2-8 夢の終わり ④
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十七時。
アストロエリアの観覧車の頂上に、アンズは居た。
観覧車は、もう動いていない。つい先程、乗客の一人がアンズの存在に気付いて騒ぎ出したからだ。周辺のアトラクションは全て、緊急停止している。
アンズは裾の大きく広がったクラシカルなオリーブグリーンのワンピース姿で、頭に乗せた帽子から垂れるベールで目元を覆い隠している。
レースの傘。アンクルストラップ付きのエナメルシューズ。シルクの靴下。
お気に入りの物で固めた姿で、アンズは観覧車の頂上に腰かけて、退屈そうに足をプラプラと揺らしながら歌っている。
満月を過ぎて、月は大分欠けてしまった。
その月に向かって、「私を月へ連れて行って」と、アンズは歌う。戦いを前にしても、アンズの頭の中にはヒカルのことがあった。
傍のゴンドラのカップルがスマートフォンで撮影しようとしているのに気付いたが、アンズは好きにさせていた。どうせ直ぐに、何も出来なくなると知っているからだ。
「今日は、早いのね。ヘカトンケイル」
観覧車の鉄骨の上に少年の姿を見つけて、アンズは笑いかける。
少年はシルバーのスーツを身に纏い、目元をゴーグルで隠し、口元は黒のフェイスガードで覆っている。
アンズは観覧車から少し離れたタワーの上に、今度はキツネの姿を見つけた。
「私、好きな人がいるの」
アンズはキツネに注意を払いながら、少年に話しかける。
「私の好きな人は、あの子が『連れて行って』って言えば、きっと月にだって連れて行く。それくらい、あの子が好き」
立ち上がって鉄骨の上に立つと、アンズは持っていた傘を開いて、それを肩に掛けるようにして差した。
クルクルと傘を回しながら、アンズの頭の中では、ヒカルの様々な表情が思い返されている。
「私だったら、連れて行ってあげるのになあ。月にだって、何処にだって」
時計の針が、十七時四分を差した。
少年とは反対側の鉄骨の上に、インドラが姿を現す。
遅刻よと、アンズは呟いた。
放送が鳴り響き、停止していたアトラクションからは混乱した様子の乗客が避難を始めている。観覧車のゴンドラに取り残された人間たちは、パニックを起こし始めていた。
観覧車の下では、警備とマスコミらしき人間とが揉めている。
あちこちで、私服警官が避難誘導を始めているのが見えた。
(東條くん。もうすぐだからね)
アンズは、ヒカルが帰宅していることを強く願う。
「――新しい世界を、創ってあげる!」
遊んでいた傘をピタリと止めて、アンズはワンピースの胸元から扇子を取り出すと、キツネの立つタワーへ向けて振るった。
「キツネ!」
インドラが叫ぶ。彼の視線の先で、タワーには幾つもの爪跡が刻み込まれた。
キツネは既に宙に跳び、頭を下にした状態で、手には弓を番えている。
アンズが、再びキツネへ扇を向けた瞬間。今度は、ヘカトンケイルがインドラへ向けて飛び出した。そしてそのままインドラを押し出すようにして、彼らは隣のダイナソーエリアの方へと向かっていく。
この動きは、アンズにとって想定外だった。
「余所見とは、余裕だな」
キツネが放った氷の矢を避けて、アンズは鉄骨の上を跳んだ。
ゴンドラの間を縫うように矢を撃ち込みながら、キツネは鉄骨の上に着地し、アンズの後を追う。
辺りでは悲鳴が上がり、騒ぎが一層大きくなっている。
アンズは地面まで一気に駆け下りると、逃げ惑う人々の間を縫う様に移動し始めた。目指すのは、ダイナソーエリアとの間にある崖だ。
アンズが手招きするように指を動かすと、予め隠されていたアナザーたちが風船のように体を膨らませて実態を現す。
「いらっしゃい! いくら食べても構わないわ!」
体が半分溶けたようなアシカやトドの形をしたアナザーたちが、傍に居た人間に向かって襲い掛かかり始める。
幾つかのアナザーは矢を受けて瞬時に凍り付き、砕け散った。
キツネは進路に飛び出したマスコミのカメラをアナザーと共に切り捨てて、刀を抜いたままアンズを追ってくる。
「あなた一人で、護りきれて?」
アンズが手招く度にアナザーは出現し、あちらこちらで悲鳴があがる。
キツネは躊躇うことなく、アナザーではなくアンズを優先した。
(……好きよ。あなたも)
キツネに自分と同じものを見つけて、アンズはそれを嬉しく思った。汚れているのは、自分だけではないと分かったからだ。
崖へ向かって移動しながら、アンズは人々の混乱の中で幾つかの銃声を聞く。
そして崖まで辿り着くと、アンズは傘を広げたまま底へ向かって飛び降りた。




