2-5 あなたは最高 ④
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廊下の角を曲がった所で、タイミングを図って淡路はアオイの元に駆け付けた。
「怪我、させてないでしょうね?」
アオイは淡路が来ることを予想していたので、彼の登場には驚かない。
バレていることは百も承知で、それでも淡路はとぼけてみせたが、アオイの雰囲気が普段と違うことを察して直ぐに観念した。
「玩具ですよ。玩具。第一、アレは只じゃ死なないタイプだ」
「そうかもね」
「あれ、怒ってます?」
別にと答えて、アオイは歩を早める。ミーティングの前に資料室に寄ると告げて、彼女はエレベーターに乗り込み地下階のボタンを押した。
閉まりかけた扉の隙間に滑り込むと、淡路は扉のすぐ脇に立つアオイの左後ろに立って、階数表示が切り替わっていくのを眺めた。
「――怪我させたら、本当に許さないから」
アオイは、左の頬辺りに淡路の強い視線を覚える。
淡路は、髪で殆ど隠れたアオイの横顔を見ている。
「やっぱり、怒ってますね。そんなに大事でした?」
アオイは淡路の言葉を無視して、扉が開くのに合わせて廊下へ出ていく。
淡路の言葉が過去形だったことが、アオイの心を逆撫でていた。淡路にとっての向島は既に過去の人物で、まるで消されてしまったような扱いに思えたからだ。
淡路はアオイに悟られぬように溜息を漏らして、少し間を置いてから彼女を追いかけた。
資料室までの道のりを、二人は距離を取って歩いている。
アオイは、淡路が触れてきたら殴るつもりでいた。しかし淡路は、まるでそれが分かっているかのように距離を取る。
資料室に入って、アオイはドアの傍に立ったまま電気のスイッチを探した。
淡路はアオイの行動を不審に思ったが、敢えて部屋の奥に進んだ。
ドアを閉めて、アオイはその前に立つ。
「――物騒ですよ」
背を向けたまま、淡路が両手を上げる。彼の後ろには、銃を構えたアオイの姿があった。
「次、打合せでしょう? 遅れたら、皆が煩いんじゃないかな」
「そうね。でも、一時間もあれば充分でしょ?」
アオイの言葉で、淡路は自分が嘘の時間を教えられていたと知る。淡路はアオイのスマートフォンをコピーして彼女の行動を確認しているが、直前までそこに会議の変更に関するやり取りは無かった。
「二人になりたいなら、そう言って貰えれば良かったのに。こんな場所じゃ、色気も何もないじゃないですか」
淡路があえて茶化していると分かっていたので、アオイは反応しなかった。
アオイが本気で怒っているのだと理解して、淡路はそれを複雑な思いで受け取っている。自分に対してアオイが感情をむき出しにする事それ自体は好ましいが、その理由が向島であることは許しがたい。
「何が目的なの?」
アオイは、いつでも撃つ覚悟でいた。後の事は、撃った後で考えればいいとすら思っている。彼女をそんな大胆な考えにさせたのは、淡路が友人の部屋に出入りしている痕跡を発見したからだ。
アオイは淡路に心を許し始めている自分に気付いて、その愚かさを許せずにいた。
「ええと。誤解がありそうなので、順を追って説明したいです」
「目的を聞いてるの」
「じゃあ……お話すると言ったら、信じて貰えますか?」
淡路の声が、急に真面目なトーンに変わった。アオイはそれを怖いと感じて、返事をするまでに間が空いた。
振り向いても良いかと淡路が尋ねたので、アオイは構わないと答える。この時アオイは無意識に、銃口を下げていた。
そして、あっと思う前に、アオイは淡路の腕の中にあった。
ドアを背に立って、淡路は後ろからアオイを抱えるように拘束している。淡路本人は拘束ではなく抱いている感覚だったが、アオイにはとてもそうは思えない状況だ。
「あんた、本っ当に最低!」
肘で腹を狙うが、アオイの体は固定されて動かない。
「いや、だって、アオイさんが物騒な物を持ち出すから。癖で動いちゃうんですよ……」
淡路はアオイの手から滑り落ちた銃を蹴って遠ざけ、それが資料の積まれた棚の下に滑り込むのを見て舌打ちした。ついやってしまったと、面倒そうな顔をする。ここでは、そこまでする必要がなかったのに。
「お話しましょうよ、アオイさん。お・は・な・し。僕らの間には誤解があります」
「こんな状態で話せると思う? おかしいんじゃないの?」
「だって、離したら逃げるし、殴るでしょう? 平和的に解決したいんです」
どの口がと激高し、アオイは蹴り上げようとしたが、脚が思うように上がらない。投げようとしても、淡路の体は地面から生えているように全く動かない。
必死で藻掻くアオイを可愛らしいと思いながら、淡路は頭をフル回転させて事態の収束を図っていた。しかし現時点では考え得るどのルートを辿っても、その全てがバッドエンドにしか通じない。
それでも無言は悪手だと、淡路は仕方なく口を開いた。
「まず、向島さんの件は謝りますよ。あの部屋にも入りました。でも仕事云々じゃない。完全に嫉妬でやりました」
「嘘つき」
アオイは、まだ藻掻いている。
「南城。あんた、南城にもなんかしてたでしょ? わざわざ学祭にまで来て」
「あー。いやあ、あれは偶然なんですよ、本当に。だってあの人、殺意駄々洩れですから。自分から近寄ったりしませんって」
「信じられない」
言い放つと、部屋は途端に静かになった。
アオイの頭の上には、淡路が被さる様にして頬を置いている。
そうして淡路が黙っている間、アオイも無言で次の言葉を待った。アオイには、今の淡路が、あの時のような憂いの表情を浮かべているような気がしている。
だが淡路はというと、次の一手を考えながら、彼はアオイとの密着を楽しんでいた。形はどうであれ、アオイが自分を騙してまで二人きりになるように仕組んだというその事実が愛おしい。それだけで、向島への行動は全くの無駄ではなかったといえる。
「愛しているんですよ。それだけは、否定されると辛いです」
淡路はアオイの後頭部にキスするが、彼女はそれに気付かない。
トリートメントを変えたのだなと気付いて、淡路は一人納得する。アオイは髪が傷んでいることを気にしていた。
「言葉じゃ、どうとでも言えるものね」
アオイは、自分の口をついて出た言葉に動揺していた。これでは、態度で示せと言っているようなものだ。先日の一件といい、今日この場に銃などを持ち出してしまったことといい、自分は淡路にペースを乱されすぎている。
アオイが藻掻くのを止めて俯いたので、淡路は警戒しつつ腕の力を少し緩めてやった。その瞬間に攻撃に転じるのではと考えていたが、予想に反してアオイは動かない。彼女は力を抜いたまま、淡路に体を預けている。
淡路は、彼にしては珍しく次の行動を決めかねていた。身体的な接触を試みる事は、これまで築いてきた関係を一度に失う恐れがある。今の状況は、例外中の例外だ。仮に不埒な心で抱きしめようものなら、今後は今までの距離で話をすることすら難しくなるだろう。
それもこれも、原因は向島だ。
淡路は向島に対して非常に腹を立てていて、ナイフでの警告はそれに対するものでもあった。仕事で女を抱いていたなどと、向島はこれ以上ない余計な事をアオイに吹きこんだのだ。今の状態でアオイに触れたら、その言葉を自分自身で肯定することになってしまう。
自分にしては追い込まれているなと、淡路は他人事のように思った。
アオイは淡路の僅かな息遣いで、彼が笑ったように思った。そしてその理由が自分の心の弱さにあるように思えて、アオイは顔を赤らめる。
「本音で話す度胸もない癖に――」
絞り出した言葉が一体誰に向けて発せられたものなのか、それはアオイ自身分かっていない。
不意に顎を引かれて、振り向きざまにキスを受ける。アオイがそれを理解するまでには、時間が必要だった。
今、アオイの頭の中には、色々な言葉が目まぐるしく回っている。それを遠ざけるように、淡路の顔は離れない。アオイは次第に息苦しくなって目の前の胸を叩いたが、淡路はその手を掴んだだけ。
体が運ばれて、アオイは自分が資料室の長机の上に寝転がされたのが分かった。いよいよ苦しくなって、アオイは拘束の緩んだ右拳を淡路の頬目掛けて打ち込む。
淡路はそれを、難なく止めた。
「――殺す気!?」
息を整えながら、アオイは淡路の手を跳ね除ける。
「……そうですけど?」
顔を上げて、淡路は左手でネクタイを緩める。アオイが目にした淡路は、いつもの笑顔ではなく真顔だった。
「最っ低!」
急所目掛けて思い切り蹴りこむと、アオイは淡路の腕を擦り抜けて部屋を飛び出していく。
アオイの足音がすっかり遠くなってから、淡路はその場に膝をついて崩れた。事前に攻撃が来ると分かっていたとはいえ、まさか一切の手加減なしで蹴ってくるとは――。
「嘘じゃないか」
ネクタイを整えながら、淡路は軽く舌打ちした。それは恐らく、モモコに向けられていた。
淡路のスマートフォンが、短く振動する。アオイからの通知だ。
そこには会議の正しい時間と会議室番号とが書かれていて、淡路はアオイの律儀な性格に苦笑した。
スマートフォンに、二度目の通知。今度は、銃を回収して来いと書かれている。
ペースを乱されがちな自分を、淡路は他人事のように笑った。




