に違うの!」
博美の声が、急にヒステリックな響きを帯びる。
「父は、大反対なんです。『お前は博美をまたダメにする気か!』って。そう、父の言う通りなの。私は、母と離れるために、自立するために、グループホームに入ったんです。それなのに、母が近くに来たら、また元通りになっちゃう! 毎日、母の顔色を窺って、機嫌を取って……。そんなの、もう嫌なんです!」
彼女は一度言葉を切ると、ぜえぜえと肩で息をした。
「でも……」と、声のトーンが今度は弱々しくなる。
「でも、私がそうやって実家に寄り付かなくなったのには、理由があって……。ピアノ、なんです」
「ピアノ」
世良は、短く繰り返した。
「ええ。私の実家には、昔から使っているグランドピアノがあるんです。グループホームにも電子ピアノはあるんですけど、全然違う。鍵盤の重さ、音の響き……。あのピアノじゃないと、私の音は出せないんです。私の生きがいは、ピアノだけなんです。障害者の音楽コンクールに出て、拍手をもらうことだけが、私が生きてていいんだって思える瞬間なの」
彼女の瞳が、一瞬、潤んだ。
「だから、週に一度、ピアノを弾くためだけに実家に帰るんです。そうすると、母が待ってて。『やっぱり、一緒に住めたらいいね』って、優しく言うの。その優しさが、私を苦しめる! 嬉しくもあるけど、苦しいの! 分かりますか、この気持ち!」
「分かります」
世良は、AIがデータを肯定するように、即答した。
「分からないでしょ、先生みたいな人には!」博美は、世良の即答に激しく反発した。
「先生は、何でもできて、自信があって……。私みたいに、ぐちゃぐちゃで、みっともなくて、どうしようもない人間の気持ちなんて!」
「ぐちゃぐちゃで、みっともなく、どうしようもない。だからこそ、あなたは葛藤を作り出し、その中でしか生きられない。ピアノを弾くために実家に戻るという行為は、母親との共依存関係を維持するための、あなたにとって必要不可欠な儀式なのです。違いますか?」
世良の言葉は、何の感情も乗せずに、事実だけを淡々と突きつける。それは、博美の心の最も柔らかな部分を、容赦なく抉る刃のようだった。
「ちが……う……」
博美は否定しようとしたが、その声は震え、言葉にならなかった。彼女はただ、わなわなと唇を震わせ、世良の蒼い瞳を睨みつけることしかできなかった。カウンセリングルームに、重い沈黙が落ちる。
第二章:依存の迷宮
沈黙は、博美の嗚咽によって破られた。それは静かな涙ではなかった。長年抑圧してきた感情が、決壊したダムの水のように溢れ出す、激しい慟哭だった。
「うわあああああん! ひどい! 先生はひどい人よ!」 彼女は子供のように泣きじゃくりながら、膝の上のハンドバッグを叩いた。
「どうしてそんなことが言えるの!? 私がどれだけ苦しんできたか、知らないくせに! 小さい頃から、私はずっといじめられてきた! 太ってるから、何をやってもダメだからって! 学校の先生でさえ、私のことを見て見ぬふりしたのよ!」
世良は、黙ってその言葉の濁流を受け止めていた。彼の仕事は、その濁流の中から、真実という名の砂金を探し出すことだ。
「統合失調症になった時だってそう! お医者様だけが、私の話を優しく聞いてくれた! 私、その先生のことが好きになっちゃって……。本気で、結婚できるって信じてた。でも、先生には奥さんも子供もいた。私は、ただの患者の一人だったのよ! あの時の絶望が、あなたに分かる!?」
「分かりません」と世良は静かに言った。「他人の絶望を完全に理解することは、誰にもできない。私にできるのは、あなたの語る事実から、あなたの行動パターンと思考の歪みを分析することだけです」
「分析!? 私の人生を、分析ですって!?」博美は、泣き顔のまま、世良を睨みつけた。
「ふざけないで! 私の苦しみは、そんなデータみたいに扱われるものじゃない!」
「では、お母さんの話に戻りましょう」世良は、彼女の感情的な抵抗を意に介さず、冷静に話を軌道修正した。
「あなたは、お母さんと傷つけ合っていると言った。具体的には?」
博美は一瞬言葉に詰まったが、再び堰を切ったように語り始めた。
「実家に帰ると、最初は優しいの。『博美、よく帰ってきたね』『ご飯、何が食べたい?』って。でも、しばらくすると始まるのよ。『あんたは、いつまでそんな生活を続けるんだい』『近所の〇〇さんのところの娘さんは、立派に結婚して子供もいるのに』って……。そうやって、私をじわじわと追い詰める!」
彼女は、まるで母親が乗り移ったかのように、声色を変えてみせた。
「私も、カッとなって言い返しちゃう! 『うるさい!』『全部お母さんのせいじゃない!』『お母さんが私をこんな風に育てたからでしょ!』って! そうすると、母は泣き出すの。『なんてひどいことを言うの』って。そして、私も罪悪感でいっぱいになって、『ごめんなさい』って謝る……。毎週、毎週、その繰り返し。もう、疲れちゃったのよ……」
その告白は、歪んだ愛情の物語だった。互いを必要としながら、互いを傷つけずにはいられない。距離が近すぎれば息が詰まり、離れれば孤独に苛まれる。その矛盾した関係性こそが、博美と母親を繋ぎ止める、見えない鎖だった。
「なるほど」と、世良は静かに頷いた。
「お母さんもまた、あなたに依存している。娘を支配し、世話を焼くことで、自らの存在価値を確認しているのです。あなたが自立することは、お母さんにとっても、自己の存在意義を失うことと同義。だから、無意識のうちに、あなたを鳥籠に戻そうとする」
「……そんな……」
「引っ越しの件も、同じです。あなたの近くに住むという行為は、一見、あなたのためを思った親心に見える。しかし、その本質は、あなたのテリトリーに侵入し、再びあなたを管理下に置こうとする、巧妙な支配欲の現れです」
世良の分析は、情け容赦がなかった。それは、博美が薄々感じていながらも、認めたくなかった現実を、白日の下に晒す行為だった。
「じゃあ……じゃあ、私はどうしたらいいの……? 母を拒絶すればいいの? 引っ越しに反対すればいいの? でも、そんなことしたら、母はまた傷つく……。私、母を傷つけたいわけじゃないのよ……」
彼女の声は、迷宮の奥で出口を失った者の悲鳴のようだった。 自立したい。でも、孤独は怖い。 母親から離れたい。でも、傷つけたくない。 ピアノが弾きたい。でも、そのために依存関係に戻るのは嫌だ。
全ての道が、矛盾という壁で行き止まりになっている。
世良は、その絶望的な堂々巡りを、ただ静かに観察していた。彼の蒼い瞳の奥で、無数の思考が高速で回転し、解決への最適ルートを検索している。だが、導き出される答えは、どれも現実的ではなかった。これは、単なるカウンセリングで解きほぐせるレベルの問題ではない。外科手術レベルの、荒療治が必要だ。
世良は、ふっと息を吐いた。その瞳に、ある種の決意の色が宿る。 彼は、この泥沼のような状況を、一撃でリセットする方法を、ただ一つだけ知っていた。
第三章:核心という名の刃
「大林さん」
世良の声は、それまでとは明らかに違う響きを持っていた。それは、診断を下す医師の声であり、判決を言い渡す裁判官の声でもあった。 博美は、びくりと肩を震わせ、涙に濡れた顔を上げた。
「あなたの悩みは、一見すると、母親との関係、父親との対立、そしてピアノという自己実現の三つの問題が絡み合っているように見えます」
世良は、指を一本ずつ折りながら、問題を整理していく。
「しかし、それは本質ではありません。それらは全て、あなたが作り出した、ダミーの課題です」
「ダミー……? どういう意味……?」
「本当の問題は、もっと別の場所にあります」と、世良は続けた。その蒼い瞳が、博美の心の奥底を射抜くように、まっすぐに見つめている。
「あなたは、解決することを望んでいない」
その一言は、静かな部屋に雷鳴のように響き渡った。
「なっ……! 何を言うの! 私は、本気で悩んで、解決したくて、ここにいるんじゃない!」博美は、全身で否定した。侮辱されたと感じたのだ。
「いいえ」世良は、首を横に振った。
「あなたは、悩んでいる状態そのものを必要としている。解決不能な葛藤を抱え、それを誰かに打ち明け、心配してもらう。同情され、注目される。そのプロセスこそが、あなたにとって最大の報酬なのです」
「ちがう! そんなことない!」
「あります」世良の言葉は、揺るがない。
「あなたは、無意識のうちに理解している。もし、この問題が本当に解決してしまったら、あなたはどうなるか。母親との定期的な接触の口実を失い、支援者に相談する理由もなくなる。あなたが他者と関わるための、唯一の『切り札』を失うことになるのです」
「……あ……」
博美の顔から、血の気が引いていく。世良の言葉は、彼女自身も気づいていなかった、心の深層にある恐怖を的確に言い当てていた。
「ピアノも同じです。あなたは、実家のグランドピアノでなければダメだと思い込んでいる。それは、ピアノへのこだわりであると同時に、実家に戻らざるを得ない状況を作り出すための、完璧な言い訳でもある。あなたは、ピアノを人質にして、母親との歪んだ関係を維持しているに過ぎない」
それは、あまりにも残酷な真実だった。 彼女の人生を支えてきたはずのピアノへの情熱さえもが、依存関係を維持するための道具に過ぎないと断じられたのだ。
「やめて……。もう、やめて……」 博美は両手で耳を塞いだ。聞きたくない。そんなはずはない。私の苦しみは、私のピアノへの愛は、本物のはずだ。
だが、世良は攻撃を止めなかった。バグを完全に駆除するためには、その根源を徹底的に破壊する必要がある。
「あなたは、幸せになるのが怖いのです。問題が何もない、平穏な日常が訪れることを恐れている。なぜなら、その時、あなたは誰からも注目されず、ただ一人で自分自身と向き合わなければならなくなるから。自分には価値がないという、根本的な不安と直面することになるからです」
「だから、あなたは悩む。悩み続けることで、自分はまだここにいる、誰か見てくれと、世界に向かって叫び続けている。それが、大林博美という人間の、生存戦略なのです」
「ああ……ああああ……」
博美は、ソファの上に崩れ落ちた。もはや、反論する気力も残っていない。世良の言葉という名の刃が、彼女の心をずたずたに切り裂き、守ってきた嘘の鎧を全て剥ぎ取ってしまった。 そこには、傷だらけで、丸裸の、あまりにも脆く、弱い自分がいるだけだった。
絶望的な静寂が、再び部屋を支配する。 博美は、もう終わりだと思った。この天才カウンセラーでさえ、自分を見捨てたのだと。
その時だった。
カタカタカタッ、ターン!
不意に響いた、軽快なキーボードの音。 博美が顔を上げると、世良がいつの間にかノートPCを開き、凄まじい速度で何かを打ち込んでいた。その表情は、先程までの冷徹な分析官の顔ではなく、楽しそうにゲームに興じる少年のようにも見えた。
「せ、先生……? 何を……してるんですか……?」 博美は、かすれた声で尋ねた。
世良は、ディスプレイの光に照らされた顔を、ゆっくりと彼女に向けた。その蒼い瞳は、悪戯っぽくきらめいている。 そして彼は、まるで世界の法則を書き換える神のように、静かに、しかしはっきりと告げた。
「AIに、お任せします」
第四章:奇跡の調律
「AI……?」
博美は、その言葉の意味を理解できなかった。AIに任せる? この、私の、心のぐちゃぐちゃを? 機械に何が分かるというのか。馬鹿にしているのか。それとも、これは彼の独特なジョークなのだろうか。 混乱と不信が、絶望の底にいた彼女の心をかき乱す。
だが、世良の指は止まらない。その動きは、もはや人間の速さを超越していた。画面には、色とりどりのウィンドウがいくつも開き、複雑なコードと設計図のようなものが滝のように流れては消えていく。彼がアクセスしているのは、明らかに通常のウェブサイトではなかった。
「大林さん。あなたの苦しみは、本物です。しかし、その表現方法は間違っていた」 世良は、キーボードを叩きながら、語りかける。
「あなたは、悩みを打ち明けることでしか、承認を得られなかった。だが、本来、あなたが世界と繋がるべき方法は、別にある。あなたの、その指が持っているはずです」
カタカタカタッ、ターン!
最後の一撃。エンターキーが、決定的な音を立てた。 世良はノートPCを閉じると、満足げに息をついた。
「終わりました。あなたのための、新しい舞台の準備です」
「舞台……?」
「あなたのスマートフォンを確認してください」
博美は、言われるがまま、震える手でハンドバッグからスマートフォンを取り出した。画面には、一件の新規通知がポップアップしていた。
『VRグランドピアノ・セッションルーム "Sanctuary" へようこそ。あなたは、最初のテスターとして招待されました』
「これ……は……?」
「あなたのための、あなただけの演奏空間です」と、世良は説明を始めた。その声には、自らが作り出した作品を披露する、発明家のような誇りが滲んでいた。
「最新のVR技術と、私が少し改良を加えた触覚フィードバックシステムを組み合わせました。世界中に存在する、ありとあらゆるグランドピアノの音色、鍵盤の重さ、ペダルの踏み心地、ホールの響き。その全てを、完璧に再現できます」
博美は、息を呑んだ。そんな、SF映画のような話が、にわかには信じられない。
「もちろん」と、世良は続けた。
「あなたのご実家にある、あのグランドピアノのデータも、先ほど寸分違わずスキャンし、インポートしておきました。製造年、メーカー、長年の使用による鍵盤の癖、調律のわずかなズレまで。あなたは、目を閉じれば、そこが実家のピアノの前だと錯覚するでしょう」
「そ、そんな……。どうやって……」
「企業秘密です」世良は、悪戯っぽく片目をつぶった。
「重要なのは、その"Sanctuary"が、あなたのいるグループホームから徒歩五分の場所にある、空きテナントに、たった今、設置完了したということです。物流ドローンが、必要な機材を運び込み、設置AIが自動でセットアップしました。あなたはもう、ピアノを弾くためだけに、お母さんのいる実家に戻る必要はありません」
実家に戻る必要が、ない。 その言葉は、彼女を縛り付けていた鎖の一つが、音を立てて砕け散った瞬間だった。
「これで、あなたはお母さんと適切な距離を保つことができます。そして、誰にも、何にも邪魔されず、最高の環境で、二十四時間いつでも、あなたの音楽と向き合うことができる」
だが、世良の「奇跡」は、それだけでは終わらなかった。
「そして、大林さん。この"Sanctuary"には、もう一つ、特別な機能が実装されています」 彼の蒼い瞳が、ひときわ深く輝いた。
「あなたの演奏は、希望すれば、匿名で世界中にライブ配信することが可能です。しかし、通常の配信とは少し違う。あなたの視界には、荒らしや否定的なコメントは一切表示されない。聴衆からの賞賛、感動、共感といったポジティブな感情データだけをAIが抽出し、それを美しい光の粒子に変換して、あなたの周囲に降り注がせるのです」
「光の……粒子……?」
「そうです。あなたは、自分の音楽が、顔も名前も知らない世界中の人々を、どれだけ癒し、勇気づけているかを、リアルタイムで体感することができる。あなたはもう、誰かに心配してもらうことで存在を確認する必要はない。あなたのピアノが、あなたの価値を、世界に証明してくれるのです」
博美は、言葉を失って、ただ立ち尽くしていた。 それは、彼女が夢にさえ見なかった、あまりにも完璧な救済だった。 依存からの解放。自己実現の場の確保。そして、傷つくことのない、無条件の承認。 彼女が人生で求め続けてきた全てが、今、目の前のこの男によって、差し出されていた。
「どうして……。どうして、私のために、こんなことまで……」 涙が、再び彼女の頬を伝った。しかし、それはもはや、悲しみや絶望の涙ではなかった。暗く長いトンネルの先に、ようやく見えた、希望の光に照らされた、再生の涙だった。
「あなたは、悩むことから卒業する時が来た。ただ、それだけです」 世良は、静かにそう言うと、穏やかに微笑んだ。その顔は、AIのようでも、天才カウンセラーのようでもなく、ただ、道に迷った人間に手を差し伸べる、一人の優しい青年の顔をしていた。
博美が、夢見心地のまま『セラ・ラボ』を後にしてから、数時間が過ぎた。西新宿の空は、深い藍色に染まっている。 世良は、一人、窓辺に立ち、眼下に広がる都市の光の海を眺めていた。彼のスマートフォンには、ハッキングされた企業からの警告や、不正アクセスを知らせるアラートが鳴りやまない。それら全てを、彼は涼しい顔で無視していた。
ピロン。
また一つ、新たな通知が届いた。
それは、『VRグランドピアノ・セッションルーム "Sanctuary"』からの、最初のセッションレポートだ。 画面には、VRゴーグルを装着した博美が、仮想空間のグランドピアノの前に座っている。彼女が弾き始めたショパンのノクターンは、切なく、優しく、そして、力強かった。長年の葛藤から解き放たれ、ただ純粋に、音楽と一体になった者の音だった。彼女の周囲には、無数の光の粒子が、きらきらと舞い降り、彼女を祝福するように包み込んでいる。その光景は、あまりにも幻想的で、美しかった。
「……ふん」
世良は、鼻を鳴らすと、満足げに口の端を上げた。 彼は、ただ問題を解決しただけではない。一人の人間の生きる意味を、そのOSごと書き換えてみせたのだ。
「まったく……。手間のかかるデバッグだった」
いつもの口癖を呟き、空を見上げる。 この「神業」の噂は、さらに歪んだ形で、都市の深層部へと浸透していくことになるだろう。絶望が深ければ深いほど、その光は強く求められる。 世良カウンの戦いは、まだ始まったばかりである。
物語は、続く。