2-7 FACE ⑫
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十六時七分。
ヒカルはよく見知った人物を見つけたように思って、観覧車の窓に顔を近づけた。数学教師の北上の姿を見たように思ったのだが、直ぐに、こんな所にスーツ姿で来るはずもないと思い直す。
観覧車の向かいの席にはアンズが腰を降ろし、遠くの夕日を眺めている。
窓の外には様々なアトラクションや森、遠くの海や夕日などが全方位に広がっていて、ヒカルは何処へ目を向けるか迷うほどだった。
不意にヒカルの目が、一つのアトラクションの上で止まる。
メリーゴーランド。いつか、リリカが一番好きだと言ったアトラクションだ。
アンズは、ヒカルの向こうにある夕日を眺めるフリをして、彼の横顔を眺めている。
「ごめんね。また、ワガママ聞いて貰っちゃった」
アンズが声を掛けたのは、本当に謝るためではなく、自分の方を見てもらうためだ。
ヒカルはアンズの方へ顔を向けて、「いいよ」と短く答えた。
夕日は直に沈み、覆いかぶさるように夜が来る。
「私ね、今日はとても大切な用事があって、ここへ来たの。……でも、本当は怖かった。怖くて、逃げたいなって、そんなこと思ってたの」
アンズの言葉を、ヒカルは自分の言葉のように思った。
「でもね、東條くんと会えて、沢山お話出来て、嬉しくて……私、頑張ろうって思えたの」
アンズは、自分の気持ちが溢れ出そうになるのを覚えた。
ヒカルはアンズの言葉を待っていて、間には障害もない。
それでも、二人だけの時間はいつか終わってしまう。
「ねえ、東條くん。……泉さんの、どんなところが好きなの?」
急だねと、ヒカルは返す。ヒカルは返答を誤魔化したい気持ちがあったが、アンズの目は彼を真っすぐに見ていたので、それは出来ないのだと気付いた。
「多分、全部だと思う。もう、リリカの中にいる僕も、自分の一部だって思ったから」
ヒカルは、自分が変なことを言っていると思った。
「リリカといると大変なんだ、色んな事が。毎日色んな事が起きて、あれしなきゃ、これしなきゃって。でも、そういう毎日も含めて、無くしたくないって思ったんだ」
「そっか。……家族みたいに、大好きなんだね」
アンズは自分が口にしたその一言が、とても意地悪だと思った。
「そうかもしれないね。一生、傍に居て欲しいから」
ヒカルが笑顔を見せたので、アンズは同じように笑い返すことしか出来なかった。
ヒカルの意識は、カバンへと向いている。彼は持ってきてしまったクリスマスプレゼントを、帰ったらリリカに渡そうと決意したのだ。
二人を乗せたゴンドラは頂点を過ぎ、下り始めていた。
周囲は既に暗くなり、彼方此方でライトアップされた光がゴンドラの中に幾つもの影を落としている。
「『皆、好きな所で生きられたらいいのに』って、言ったよね? 東條くん」
アンズは、ヒカルの顔を見るのを躊躇って、それでも目を逸らせずにいた。
「直ぐだよ。もう直ぐ、そういう世界になるんだよ」
アンズの目は潤んでいて、顔は赤かった。
ヒカルには、アンズの言葉が何を示しているのか分からない。
「あのね、東條くん。大切な用事が終わったら、またこうやって、二人でお話できるかな? また、一緒に会ってほしいの」
アンズの声は震えていて、顔は今にも泣き出しそうだ。
ヒカルは、アンズが自分の事を好きなのかもしれないと思った。それは考えすぎで、自分は自惚れているのかもしれないとも思ったが、それでも真剣に答えなくてはならないのは同じだ。
「西園寺さん、僕……」
「ダメだよ、東條くん」
アンズの目から、一筋の涙が零れた。
「こういう時はいつもみたいに、『いいよ』って言ってくれなきゃ、イヤだよ。東條くん」
次々零れる涙を隠そうとしないアンズの姿に、ヒカルは彼女の心の強さのようなものを感じた。
ヒカルが「いいよ」と笑い返すと、アンズも笑顔を見せる。
アンズは、心から嬉しそうに笑った。だから、ヒカルの心は締め付けられるようだった。
やがてゴンドラが地上へ近づいて、二人の時間は終わりを告げた。
観覧車を背に、二人は別れの挨拶を交わす。アンズは用事があるといい、ヒカルも同じように返した。
アンズはヒカルに、最後のワガママを聞いて欲しいという。
ヒカルは、頷いて応えた。
「あのね、今すぐ、ここから離れてほしいの。直ぐにゲートを出て、帰りの電車に乗って家へ向かって。それが、私の最後のワガママ」
アンズの鼻はまだ少し赤かったが、もう涙は止まっている。
「……分かった。いいよ」
「ありがとう! ……じゃあ、またね。東條くん。またね」
手を振って、アンズは走り去っていく。
言葉が出ずに、ヒカルは無言で手を振った。
アンズは、人波の中へ消えていく。
「ごめんね、西園寺さん」
最後のワガママは聞けないと、ヒカルは心の中で呟く。
ヒカルは、自分の左腕に触れてみた。これから自分は、この腕で人を狩る。
時間だと、ヒカルは暗がりへ向かって歩き始めた。