高いところに立ったときの話
すごい爽快感だったよ。たぶん緩い風だったんだと思うけど、汗が浮いていたからすごく冷たく感じた。冷たいから強風だと錯覚してまたドキドキして。
足元を見ると、もう躰は完全に外に出ていた。手すりについてる柵が細すぎてかたい安全靴のつま先はねじ込めない。なんとかちょっと引っ掛けて、そこに全体重を預けてね。
手が汗で滑った。何度も握り直した。
カン! って、一歩踏み外したときは、もう。
「ヤバイ!」
ってさ。腕ごと手すりにしがみついて爆笑。おかしくっておかしくって。探索用に背負ってきたリュックが重いんだ。もう脱ぎ捨ててやろうかなって。
もちろん捨てたりしないよ!
それじゃ目的を果たせない。
ボクは息を整えて、靴を横に傾けるようにして鉄柵の隙間にねじ込んだ。それだと、ほんの少しだけど入ったんだ。
それから、とっくの昔に扉を通り越してるのに気づいてよじ登った。
でも、まだ難題があった。
屋上にでるにはアパートの壁に埋め込まれた点検用の短い梯子を登る必要があって、そこにも鍵がついてたんだ。この世界の人たち――それとも日本の人たちかな? すごい安全意識だなって思ったよ。ボクとしてはいい迷惑だ。
ボクは壁伝いに手すりのうえに立った。手をうえに伸ばすと、屋上の端まで十センチくらい足らなかった。ボクはいった。
「……よし」
なにが?
「ジャンプすれば届く……!」
なにがよしだよ。それが正解だね。ボクは唇をすぼめて息を吐いた。吸って、吐いて、また吸って、ちょっとだけ屈んで跳んだんだ。
てのひらが天井の端にかかった。それから、唸りながら躰をひきあげて右腕を伸ばした。
これはアパートに限った話じゃないんだけど、建物の屋上は雨を外に漏らさないように小さな壁で囲ってあるんだ。そうじゃないと酷いことになるからね。
その小さな壁が、ボクの手がかりになった。
足をあげるために躰を振るときは怖かったよ。
そう――そのときはじめて、ボクは怖いと思った。
おとなになった瞬間さ。
ボクは靴裏から感じる程度に斜めになった屋上で足を踏ん張りフチまで歩いた。手すりなんてないから少し怖かった。もうおとなだから。
でも、苦労して登った甲斐はあったよ。
ちょっと風は強かったけど、素晴らしい眺望だった。高さがあるから足元に広がる残骸の街にも寂寥を感じない。邪魔になりそうな建物もほとんどない。それに人も動物もいないから空気が澄んでた。ずっと遠くまで見晴らせたよ。
もちろん、さっきもいったように四十キロ先までは届かないんだけど。
それでも方位磁石が指し示す東京の方角には、青く霞みがかったビル群と赤い鉄塔が見えたんだ。本当はもう少し先なんだとは思う。でも、そのときボクは、
「あそこに行くんだ……」
って、なんだかワクワクしてた。
背負ってたリュックを足の間に置いて地図帳を出した。主要幹線の方角を確認して双眼鏡を覗くんだ。車が二、三台はならんで走れるような道があればそれだと思ってね。
道はすぐに見つかった。
「やった!」
ボクは双眼鏡を覗きながら歓声をあげた。それからすぐに地図を見下ろして落胆した。地図に書いてある道と角度がちがったんだ。地図帳に書いてあるのはほとんどまっすぐ縦に伸びていたんだけど、ボクが見つけた道は真横に伸びてた。
でも、それくらいで諦めるボクじゃない。
なんでもいいんだ。地形を確認できるものはないかとボクは地図を睨んだ。それで気づいたんだ。地図には川も書かれてる。
ボクは双眼鏡を覗いて緑を探した。水があるところには草木が生えるからね。
最初に見つけたのは公園だった。大きな公園。茶色い建物を囲むように森みたいになってるんだ。それからアパートの庭木だったり、街路樹っぽいやつとか。それから建物と建物のあいだから小川が見えた。あとはずっと辿っていけば大きな川にたどりつく……と思ったんだけど甘かったね。川はなかった。
もうひとつため息が出たよ。
これではっきりわかってしまったからね。
ボクが持ってた地図は古かった。古いといっても十年とか二十年とか、そういう単位の古さじゃないよ。時嵐と変震が起きるまえって意味の古さなんだ。
その地図帳を手に入れたのは一ヶ月以上前だった。そのあいだに起きた変震は大小あわせて十回くらいだと思う。建物はいくつも入れ替わったし、家の前の道も方向が変わった。その時点で半分くらい気づいていたんだけど、確証を得たって感じかな。
別に悪いことじゃない。ちょっと落ち込んだけど、同時によかったとも思った。変震のたびに新しい地図――座標と、そこになにがあったかを書き込んだ地図もどきを更新してきた意味が高まったんだ。自分の仕事に価値がでてくるのは良い気分だよ。
それに、もうひとつ嬉しいことがあった。地表をうろうろしているときは気づけなかった大きな建物をいくつか見つけられたんだ。
ただの建物じゃないよ。てっぺんに大きな看板がついた建物だ。
看板をつけている建物といえば?
そう。ショッピングの時間だ。
ボクは屋上からボクの家を探した。建物のなかを歩き回って方向感覚が狂っていたからちょっと苦労した。足を滑らせたりしたら大変だ。地上七十五メートルから瓦礫の山にダイブさ。熟しすぎたトマトみたいにべちゃってなるよね、まちがいなく。
ボクは慎重にフチに寄って、ボクの家の屋根に立てた新しい旗を見つけた。今度のはベッドシーツ二枚を張り合わせて赤いペンキで書いたんだ。
『ボクはここにいるよ!』
名前の代わりに、黄色のペンキでトボけた目をした黄金の鶏の絵を描いた。
「いまは留守にしてるけどね」
金鶏と目があったボクは、自分でいって自分で吹いた。




