2-10 Welcome
十、Welcome
二〇×一年 十二月 二十六日
七時過ぎ。
普段よりも遅く目を覚まして、ヒカルはベッドの上に体を起こした。
ふと、目についた左手。アナザーを砕いたそれを、ヒカルはなにかを確かめるように何度も握った。
リビングの方で物音がしたように思って、ヒカルはベッドを離れて部屋を出ていく。
リビングのドアの向こうには、リリカの姿があった。リリカは寝巻姿で、胸の前に水の入ったグラスを手にしている。
「お、おはよう」
リリカが、片手で髪を直す仕草をした。
「おはよう。眠れた?」
「うん。アオ姉は、まだ寝てる」
昨日、遅くに帰宅した後、リリカは東條家のアオイの部屋に泊まった。アオイが熱心に勧めたからだ。あんなことの後で、一人にしておきたくないと思ったのだろう。
ヒカルはキッチンへいくと、グラスに水を注いで一気に飲み干した。
体が、重い。疲労もあるが、ほとんど眠れなかった為だ。
昨夜ベッドに入った後、ヒカルの脳裏には様々な出来事が思い返された。キツネや、インドラ、アナザーに変化した女のこと。それから、リリカとのこと――。
リビングのソファーで水を飲んでいるリリカの横顔を見て、ヒカルは自分の顔が赤くなっていくのが分かった。
気持ちを、伝えただけだ。それだけでこんなにも意識してしまうとは、ヒカルは思っていなかった。メリーゴーランドでの出来事を思い出すと、恥ずかしいような、むず痒いような不思議な気持ちになる。
「昨日のこと、ニュースになってる」
リリカは、スマートフォンを眺めている。
ヒカルは曖昧に返事しながら手元に視線を落として、それから再びリリカの横顔に視線を送った。ヒカルはインドラやキツネ、あのアナザーのことを考えようとしたのだが、今はどうしてもリリカの方が気になってしまう。
リリカは顔を上げると、キッチンの方へやってきた。
ヒカルは、緊張している自分に気付いた。
「ヒカル。お腹、空いてる?」
「え、うん。そういえば、昨日の夜は食べてなかった」
「私も。ね、ホットケーキとか、どう?」
いいよと答えて、ヒカルはボールを取り出した。
隣ではリリカが、壁に掛けられたヒカルのエプロンに手を伸ばしている。
ヒカルの不思議そうな視線に気付いたのか、リリカは顔を赤らめた。
「あの、ね。これだったら、私でも作ってあげられるかなって。ヒカルみたいに、上手には出来ないかもしれないんだけど……」
リリカは照れながら、髪を一つにまとめている。
ヒカルは思わず、リリカを抱きしめたいような衝動に駆られた。しかし、リビングの隣の部屋にはアオイが居る。
ヒカルは冷静になるように自分に言い聞かせながら、一緒に料理することをリリカに提案した。ヒカルもリリカに作ってあげたいのだと伝えると、彼女は笑顔を見せる。
姉の存在を自分に言い聞かせながら、ヒカルはリリカの隣に立って冷蔵庫に手を掛けた。
すると、リリカがヒカルの背に顔を寄せた。
ヒカルは、そっとリリカの方へ視線を向ける。
ヒカルと目が合うと、リリカは悪戯がバレた時のような顔で目を細めた。彼女は、耳まで赤くなっている。
ふと、ヒカルの目が、リリカの首にゴールドのチェーンを見つけた。寝巻の下に、リリカはヒカルが贈ったネックレスを着けている。
隣の部屋にはアオイがいると、ヒカルは自分に言い聞かせた。更に、アオイはとにかく耳がいいのだと、ヒカルは重ねて言い聞かせる。
しかし気付くと、ヒカルの腕の中にはリリカの姿があった。驚くヒカルの心とは裏腹に、腕には力が籠っていく。
「ね、ちょっと、苦しい……」
「え、ああ。ごめん!」
そんなに力を込めてしまっただろうかと、ヒカルは慌てて腕を解く。
リリカは照れている自分を見られることを嫌がって、ヒカルの胸に顔を押し当てた。
「もっと……優しくがいいの」
ヒカルの目には、俯いたリリカの首筋が映る。
そうしてヒカルは姉のことなどすっかり忘れて、再びリリカを抱きしめていた。
自分の心臓の音とリリカの心臓の音とが重なっていく事に気付くと、ヒカルはそれを嬉しく思う。ようやく、自分の家に帰ったような実感が沸いたのだ。
「もう。このままじゃ、お料理出来ないじゃない」
「うん。……でも、僕はもう少し――」
「アオイさん。戻りました」
リビングのドアが開くと同時に、ヒカルの体はリリカに突き飛ばされていた。
「淡路さん!」
「二人とも、おはよう。……邪魔しちゃったかな?」
「べつに、そんな、全然! ねえ、ヒカル?」
リリカに同意を求められ、ヒカルは右足の小指を抑えながら無言で頷いた。淡路の登場で驚いたリリカに突き飛ばされた時に、キッチンボードの角に小指をぶつけたのだ。
ヒカルは痛みを堪えつつ、視線をリリカの方へ戻す。すると彼の視界には、リリカの向こうに置かれた大きなスーツケースが目に入った。長期の海外旅行にでも持ち出せそうなサイズだ。
何故そんなものを持っているのかと尋ねようとして、ヒカルは淡路の手に段ボールが抱えられていることに気付く。
「姉のですか? すみません。運ばせてしまって」
「いや、僕のだよ。だから、気を遣わなくて大丈夫。あと二箱、玄関においてあるんだ」
淡路はいつもの笑顔を見せ、キャスターで家の床を傷つけないように注意を払いながらスーツケースを運んでいく。そうしてアオイの名を呼びながら、彼女の部屋の戸をノックした。
ヒカルとリリカは、慌てて淡路を追いかける。
「あの! 淡路さん。アオ姉、まだ寝てて」
「昨日、遅かったからね。ただ僕も、出来れば荷物の搬入だけでも済ませておきたくて」
「いや、あの、荷物の搬入って……?」
「あれ、聞いてないかな?」
淡路がアオイの部屋の引き戸に手を掛けようとした時、それは静かに向こう側から開いた。
ドアの向こうには、眠そうな顔で毛布に包まったアオイが立っている。
アオイは寝ぼけたような声で、「早かったのね」と言ったようだった。実際にはそれは途切れ途切れで、ヒカルには正確に聞き取ることが出来なかったが。
「アオ姉……?」
嫌な予感がして、ヒカルは息を飲んだ。
アオイは大きな欠伸をして、まだ少し寝ぼけた様子で淡路になにか耳打ちする。淡路はそれに、笑顔で頷いて応えた。
その仕草を、ヒカルは何故かとても不愉快に思う。
「午後から仕事だから、荷物を運び込んだら僕も少し休ませてもらうよ」
淡路は、普段と変わらない笑顔を見せた。
「今日から、お世話になるよ。よろしくね。二人とも」
コツンと、淡路の指がスーツケースを叩いた。
なんの冗談だろうと思ったが、視界に映り込む淡路の荷物がヒカルの思考を現実へと連れ戻す。
ヒカルが説明を求めてアオイの方をみやると、彼女は弟の視線から逃げるように顔を背けて部屋の奥へ戻っていく。
ヒカルは、アオイの名前を呼んだ。
リリカが何故かとても嬉しそうに、淡路に手伝いを申し出ている。その声を聞きながら、ヒカルはもう一度アオイの名前を呼んだ。
アオイは応えず、ベッドの上にごろりと横になっている。
「……ちゃんと、説明してくれよ! アオ姉!」
ヒカルが詰め寄ると、アオイは頭まで布団を引き上げた。更に、ぐうぐうと、下手な狸寝入りまで始めている。ヒカルの怒りが落ち着くまで、アオイはこのまま粘るつもりなのだ。
ヒカルの後ろでは、淡路とリリカが「朝から賑やかだ」と呑気な会話をしている。
キツネのこと。インドラのこと。リリカとのこと。それから、淡路のこと――。様々な事が目の裏でグルグルと回り出し、ヒカルは混乱で頭が破裂しそうだと感じた。
始まろうとしているのではない。既に、何かが始まっているのだ。
布団に隠れたままのアオイを見て、ヒカルは呆れた。そうして彼は、やり場のない思いに頭を抱えるのだった。
第二部 完
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