2-9 始まりの合図 ⑦
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十九時二十分。
「私の邪魔をするなっ!」
キツネ――南城の刃を、インドラはガントレットで受け止めた。
そのままの勢いで、インドラは遥か後方へと飛んでいく。そうして彼はエリアを越えて、やがて水柱を上げて海へと落下した。
(奴は、まだ生きている……!)
インドラが攻撃の勢いを殺すためにワザと後ろへ飛んだのだと気付いて、南城の苛立ちはピークへと達していた。ここで倒しておかなければ、インドラは確実に自分の脅威となる。しかし今は、体が思う様に動かない。
跳躍を繰り返す度に南城の体には痛みが走り、悪化した肩の傷のために弓の精度は著しく落ちていた。出血のためか、目もかすみ始めている。
仕方なくインドラを諦めて、南城は地面に降りた。
見上げた空には、欠けた月。
ふと耳に届く、声。誰かが、助けを求めている。
夜風に微かに混じるその声に気付くと、南城は口元に笑みを浮かべた。そうして痛む体に鞭を打って、彼女は再び空を駆ける。
アストロエリアを抜け、その隣のスケートリンクを飛び越えて、水族館の裏手の海辺から、その声は聞こえている。
テトラポットの積み上げられた隙間に、その生き物はいた。
微かな声を発し、小刻みに震えて、それは助けを乞い続けている。
「私は、運がいい。あちらは取り逃がしたが、ここでお前を食えるのだもの」
南城が刀を向ける先には、月光を反射して淡く光る水の塊がある。弱体化したアナザーであるそれは南城に気付くと、弱々しく体を動かし、逃げるような素振りを見せた。
「……ク、ん。た……テ……。……ン。……ケ、テ……」
泣いているようなその声を、南城は美しいと思った。
「分かるよ。死ぬのは辛い。だが、安心しろ。お前は、私の一部となって生きるのだから」
刀を突き刺すと、アナザーは少女のような悲鳴をあげて、やがて動かなくなった。
南城は地面に現れた輝く核をつまみ上げると、まるで盃でも掲げるように月へ向けて、そうして一気に飲み込む。
体中を虫が這いまわるような不快さを覚えながら、南城は声をあげて笑った。霞む視界に浮かぶ月は、かつてない程の荘厳な姿で彼女を見下ろしている。
月に、手を伸ばす。南城の閉じた口の端からは、血が流れた。体中を、核の力が食い破ろうとしている。
もう戻れないのだと、南城は再び笑った。




