ハチの巣を八度作られる家庭
第一章
二〇二八年、夏。その年の東京は、沸騰した鍋のように煮えくり返っていた。アスファルトは陽炎を吐き出し、高層ビル群のガラスは空の熱を地上に跳ね返す。街の隅々にまで張り巡らされたAIによる最適化の恩恵も、この原始的な暑熱の前では無力だった。人々はスマートデバイスが弾き出す最短ルートを歩きながら、結局は同じように汗を拭うのだ。
世良カウン(せら かうん)のカウンセリングルーム『セラ・ラボ』は、そんな都市の喧騒から隔絶されたように、西新宿のオフィスビルの十七階にひっそりと存在していた。看板はない。完全予約制。その扉を開けるのは富裕層か、あるいは、富も社会的地位も失い、崖っぷちに立つ人間かのどちらかであった。
「――それで、その……。私、また悪いことをしてしまうかもしれないんです」
ソファに浅く腰掛けた女、小森真澄は、指のささくれを執拗にむしりながらそう言った。五十五歳。年齢以上に疲弊した顔には、諦めと子供のような怯えが同居している。
彼女が通うデイケアサービスには、スタッフが管理するメンバー名簿があった。個人情報が詰まったそのファイルを写真に撮りたいという、病的な衝動が唐突に彼女を襲う。そのたび、彼女は「悪いことをしてしまうかもしれない」とスタッフに告白し、「駄目ですよ」と優しく諭されることで、ようやく衝動の波から解放されるのだ。その危うい儀式によって、彼女の日常はかろうじて成り立っていた。
世良は、黙って彼女の話を聞いていた。相槌も打たず、ただ、その蒼い瞳で真澄の顔をじっと見つめている。アメリカ人の父と日本人の母。彼に異国の血を主張させるのは、そのガラス玉のように澄んだ、どこか人間離れした蒼穹の色を宿す瞳だけだった。日本で育ち、英語はからっきし。鑑定書の上では、自分は限りなく『日本人』の領域に収まるのだろうと、本人はどこかで思っていた。
三十五歳にして、五十以上の職を転々とした男。バーテンダー、トラック運転手、塾講師、システムエンジニア。その混沌とした経歴は、彼の本質が何一つ定まっていないことの証明のようでもあった。ただ、どの場所でも彼は人の心の機微、満たされぬ欲求の疼きを瞬時に見抜いた。それは天賦の才であり、同時に、彼自身を苛む呪いでもあった。
「名簿を写真に撮りたい、という衝動ですね。それは、なぜです?」 世良の声は、夏の暑さを感じさせない、一定の温度を保っている。
「なぜって……。だって、いけないことだから。いけないと分かっていることをしたくて、でも、しない。それを誰かに分かってもらうと、なんだか、ホッとする、というか……」 真澄の言葉は、熱に浮かされたように要領を得ない。
「なるほど。禁止と承認のループによる、自己存在の確認。強迫観念に対する防衛機制の一種ですね」 まるでAIのように、世良は事象を定義する。その正確さは時に人を救い、時に人を深く傷つけた。
「先生は、いつも難しいことを言うのね」 真澄は不満そうに唇を尖らせた。糖尿病を患い、ダイエットを厳命されているにもかかわらず、彼女の鞄からは菓子パンの袋が覗いている。食欲という、より原始的な欲求には抗えない。そのアンバランスさこそが、小森真澄という人間の核心だった。
「難しい話はいいんです」と、真澄は身を乗り出した。「今日は、もっと大変なことが起きたの。家で」
世良はわずかに身じろぎもせず、次の言葉を待った。彼のカウンセリングルームは、二〇二七年の開業からわずか一年で、解決困難な悩みを抱える者たちの最後の駆け込み寺として、その名を密かに広めていた。そして今、彼の蒼い瞳が、また新たな深淵を覗き込もうとしていた。
「うちに、蜂の巣ができたんです。アシナガバチの」
その言葉を合図に、面談室の防音ガラスの向こうで、蝉が絶叫にも似た鳴き声を上げた。二〇二八年の夏は、まだ始まったばかりだった。
第二章
「ベランダの、室外機の下です。こんなに、大きいのが」 真澄は両腕で、スイカほどもある円を描いてみせた。その仕草には、恐怖と、どこか誇らしげな響きすら含まれている。彼女の人生において、それほど巨大で切実な問題が発生すること自体が、稀なのだ。
話の断片から、世良は彼女の生活を再構築していく。 都心から電車で一時間半ほどの、古びた一軒家。そこで真澄は、八十歳になる母親と二人で暮らしている。収入は、国からのわずかな補助金のみ。真澄は働いていない。いや、社会が彼女に働く場所を提供することを、とうの昔に諦めていた。
「お母さんも気づいているんです。蜂がぶんぶん飛んでいるから。でも、私が『危ないから、業者さんを呼んで取ってもらおう』って言ったら、なんて言ったと思いますか?」
真澄の声が、ヒステリックに上ずる。
「『金はどこにあるんだい』って! 『お前みたいな役立たずを食わせていくだけで精一杯なのに、蜂に払う金なんかない』って! いつもそうなの。私が何か言うと、お前は価値がない、役立たずだって……」
堰を切ったように溢れ出す言葉は、蜂の巣への恐怖よりも、母からの拒絶に対する悲しみと怒りに満ちていた。
「あなたとお母さんは、過去に蜂に刺された経験がある」 世良は、カルテに書き留めた情報を確認するように言った。
「そうよ! 二人とも! だから、アナ……アナフィラキシー? それになったら死んじゃうかもしれないって、お医者様にも言われているの。すごく危ないのよ!」
「危険は認識している。しかし、母親は駆除に協力的ではない。それどころか、あなたを非難している」 「そうなの!」 「にもかかわらず」と、世良は続けた。「お母さんは、庭の伸びすぎた雑草を狩るように、あなたに言った。ベランダのすぐ下の」
「……ええ。昨日、やらされました。怖かった……」 真澄は、まるで昨日の恐怖を追体験するように身を縮こませた。
その光景が、世良の脳裏にありありと浮かぶ。ぎらつく太陽。むせ返るような草いきれ。頭上では、十数匹のアシナガバチが警戒しながら旋回している。八十歳の老婆が、その下で鎌を片手に仁王立ちになり、五十過ぎの娘に雑草を狩らせる。娘は怯え、老婆もまた蜂の脅威に内心では汗をかいている。刺されれば、死ぬかもしれない。その極限状況で、二人は互いを縛り付け、傷つけ合うことでしか、親子という関係を維持できない。歪んだ共依存の縮図がそこにあった。
「役所には相談を?」
「しましたよ! でも、『民間の敷地内の巣はご自身で対処してください』って。業者さんの電話番号が載った紙を渡されただけ。冷たいのよ、みんな」
「過去にも、駆除を依頼したことは?」
「あるわよ! 八回も! いつも二万とか三万とか、なけなしのお金でお願いして……。でも、もう無理。本当に、一円だってないんだから」
『八回』。世良はその短い言葉の持つ異様な重みに注目した。
同じ家に、八度も蜂が巣を作った。それは、蜂にとってそこが巣作りに適した場所であるというだけの話ではない。小森家が、外部の危険因子を排除する能力を完全に失っていることの、動かぬ証拠だった。家の綻び、管理の不行き届き。蜂は、その家の脆弱性に引き寄せられるようにやってくるのだ。
世良は、論理的に解決策を探った。 「地域のシルバー人材センターなら、格安で駆除を請け負ってくれるかもしれません」 「お母さんが嫌がるわ。『他人に家の中を見られるなんてみっともない』って」
「では、SNSやクラウドファンディングで事情を説明し、寄付を募るというのは」 「そんなの、やり方が分からない。それに、恥ずかしいじゃない……」
「近隣の方に、協力を仰ぐことは?」 「近所付き合いなんて、ないわよ。みんな、私たちのこと、変な目で見てるもの」
一つ、また一つと、世良が提示する合理的な選択肢が、真澄の語る淀んだ現実の沼に音もなく沈んでいく。金がない。人脈がない。知識がない。そして何より、状況を好転させようとする意志そのものが、長年の貧困と無力感によって削り取られている。
「先生、どうしたらいいの……。このままじゃ、私かお母さん、どちらかが死んじゃうかもしれない。そうしたら、私、一人になっちゃう。一人でなんて、生きていけない……」
真澄は、ついに子供のように泣き出した。しゃくりあげ、鼻水を垂らし、体面も何もかもかなぐり捨てて、ただ助けを求めていた。
世良は、沈黙していた。 彼のAIのような思考回路が、カタカタと音を立てて空回りしているかのようだった。あらゆるパラメーターを入力しても、導き出される答えは「解決不可能」。詰みだ。
彼の蒼い瞳が、わずかに揺らぐ。それは、プログラムのエラーか、あるいは、予期せぬバグの発生か。 カウンセリングルームのエアコンが、低い唸りを上げた。窓の外では、陽が傾き始め、都市の影が長く伸びていた。絶望という名の影が、この小さな部屋をも覆い尽くそうとしていた。
第三章
その夜、世良は眠れなかった。 自室のベッドに横たわり、天井の染みを眺める。それはただの染みだが、彼の目には、巨大な蜂の巣のように見えた。中央の黒い部分は女王蜂で、そこから広がる同心円状の染みは、無数の働き蜂と、これから生まれてくるであろう幼虫たちの蠢きだった。
小森真澄。彼女は、現代社会が生み出した「バグ」のような存在だ。システムからはみ出し、どのカテゴリーにも分類されず、ただ生きているというだけでリソースを消費する。だが、彼女の苦しみは本物だ。母からの罵倒、世間の冷たい視線、抗えない衝動、そして、死への具体的な恐怖。それらが渾然一体となって、彼女の精神を蝕んでいる。
蜂の巣は、その象徴に過ぎない。小森家の内部に巣食った、貧困と孤立と憎悪が凝り固まった結晶だ。それを駆除したところで、また別の場所に、別の形で、新たな「巣」が作られるだろう。分かっている。分かっているが、しかし――。
(今、目の前にある脅威を取り除かなければ、何も始まらない)
世良はベッドから起き上がると、デスクのPCの電源を入れた。ディスプレイの光が、闇の中で彼の蒼い瞳を不気味に照らし出す。彼は、ただのカウンセラーではない。かつて、名うてのシステムエンジニアとして、大手IT企業の基幹システムを一人で構築した過去を持つ。その指は、人の心の機微を解き明かすのと同じ正確さで、デジタル世界の法則を支配することができた。
翌日、再び『セラ・ラボ』を訪れた真澄は、憔悴しきっていた。 「先生、昨日、お母さんが……。蜂に刺されそうになったの」 庭で洗濯物を取り込んでいた、ほんの一瞬の隙。一匹の蜂が、母の首筋を狙って急降下してきたという。間一髪で避けたものの、母は腰を抜かし、それ以来、恐怖で家から一歩も出られなくなってしまった。
「ご飯も食べないの。『もう死ぬんだ』って言って……。どうしよう、先生! 本当にどうしよう!」 真澄はパニックに陥り、カウンセリングルームの中を行ったり来たりと意味もなく歩き回っている。
世良は、そんな彼女の姿を静かに見つめていた。その瞳は、昨夜までの迷いや揺らぎが嘘のように、冷徹なまでの輝きを取り戻していた。まるで、解くべき数式を前にした数学者のように。
「小森さん。落ち着いてください」 世良の声には、有無を言わせぬ力があった。真澄は、はっとしたように動きを止め、彼を見る。
「解決します。その蜂の巣は、私が駆除します」
「え……? でも、先生がどうやって? お金は……」
「費用はかかりません。私の、個人的な興味ですので」
世良はそう言うと、ノートPCを開き、凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。その指の動きは、もはや人間のそれではなく、高速で楽譜を奏でるピアニストか、あるいは複数のアームを持つ工作機械のようであった。画面には、常人には理解不能な文字列が滝のように流れ落ちていく。
「せ、先生……? 何を……?」 真澄は、目の前で起きていることが理解できず、おろおろするばかりだ。
世良は、キーボードを叩く手を止めない。その蒼い瞳は、ディスプレイの光を反射し、銀色にきらめいている。彼は、真澄の顔を見ずに、独り言のようでもあり、あるいは彼女への最終通告のようでもある声で、はっきりと告げた。
「AIに、お任せします」
第四章
その言葉は、真澄にとっては何の意味もなさなかった。「AI」と言われても、彼女が思い浮かべるのは、役所の受付にいる無愛想なアンドロイドか、天気予報を読み上げるスマートスピーカーくらいのものだ。それが、どうしてベランダの蜂の巣と結びつくのか、皆目見当もつかない。
だが、世良の指は止まらなかった。 彼がアクセスしていたのは、行政サービスでも、民間の駆除業者のサイトでもない。東京全域の物流とインフラを管理する、巨大な統合管制AIの深層部だった。表向きは公開されていない、開発者用のバックドア。かつて彼がその設計に携わった際に、万が一の暴走に備えて密かに残しておいた「鍵」である。倫理的にも、法的にも、限りなく黒に近いグレーゾーン。いや、完全なブラックだ。だが、彼の表情に罪悪感の色はなかった。これは暴走したシステムに対する、正当な「デバッグ」なのだと、彼は自分に言い聞かせていた。
カタカタカタッ、ターン!
最後の一撃。エンターキーが、乾いた音を立てた。 世良はPCを閉じると、静かに立ち上がった。
「小森さん。行きましょう」
「え? どこへ?」
「あなたの家です。ショーの始まりに、依頼人が立ち会わないわけにはいかないでしょう?」
世良の運転する年季の入った国産車が高速道路を走り、やがて見慣れた郊外の景色に入る頃には、日はとっぷりと暮れていた。真澄の家の前に車を停めると、生ぬるい夜の空気が二人を包んだ。虫の声が、闇の深さを際立たせている。
「本当に……大丈夫なの?」 真澄は不安そうに、自宅の二階を見上げた。そこだけが、闇の中でぽっかりと口を開けているかのようだ。
「大丈夫です。見ていてください」
世良がスマートフォンの画面をタップすると、遠くの空から、小さな飛行音が聞こえてきた。それは徐々に近づいてくる。ブーン、という蜂の羽音とは違う、もっと硬質で、機械的な音。
やがて、闇の中に五つの光点が見えた。 それは、最新型の配送用ドローンだった。通常は、処方薬や食料品を運ぶための機体だ。それが五機、寸分の狂いもない編隊を組んで、小森家の屋根の上、高度三十メートルで静かにホバリングしている。
「な……なに、あれ……?」 真澄は目を丸くした。
世良は答えず、再びスマートフォンを操作する。 すると、五機のドローンのうち、中央の一機がすっと高度を下げ、小森家のベランダへと吸い寄せられるように近づいていった。その機体の下部には、通常の商品コンテナではなく、銀色に輝く特殊なノズルが取り付けられている。
ドローンは、蜂の巣から三メートルの距離で停止した。蜂たちを刺激しない、絶妙な間合い。 次の瞬間、ノズルから白い冷気が、霧のように噴射された。
シュゥゥゥゥ―――ッ!
液体窒素だ。 マイナス百度以下の冷気が、アシナガバチの巣を瞬時に凍てつかせる。巣の表面にいた蜂たちは、何が起きたか理解する間もなく、白い氷の彫像と化した。巣の中にいた女王蜂も、幼虫も、蛹も、その生命活動を永遠に停止した。
一分の後、噴射が止まる。 今度は、編隊を組んでいた残りの四機が動いた。二機が左右から回り込み、特殊なアームで氷塊と化した巣をがっちりと掴む。もう二機は、その下に待機し、万が一の落下に備えてセーフティネットを展開している。その連携は、まるで熟練の職人チームのように完璧だった。
氷の巣は、ゆっくりと、そして静かにベランダから持ち上げられ、夜空へと上昇していく。 やがて、五機のドローンは再び編隊を組み直し、飛び去っていった。処理された巣は、行政が管轄する焼却施設へと運ばれるようプログラムされている。後には、静寂と、唖然として立ち尽くす真澄だけが残された。
「……うそ……」
数分間の出来事だった。悲鳴も、怒号も、混乱もない。あまりにも静かで、効率的で、美しいとすら言える、完璧な駆除作業。まるで、外科医が患部を精密に切除する手術のようだった。
「終わりましたよ、小森さん」 世良の声が、夢から覚ますように響いた。
「これが……AI……?」
「正確には、AIに命令を下した、ただの人間ですが」
世良はそう言うと、悪戯っぽく笑った。その顔は、AIのようでも、天才カウンセラーのようでもなく、ただの少し変わり者の青年の顔をしていた。
真澄は、何も言えなかった。ただ、涙が頬を伝っていた。それは、恐怖や悲しみの涙ではなかった。生まれて初めて、誰かが自分のために、こんなにもスマートで、圧倒的な力を行使してくれた。その事実が、彼女の心の奥底にある、固く凍り付いていた何かを溶かしていく。
自分は「役立たず」でも「価値がない」人間でもないのかもしれない。そう、生まれて初めて、思えたのだ。
家の中から、母親が「真澄? 何かあったのかい?」と声をかけてきた。その声には、いつものような棘がなかった。彼女もまた、窓から全てを見ていたのかもしれない。
「……なんでもない。もう、蜂はいないわ」 真澄は、自分でも驚くほど、しっかりとした声で答えた。
世良は、その様子を満足げに見つめていた。彼の蒼い瞳が、夜の闇の中で、ひときわ深く、そして穏やかに輝いている。 彼は、ただ蜂の巣を駆除しただけではない。一つの家族の中に巣食っていた、絶望という名の巣を、ほんの少しだけ、解体してみせたのだ。
もちろん、これで全てが解決したわけではない。明日になれば、また新たな問題が彼女たちを襲うだろう。だが、今夜、この瞬間だけは。
「まったく……」 世の理不尽さに呆れるように、あるいは、自らの行いを少しだけ照れるように、世良はいつもの口癖を呟いた。
「……それでも、悪くない結末だ」
彼のカウンセリングルームに、また一つ、奇跡のような実績が刻まれた。
そして、この「神業」の噂は、やがて新たな、そしてさらに厄介な悩みを抱える者たちを、彼の元へと引き寄せることになる。
物語は、まだ始まったばかりである。