2-9 始まりの合図 ⑩
*
十九時四十五分。
繰り返し名前を呼ぶ声に気付いて、リリカはそっと目を開いた。
目の前には、心配そうな友人たちの顔がある。
(ヒカル……?)
呼びかけは、声になっていなかった。
ヒカルの姿は、見当たらない。自分は夢を見ていたのだと気付いて、リリカはそれを悲しく思った。
「心配したんだから!」
友人のヒマワリが、リリカに飛びつく。
「ヒマちゃん。マリィ。ごめん……」
ベンチの上に体を起こして、リリカは友人の体を抱きしめた。
その肩越しに、リリカは視線を感じて顔を向ける。チェックシャツの男の子が、涙で顔をグシャグシャにしてリリカの無事を喜んでいる。
マリイは、彼が最初にリリカを見つけたのだといった。
「り、リリカちゃん! どうしても、二人で話したいことがあるんだ」
チェックシャツの男の子が、顔を真っ赤にしている。
その様子を見て察したヒマワリが、目で合図を送った。
リリカはそれに、「大丈夫」と返す。
それでも暫くの間、ヒマワリもマリイもリリカを心配して渋っていた。マリイには、自分が男友達を連れてきたという負い目もあったからだ。
(リリカ。大丈夫。あたし達で、なんとかするから)
(そうなの~。もともと、私のせいでもあるし~。リリちゃん、ごめんねぇ)
友人達の笑顔が、リリカには眩しい。
欲しいものは、もうここにある――それに気付くと、リリカの目の端には涙が滲んだ。夢で見たヒカルの姿が、リリカにはなにかの予感のように思えている。
(いつまでも、同じままではいられないよね……)
昼間に見たヒカルの姿が、リリカの目の裏に浮かび上がった。あの時ヒカルの隣にいたのは、自分ではない小柄な女の子だ。
「あ、あの、リリちゃん……!」
マリイが、慌てた様子でリリカの肩を叩く。その隣ではヒマワリが、驚いたような、期待するような顔でマリイと同じ方を見ている。
リリカは訳も分からぬまま、マリイの指さす方へ振り返った。
リリカの視線の先には、ヒカルがいた。
ヒカルは上着のポケットに手を入れて、白い息を吐きながら、リリカ達の元へと向かってきている。
「……じゃ、あたし達は、先に帰ろっかな」
「そうねえ。そうしましょ~!」
クスクスと楽し気に笑って、ヒマワリとマリイはリリカの肩を叩いて去っていく。二人はそれぞれの彼氏の元へ行くと、彼らを急かしてエントランスの方へ歩き出した。
唯一人、チェックシャツの男の子だけは、リリカの傍に残っている。
リリカは、自分の顔がどんどん熱くなっていくように思った。
「リリカ。みんな、無事でよかったよ」
ヒカルは傍へやってくると、遠のいていくリリカの友人達に目をやった。
「ヒカルこそ。……来てたんだね」
一緒にいた筈の女の子がいないことが気になって、リリカはヒカルの顔から目を逸らした。どうして今は、独りでいるのか。その理由は、とても聞けそうにない。
「あの!」
突然の大声で、リリカはようやくチェックシャツの男の子の存在を思い出す。
チェックシャツの男の子は、ヒカルの方を真っすぐ見ていた。
「僕は、及川さんと同じピアノ教室に通っている、井上です。今日は及川さんにお願いして、トリプルデートしてたんです」
リリカはようやく、チェックシャツの男の子の名前を覚えた。
「東條です。どうも。……井上さんは、帰らないんですか?」
「え……僕は、リリカちゃんと二人で、話がしたいんです。東條君こそ、帰らないんですか? もう、ゲートも開いてるし、店も営業再開するって放送がありましたけど」
間を開けずに、「帰りますよ」とヒカルが答えた。
リリカは、思わず泣きそうになった。
「おいで、リリカ。帰るよ」
俯いた顔の前に、差し伸べられた手。大きくてゴツゴツした、ヒカルの手だ。
手を伸ばそうとして、リリカは直ぐにそれを躊躇った。脳裏には、あの時の女の子が浮かんでいる。
「あの! だから、僕はリリカちゃんと話したいんです。リリカちゃんは、僕がお家まで送っていきますから!」
「じゃあ、遠慮してください。リリカ、僕の家に帰るんで」
行くよと、ヒカルがリリカの手を引く。
リリカは唖然としたまま、ヒカルに手を引かれて歩き始めた。
チェックシャツの男の子――井上はマリイやヒマワリに声を掛けられ、少し遅れて反応を返した。彼は自分が失恋したことを分かっていたが、それが余りにも突然に終わったことで多少の混乱を抱えている。
この後、井上は失恋をバネに芸術方面での才能を開花させていくことになるのだが、それはまた別のお話――。
井上が友人たちに合流する後ろで、ヒカルとリリカはエントランスとは反対方向に向かっていた。
「……あんな言い方、絶対に誤解されたじゃない」
「いつも、家に来てるだろ?」
「そうだけど、言い方!」
前を行くヒカルの背を、リリカは見つめている。
ヒカルが言葉を返さなかったので、リリカは彼が自分に呆れているのではないかと不安に思った。
本当は、嬉しかったのだ。それなのに余計なことが気になって、どうしても素直になれない。
「アオ姉の所に行くの? ……私が居ること、アオ姉から聞いたんでしょ?」
アオイは怒っていたかと尋ねると、ヒカルはそうだと答えた。
ヒカルはスマートフォンを取り出して、何か確認するような仕草を見せる。それから彼は、水族館のある方へ目を向けた。
リリカも、同じように目を向ける。
人々の声は聞こえてくるものの、他に変わった様子はない。
「ねえ。ヒカルも、一緒にお説教されるんだからね?」
うんと、ヒカルが頷く。
ヒカルはスマートフォンをポケットにしまうと、再び前を向いた。
「アオ姉、怒ると怖いんだから。一人で逃げちゃ、ダメなんだからね?」
再び、うんと、ヒカルは頷く。
程無くして、二人はメリーゴーランドの傍へやってきた。
アドベンチャーニューワールドのメリーゴーランドは二階建てになっていて、上から下までゴールドを基調とした装飾で埋め尽くされている。
リリカは思わず、それに目を奪われた。
「乗っちゃおうか」
驚くリリカの手を引いてステップを上がると、ヒカルは並んだ馬や馬車、小人の置物の間を縫うように歩いていく。
メリーゴーランドの照明は点けられたままだったが、係の姿は見えなかった。避難して、まだ戻っていないのだろう。
上がってみようと言って、ヒカルは二階へ向かった。
リリカも、その後を追う。
メリーゴーランドの天井は一面が鏡になっていて、それは周りの光をキラキラと反射させていた。
「あったよ。リリカ」
ヒカルは、馬車の前で止まってリリカに手を差し伸べていた。
金の手綱を着けた白い馬が牽く、花の装飾を施された赤い馬車。
(覚えてたの……?)
リリカは、驚きを隠せなかった。目の前にあるのは、子供の頃に自分がいつか乗せてとせがんだ馬車そのものだ。
促されるまま、リリカは席に腰を下ろす。
音楽もなく、人の姿もない。そんなメリーゴーランドの中は、リリカには全く知らない場所のように見えた。
ヒカルはスマートフォンを取り出して、また遠くの空を見ている。
そして直ぐに諦めた様子で振り向くと、カバンから角の潰れた箱を取り出した。
「ちょっと色々あって、箱が潰れてるんだ。ごめん」
開けてみてと、ヒカルの目がいう。
リリカは驚きつつも、包装とリボンを丁寧にそっと外した。箱の中には、一粒石のネックレスが入っている。
「『赤いお花のついた馬車』に、『一番星みたいなネックレス』……覚えててくれたんだ」
リリカの言葉に、ヒカルは無言で頷く。
「あんなに昔のことなのに……」
「『フリージアみたいなスカート』に、『スズランみたいなイヤリング』。十七歳の誕生日は『真っ赤なおクツ』で、その次は『マーメイドみたいなドレス』だろ? 全部、覚えてるよ」
ヒカルは、少し照れ臭そうに笑った。
リリカの手の中で、ゴールドの鎖と小さなダイヤが輝いている。
リリカの中には今、ヒカルの言葉を嬉しくてたまらなく思う気持ちと、それを邪魔する気持ちとがあった。どうしてもヒカルと一緒に居た女の子のことが気になって、「ありがとう」の一言が出てこない。
リリカの目からは、涙が零れ落ちた。
「ヒカルは、今日、どうしてここへきたの?」
ヒカルは、リリカの目を真っすぐ見ていた。その口元は、固く閉ざされている。
突然、大きな音がした。
ヒカルの後ろで、夜空に音と光が舞って輝いている。花火だ。
「もし、私との約束が、ヒカルの事を縛ってるなら――」
言いかけて、リリカにはその後に続く言葉を口にすることが出来なかった。
耳に届く花火の音と歓声とが、二人の間にある無言の重圧を和らげてくれている。
「縛ってなんかないよ」
そう言うと、ヒカルは花火の方へ目を向けた。
真冬の花火は、夏の夜空よりも色鮮やかに見えている。
「花火、今頃始まった。八時って聞いてたのにさ。随分、遅れたんだ」
事件の後だから仕方ないけれどと、ヒカルは独り言のように呟く。
リリカは、視線を手元に落とした。視界の中で、無数の光が滲んでいる。
見渡す限りどこもかしこも輝いて、夜空は花火で彩られている。それでもリリカの心は、真っ暗な宇宙に放り出されたようだった。
「――カ。リリカ。……聞こえた?」
耳元で声がして、リリカは顔をあげた。
ヒカルが、困ったような顔で笑っている。
花火で聞き逃したのだと察したが、リリカにはそれを聞き返すことが怖いと感じられた。
ヒカルの背景に、一つ、また一つと色とりどりの花が咲く。
「好きだって、言ったんだよ。……今度は、聞こえた?」
もう言わないよと、ヒカルは視線を逸らす。
リリカは、思わずヒカルの首に抱きついた。涙でメイクも崩れていたが、今はもう、そんなことは気にならない。
ヒカルの手が、ぽんぽんとリリカの背中を叩いている。
「いつか、ちゃんと全部話すから」
ヒカルは、それ以上は言おうとしなかった。その声は、いつも通りの彼だった。
眩むような光の洪水に襲われて、リリカは目をぎゅうっと閉じる。いつもの匂いと人の体温とで、リリカの体からは緊張が解けていく。抱いていた不安は、もう嘘のように消えていた。
「もう少し、ぎゅってしてて」
「うん。いいよ」
「……やっぱり、私がいいって言うまで。ずっと、ぎゅってしてて」
いいよと言って、ヒカルは笑った。




