2-9 始まりの合図 ⑤
*
十八時五十五分。
アストロエリア。
「少年」
インドラの声を合図に、ヒカルは慌てて宙へ跳ぶ。
インドラが拳を撃ち込むと、地面には電撃が走った。それは撒き散らされた水を伝って、アナザーへ向かう。
直撃を受けたアナザーが、体を捩じらせて低いうめき声をあげた。
離れた花壇の土の上に着地して、ヒカルはアナザーに視線を送る。合図と跳躍のタイミングとが少しでもズレていたら、自分も同じ目にあっていたのだ。
インドラはゆっくりと顔を上げると、吠えているアナザーの方へ向けて構えを取った。それは、殆ど正面を向くようなスタイルだ。
戦闘が長引いているために、ヒカルには焦りが出始めていた。パーク内の一般人への被害は抑えることが出来ているものの、ヒカルはアオイのことが気に掛かっている。
アオイのことは中林に託してあり、既に無事だという連絡は貰っているものの、ヒカルは今すぐにでも自分の目で確かめに行きたいという思いがあった。
(無事に、帰れたかな……)
ヒカルは遠くの観覧車を見て、アンズのことを思い出す。
アンズは大切な用事があると話していたが、それは無事に果たせただろうか。無事に、パークの外へ出られただろうか――そんな思いが浮かんだが、ヒカルは直ぐにアナザーへと意識を戻した。
先ずはアナザーを狩らない事には、アオイも、アンズのことも確認は出来ないと思い直したからだ。
インドラは、タイミングを窺って先程から小さな攻撃を繰り返していた。
眼前のアナザーはこれまでにないほど巨大で禍々しい見た目をしているが、攻撃自体は単調だ。一撃の威力は相当なものだが、インドラには脅威と感じるほどではない。
(増えられると厄介だ)
分裂を避けるためには、確実に一撃で仕留める必要がある。
(そろそろ、キツネも戻る)
恐らく怒り狂っているに違いないと、インドラはマスクの裏で溜息を漏らした。キツネは、手加減など出来る相手ではなかった。しかし、そんな言い訳を黙って聞いてくれるような相手でもない。
これ以上は時間を掛けられないと、インドラはヒカルに合図する。
インドラに応えるように、ヒカルの腕が放つ光は強く輝きを増していく。
アナザーは、ズルリズルリと鈍く移動し始めていた。時折、体を左右に揺さぶっては、彼女は周囲の音を聞き分けているようにも見える。
インドラはその動く様を見るうちに、彼女の視力は失われているのだと理解した。
(これは、俺の行く末か?)
インドラは、脚に意識を集中させた。
(君は、どこまで知っている――?)
脳裏に浮かんだキツネの後姿に、インドラは問いかける。
一呼吸する間に、インドラの体はアナザーの正面にあった。そうして深く腰を落とすと、インドラは全体重を乗せて拳を真っすぐに突き出した。
雷の直撃を受けたように、アナザーは動きを止める。体を引き絞られるような甲高い悲鳴で、辺りの空気がビリビリと揺れた。
「少年!」
インドラの合図で、ヒカルはアナザーの上空へ跳んだ。
「アアァアアッ!」
ヒカルが拳を振り上げた直後、怒り狂ったアナザーの頭部が、口のようにバカッと開いた。
(止められない……っ!)
回避しろと、インドラが叫ぶ。
空中で体勢を変えることが出来ずに、ヒカルは食われることを覚悟した。
「――阿呆が」
ヒカルは、どこからともなく、キツネの声を聞いたように思った。
瞬間、アナザーの体が凍り付く。アナザーの体には、氷の矢が刺さっている。
ヒカルは左腕を、力一杯アナザーへ向けて振るった。
好きな人がいるの――ヒカルの脳裏では、女の言葉が再生されている。あの時、観覧車の上で月を見ながら、女は誰かを思っていたのだ。
「私だったら、連れて行ってあげるのになあ。月にだって、何処にだって」
ヒカルの目には、誰かを思う女の口元と声に、アナザーと化した現在の姿と鳴き声とがダブって見えている。
(だけど、僕にもいるんだ。大切な人たちが――)
凍り付いたアナザーの体は真っ二つに割れ、ヒカルの拳は地面に突き刺さった。
二本の塔のように聳えたつアナザーの体は音をたてて砕け、宙に散っていく。
ヒカルとインドラは、風に運ばれていくアナザーの欠片が月光の元で輝くのを見る。
丁度その時、二人から離れた物陰で、小さな水たまりが意思を持って動き出した。しかし、彼らがそれに気付くことはなかった。
「――先生、終わりました」
ヒカルは、無線で中林に告げた。
よくやったと、中林が直ぐに返答する。その声はヒカルの気持ちとは対照的に、とても明るい。
中林はヒカルに、アオイが現場に近づいていることを告げる。アオイは淡路と共に、このアストロエリアへと続く坂を駆け上がっているところだった。
アオイの無事を知って安心すると、ヒカルは勢いをつけて空へ跳んだ。
空を駆ける少年の背を、インドラは言葉なく見送る。
暫くして、ヒカルと入れ違いにエリアに入ってきたアオイと淡路に、インドラは手を挙げて合図した。このために、彼はここに残っていたのだ。
「片付きました」
そう一言残すと、インドラも足早にエリアを離れていく。
後ろからアオイがなにか叫んだが、それは既にインドラの耳には届いていなかった。




