2-8 夢の終わり ⑩
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十七時五十五分。
アオイが目を覚ました時、彼女の周囲は不気味な程に静まり返っていた。
二人のハンターを追って林の中へ飛び込んだ後、突然強い衝撃を覚えたところまでは記憶にある。その後はどうやら気を失っていたようだと、アオイは乾いた血の付着する左脚を見やった。
怪我は、既に完治している。
左足のヒールが、折れていた。辛うじて繋がっているそれを煩わしく思いながら、アオイは右足の靴も脱いで同じようにヒールを折る。こういう事がある日に限って、不思議とお気に入りの靴を履いている。
高さの揃った靴で立ち上がると、アオイは周囲を見渡した。
一部の木々がなぎ倒され、地面が抉れている個所がある。ここでハンター達の戦闘があったことは想像に難くないが、なぜ自分が無事なのかは分からずアオイは頭を悩ませた。
パキっという乾いた音がして、アオイは音の方へ振り返る。
そこには、白衣を身にまとった青年が立っていた。
「――この姿で会えることを、どれだけ待ちわびたことか……っ!」
青年の声は、感動で打ち震えているようだった。彼の目には溢れんばかりに涙が溜まっていて、軽く開けられた口元は僅かに震えている。
誰なのかと問おうとして、出来ずにアオイは地面に崩れた。少し遅れて、体には痛みが走る。次第に自分の腹が赤く染まっていくのを見て、アオイは初めて、自分が刺されたのだと理解した。
青年の手には、メスがある。その切っ先から零れ落ちる血を舌先に乗せると、彼は恍惚の表情を見せた。
アオイは、体が震えるのを覚える。それは決して、痛みのためばかりではなかった。この場所へ訪れてから断続的に続いていた頭痛が、更に痛みを増していく。
「おいで、イリス。それとも、私を忘れてしまったかな? ……そうだろうな。君は、あの場所の思い出も、生まれたことの理由も、何もかも捨て去った」
声が出ず、アオイは唇を震わせた。かつて見たことのある光景が、今、目の裏で繰り返されている。
「アリス。エヴァ。イリス。――そう、イリス。君だけが、私の夢を叶えた。さあ、おいで。起きて見る夢は、楽しかったかい? 彼は君を、幸せにしてくれたかい? だが、それも直に終わる。君の夢が終わり、やがて私の夢が始まる。おいで。共に帰ろう。『エコール』へ」
「エコール……?」
呟きは、遅れて膨大な量の記憶をアオイの脳に呼び起こす。濁流のように雪崩込む映像の渦に吐き気を覚えて、アオイは咄嗟に口元を両手で覆った。
血の匂いが、鼻を衝く。
「イリス。君は――」
青年の言葉を遮って、アオイの後方から銃声が響く。
青年の右肩から血が噴き出し、彼の手からメスが滑り落ちた。
青年が後ろへ退くのを見計らったように、青年とアオイの間に、淡路の体が滑り込む。
目を閉じてと、淡路の声が耳元に響いたかと思うと、アオイの体は既に彼の腕の中にあった。
短い金属音。
そして、閃光。
アオイは暗闇の中で、自分の体が飛ぶように移動するのを感じた。
「――さん、アオイさん。動かないでください。止血します」
いつの間にか、アオイの体は地面にあった。
淡路が服の下に手を差し込もうとするのを察して、アオイは咄嗟に手を伸ばす。
そして、淡路の動きが止まったことに気付くと、アオイはその届かなかった手で自分の目を覆った。
「……もう、知ってるんでしょ……?」
痛みなら、少し前にひいている。閃光で奪われた視界も、既に戻りかけている。傷は既に塞がって、体には跡すら残っていない。それらは、アオイの体が普通の人間とは違うことを表している。
目を伏せたまま体を起こして、アオイは乱れた服を整えた。
「私が普通じゃないのは、分かってたんでしょ」
自分の言葉に、アオイは胸を刺された様に思った。
「――じゃあ、もうご自分の足で移動できますね?」
想定していなかった反応に、アオイは思わず淡路の顔を見る。
淡路は無線に注意を払いながら、弾を装填していた。
アオイが問題ないと答えると、淡路は手をひいて彼女を立たせる。
「この先で、佐渡達がインドラを見つけたようです。一度、そちらへ合流しましょう。彼らに指示をお願いします。走れますか?」
淡路の声は落ち着き払っていて、それはアオイを安心させる。
大丈夫だと答えて、アオイは背を向けた淡路のコートの裾を掴んだ。
淡路のコートは、背中の大部分が擦れている。彼はこの崖下まで、アオイを抱えて一気に下ってきたようだ。
アオイが短い言葉で感謝を伝えると、「光栄ですよ」と、淡路が笑った。
淡路に促されて、アオイは部下の元へと向かう。彼女の脳裏には、あの青年の姿がこびりついていた。




