2-9 始まりの合図 ③
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十八時三十分。
ダイナソーエリア。
アトラクションの壁面に叩きつけられそうになったところを、キツネ――南城は辛うじて回避した。地面の上を幾度も転がり、植え込みに突っ込む形で、南城の体はようやく動きを止める。
(受け身を取り損ねた……)
痛みを堪えて上半身を起こし、南城は左肩の怪我を押さえる。白装束には、血が滲んでいた。
(あいつ、投げたのか、私を……っ!)
果たして、投げだったのか、掌底だったのか。全ては定かでないが、南城がインドラによって先ほどのエリアから吹き飛ばされたのは事実だった。
普段は全容を見せないが、インドラは恐るべき力を秘めている――。
口の中を切ったことに気付いて、南城は地面に血を吐き出した。朧げな月明かりの下で見るその色は、気味が悪い程に淀んでいる。
不意に人の気配に気付いて、南城は刀を手にした。
「――あなた、キツネ……?」
聞き覚えのある声。現れた女性がアオイであることに気付き、南城は動きを止める。そして素早くキツネの面を直すと、南城はアオイから顔を背けた。
「やっぱり。もしかして……怪我してるの?」
アオイの足音が近づいてくるのに合わせて、南城の心臓の鼓動も激しくなっていく。
直ぐに立ち去ろうとしたが、脚が思う様に動かない。この時、南城は、自分が背中を打っていたことを思い出した。
アオイはキツネの傍にしゃがみこむと、出血している左腕に手を伸ばす。
南城は顔を背けたまま、肩を強く引いて拒否した。
「怪我してるんでしょう? 手当しないと」
アオイの声を聞いて思わず心が絆されそうになるのを覚えたが、南城は変わらず拒否し続けた。
暫くそのままでいたが、やがて南城は不安になって、キツネ面の隙間からそっとアオイの表情を盗み見る。こんなことをして、傷つけてしまったのではないかと不安に思ったのだ。
アオイは、困ったような顔で視線を落としていた。
それよりも南城を驚かせたのは、アオイのコートの下の服が血に染まっていたことだ。
反射的にアオイの方へ向き直ると、思わず声を出しそうになった自分を南城は必死で抑えた。
「どうしたの? 傷むの?」
不安そうなアオイの顔色が悪いように見えて、南城は焦りを覚える。それでも声を出すわけにはいかず、南城は無言でアオイの腹を指さした。
「……もしかして、心配してくれてる?」
南城は、大きく頷いて答えた。
アオイは呆気にとられたような顔をしていたが、やがて笑顔を見せる。
「私のじゃないの。大丈夫。ありがとうね。……やっぱり、着替えないとダメか。みんな驚かせちゃう。ごめんなさいね」
柔らかく華が綻ぶようなその笑顔に、南城は癒しを感じた。
アオイはコートのボタンを閉じて、汚れた服を隠している。
(あなたがご無事なら、何よりです)
心の中で語りかけて、南城は面の奥から笑いかけた。
そういえばと、南城はアオイが脚に怪我をしていたことを思い出す。アナザーに拘束されている時に、アオイは脚から血を流していたからだ。
しかし今はその傷がないようだと不思議に思ったが、南城は、それ以上考えることをしなかった。アオイの後方から、見覚えのある男が姿を現したからである。
「淡路。下ろして」
アオイの声に合わせて、淡路は構えていた銃を地面に向ける。
「アオイさん。離れてください」
南城を見る淡路の目は、嫌悪の色を隠していなかった。
南城は、ヨロヨロと立ち上がる。
ここで淡路を斬ることは可能に思えたが、自分を見上げるアオイの心配そうな顔を見て、南城はそれを諦めた。なにより、アオイの前で刀を振るいたくなかった。
動くなと淡路に制止されたが、南城は強く踏み込んで跳び上がる。そして南城は木を伝いながら、周囲を見渡せる最適なポイントを探して移動していく。
肌に感じるアナザーの気配を辿り、それが禍々しく強大なものに変わっていくのを感じながら、南城は再び闘いの場へ赴くのだった。




