1-3 噛み合わない関係 ②
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不意に声を掛けられたように思って、ヒカルは立ち止まった。
誰もいない廊下には、近くの教室から漏れてくる生徒の話声だけが響いている。
「ばっか。遅刻すんぞ!」
急かされて、ヒカルは山田の後を追った。二人は英語の授業の後に話し込んでしまい、ジャージに着替えるのが遅くなったのだ。こういう日に限って、遠く離れた武道場に集合と指示されている。
「やべえよ。俺、唯でさえ謝るところからスタートだからね、今日は」
「それは、山田が悪いんだろ?」
「ぐうの音も出ねえ」
二人が並んで走っていると、階段の手前に差し掛かったところで長身の男が姿を現した。数学教師の北上だ。
ヒカルと山田はピタリと止まり、北上に挨拶しながら、早歩きで彼の前を通り抜けていく。
「もう、いいか?」
「まだ見てるよ」
小声でやり取りする二人を、北上は腕を組み呆れた様子で見守っている。どうせ見えなくなったら走り出すと分かっているが、目の届く範囲は睨みを利かせておこうという考えだ。
北上はいつも、黒いスリーピースのスーツとグレーのシャツに身を包んでいる。どんなに暑い日でも着崩さず、どんな強風の日でも髪型一つ乱さない。表情乏しくいつもクールな北上は、鉄仮面というあだ名をつけられ、主にやんちゃな男子生徒から恐れられている。
余談だが、北上と南城は犬猿の仲で有名である。
そうこうしているうちにベルが鳴り、遅刻した二人は校庭を走ってくるように南城から言い渡された。
「これは、噂なんだけどさあ」
「え? なに?」
南城が武道場から見ているため、ヒカルと山田はそれなりの速度でトラックを周回することを余儀なくされていた。手を抜いていると判断されれば、周回の回数が上乗せされるのを知っているからだ。
「南城先生と、北上先生って、さあ」
「うん?」
「付き合ってるらしいぜ」
思わずヒカルは、武道場の入り口に目をやった。南城の姿はない。彼女は中にいる生徒を見に行ったのかもしれなかった。
南城が戻ってこないことを確認してから、ヒカルは山田の言葉を否定した。二人の仲が悪いことは、周知の事実だからだ。
「ないんじゃない? いつも言い合いしてるだろ?」
つい先日も、数人の生徒が二人が揉める様を目撃している。その時は、北上が南城の服装について何やら注意をしているようだったという。
「でもさ、生徒の前でやるかな? 普通さ」
山田の言い分によると、生徒の前で言い合いをしているのは、本当は恋人同士であることを隠すための芝居だという。
ヒカルは少し考えてから、やはり想像できないと答えた。仮に山田の言うそれが正しかったとしても、スポーツ一筋の南城とロジカルな北上とが一緒にいる姿は想像できない。あの二人は、タイプが違いすぎる。
「だから良いんだろ? 初めは嫌いだったのに、気付いたら……っていうのがよくあるパターンじゃん! 王道だよなあ」
「楽しそうだな! 山田少年」
耳に飛び込む、南城の声。
ヒカルは、前を走る山田の心臓が止まってしまったのではないかと思った。
ヒカルを追い抜いて、南城が山田の背を追いかける。
山田――彼は野球部期待の新人でもある――は、振り向くことなく、日頃鍛えている足腰で全力疾走している。
ヒカルは山田の悲壮感溢れる背中を見るうち、彼が振り向かないのではなく、振り向けないのだと気付いた。
「せっかくの機会だ。まずは全員、走り込みから始めることになった。王道だろう? ちなみに、私より後ろを走る者は周回をプラスしていくぞ!」
南城の言葉で、ヒカルの後ろからはジャージ姿のクラスメイト達が鬼のような形相で飛び出してきた。山田への恨み節を口にする余裕すらなく、全員が必死である。
その姿がおかしくなって、ヒカルは笑みをこぼした。中林に言われたように、確かにこの日常を守ったのは自分なのだと、ヒカルは少しだけ誇らしく思うのだった。