2-5 あなたは最高 ③
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アオイがドアをノックした時、向島タカネはその目を五枚のモニター上で忙しく行き来させていた。向島は来訪者の存在には気付いているが、反応する時間を惜しんでいる。
コツコツというヒールの音。
そっと体重を掛けられたドアノブが、慎ましやかな声を上げる。
それに気付くと、向島はパッとモニターから顔を離した。彼は素早く、しかしどこか余裕たっぷりに、キャスター付きの椅子をドアの方へと回転させる。
「おや、これはこれは。薄情な俺の友人、東條じゃないか。いつ振りだ?」
メガネを指で押し上げて、向島は無意識に緩んだネクタイを整えた。ワイシャツの上から身に着けられた白衣は皴一つなく、組まれた脚の先には磨かれた革靴が鈍く光っている。
アオイはドアにもたれて立つと、変わらない友人の皮肉を笑った。
「お互い、忙しい身ですから。うちの仕事だけじゃなくて、モモコの所と、あと二課の仕事も受けてるでしょう?」
部屋の薄暗さもあってか、アオイの目に映る向島は青白いような顔をしている。彼は元々、色白で線の細い男ではあったが。
「まあな。俺は優秀だから忙しい。だが、多忙が心を殺すのではないな。孤独が、心を殺すのだ」
「それって、会えなくて寂しかったってこと?」
揶揄うようなアオイの表情をみて、向島はふんと鼻を鳴らした。
「勘違いするな。俺は、お前を心配してやっているんだ」
「そうね。ありがとう」
つい先程、人を薄情呼ばわりしたのは向島の方ではなかったかとアオイは思ったが、彼女はそれを言葉にはしなかった。
向島は先程まで没頭していた仕事には目もくれず、モニターの画面をスクリーンセーバーに切り替えている。
向島は手元の機器で選曲を変えると、アオイに何か飲むかと尋ねた。
音楽は、重厚な管弦楽から軽やかなピアノの調べへ。
「なんだっけ、この曲」
アオイの目の前では、五枚のモニターの中を熱帯魚が悠々と泳ぎ回っている。
向島は、サティだと答えた。教養だぞと、余計な一言も忘れない。
アオイは、自分が訪ねる度にこの曲を聞いているような気になったが、それは直ぐに気のせいだろうと思い直した。向島が占拠しているこの部屋に音楽がなかったことはなく、彼の好む音楽は様々だ。
向島は幼少よりロシアに渡り、ピアノのコンクールで賞を総なめにしてきた元天才ピアニストである。
元というのは、既に彼がピアノと決別しているからだ。向島に言わせれば、ピアノは彼を愛したが、彼の愛はピアノから離れた、ということらしい。
向島はあちらの音楽院を途中で抜け、帰国後はアオイと同じ国内の大学へ入学。卒業後は真っ当なルートで公安部へ進んだはずなのだが、現在は特務課でデータ解析などをメインに担当している。
特務課以外からの仕事を請け負うことも多い為に独立した部署扱いになっており、本人の性格もあって、向島は特務課の中でもさらに浮いた存在となっていた。
「珈琲はどうだ? 紅茶もあるが」
「コーヒーは、さっきモモコに貰った」
「モモコ? ああ」
向島は、記憶の片隅に追いやっていた女の姿を思い出し苦い顔をした。お気に入りの店に飲みに行く度に、何故かフラリと現れる同期の女だ。
「残念だな。俺の方が絶対に旨いのに」
向島の不貞腐れたような物言いに、アオイは声を出さず笑う。
「やっぱり、貰おうかな」
アオイが言うと、向島は仕方なさそうな顔をして壁際へ歩いていく。
アオイはそんな向島の背を目で追う内に、彼の行く先にピカピカのエスプレッソメーカーがあることに気付いた。そしてふと、モモコの言葉を思い出す。確かモモコの部署で、買ったばかりの家電が無くなったと話していなかっただろうか。
アオイがエスプレッソメーカーについて問うと、向島は当たり前のように一課から拝借したのだと答えた。
「俺は、アイツらの三倍は役に立つ。俺が使って何が悪い?」
「そういう問題じゃないでしょう?」
「そういう問題だ。全ての資源は有限。有能な者は、良い物を使う。それが当然だ」
向島からカップを渡されて、アオイは苦笑しながら受け取った。カップの中は、琥珀色の液体で満たされている。
向島は、アオイが困ったように笑うのを見ると少し浮かれたような気持ちになった。
アオイは、時折、今のように向島を咎めることがある。だがその後は大抵、彼らは小さな罪を分け合うのだ。大学時代から、この関係は変わっていない。
「それで、今日なんだけど」
「なんだ、忙しいな。昨日のハンターのことか?」
「それも、あるんだけど」
アオイは、カップに口をつける。香りも苦みも、缶コーヒーには出せない味わいだ。
少し間を置いて、アオイは、要件を忘れてしまったと言った。
それを聞いた向島は、アオイが嘘をついたと直ぐに気付いた。何か言いたいことがあるが考えがまとまっていない時に、アオイは先程のようなフレーズを口にするからだ。本当は、整理したいモヤモヤが頭の中にはあるのだろう。
「仕方のないやつだな。食事にでもいくか? 近くに良い店がある。ワインが中々揃っているが、一人で行くような店でもなくてな。女連れだと丁度いいんだ」
向島は再び椅子に深く腰かけて、長い脚を優雅に組んだ。
「今日は、ちょっと」
弟かと訪ねられて、アオイは頷く。
「もう十六じゃなかったか? 一人で生きていける歳だろう」
「まだ、十六。それに昨日は、色々あったし。怪我は無かったけどね。でも心配なの」
向島はアオイの弟が事件に巻き込まれた話を耳にしていたので、それについて深く尋ねはしなかった。
途切れた会話の隙間を、ピアノの調べが埋めていく。
アオイはふと、向島の視線に気付いた。何か言おうとして、タイミングを図っているような顔だ。考えたくはないが、この後は大抵、少しキツメの言葉と決まっている。
「お前は自分の子供を見る前に、甥や姪を見るつもりか?」
ほらねと、アオイはため息交じりに天井を見上げた。
その仕草を見た向島は、アオイが自分の言葉を予想していたのだと気付いた。
「分かるだろう? どれだけ時間を注いでも、お前の弟はお前の夫にはならない。歳の離れた弟が可愛いのは分かるが、弟は弟だ。お前の老後をみてくれはしないぞ。いい加減に、自分の幸せを考えろ」
「自分の幸せ、ねえ」
「俺は、本気で心配してやってるんだ。感謝しろ」
このやり取りも何時振りだろうと、アオイは笑った。
アオイが笑ったので、向島は追撃を止めてカップに口をつける。友人が笑っているところを見るのは、嫌いではない。
「ああ、そういえば。たまにはお店に来てって、あなたの弟からの伝言。ピアノを弾いて欲しいって」
アオイが言うなり、向島は目に見えて不機嫌そうな顔をした。
「そうか。馬鹿めと、伝えておいてくれ」
ムスッとした顔でそれだけ言うと、向島はコーヒーを飲み干した。
向島の双子の弟――名をホマレという――は、小洒落た飲み屋を経営している。
アオイはその店の常連なのだが、向島にはそれが面白くない。弟は、向島とは何もかもが真逆だ。弟はピアノも音楽も愛さなかったし、ピアノも音楽も弟を愛さなかった。
アオイは、カップの中の液体から昇る湯気をボンヤリと眺めている。
向島は音楽に耳を傾けながら、思案を巡らせている様子のアオイの姿を眺めている。
「あと三年、いや二年して――」
向島は、自分の声に驚いた。言葉を発したつもりがなかったからだ。
顔を上げたアオイと目が合うと、向島は一呼吸おいてから続きを言葉にした。
「お前が独り身だったら、まあ、引き取ってやってもいい。弟もまとめてな」
「そう? ありがとう。お互いに、良い人が現れるといいんだけど」
アオイは学生時代の延長で、そう返した。
向島は、アオイがどういう意味で自分の言葉を捉えたのか直ぐに理解した。だから彼も、勿論自分もそのつもりで言ったのだと考えた。
「結婚ね。そんなの、まだ考えたこともないから」
「だろうな。でなきゃ、あんな奴を傍に置いておける訳がないからな」
ふんと、向島は鼻を鳴らす。
アオイは、ドキリとした。ここへ来た時に、淡路のことを向島に話そうと思っていたのだ。その時は、誤解を解こうと考えていた。
しかしいざ本人を前にして言葉にしようと試みた時、アオイには、自分が何を言わんとしていたか分からなくなってしまったのだ。
誤解を解く。それは、誰の、なにに対する誤解だろうか。
「何処で拾ってきたか知らんが、始終ついて回ってるらしいじゃないか。犬でも飼ってるつもりか知らんが、嚙まれてからでは遅いと思わないか?」
「仕事で一緒に居るだけだし、拾ってきたわけじゃないし。第一、犬とかそんな」
「この間、朝、一緒だったらしいな」
その「この間」とは何時の事だろうと、アオイは苦笑いを浮かべた。深い関係に見られないように最低限の注意は払っているとはいえ、淡路とはほぼ毎朝一緒に出勤している。
「部下だから、部下。心配しなくても、手なんか出さないって」
「お前は、な」
向島はアオイの表情を見るうちに、彼女が話そうとしていた内容の大枠を理解した。
「聞け、東條。あれは存在しない部隊の、存在しない兵隊だ。お前が連れているのは、ゴーストだよ。……知らんだろうが、仕事で女を抱いていたような噂がある奴だぞ。そんな輩と一緒で、本当に大丈夫なのか?」
「……大丈夫って?」
アオイの声のトーンが変わったので、向島は言葉を続けることをしなかった。
アオイは向島が口を閉じたので、そのまま会話が終わるのを待った。
悪かったよと、向島の声。
それは何に対する謝罪だろうかと考えたが、アオイは敢えて尋ねずに頷いて応えた。
天を仰ぐと、アオイの視界には天井の排気口が映り込む。
「ねえ。最近、家には帰ってるの?」
アオイの目は、排気口に向けられたまま。その姿は、向島には別の意味があるように見えた。
「何をいう。家を出るのも此処を出るのも、毎日決まった時間だ。正しい生活は良いリズムを生むからな。良いリズムは良い仕事へ。全ては繋がっている」
「……あんな趣味あった?」
アオイは、壁に掛けられたダーツの的を指している。
向島は、アオイの表情が少し影っているようで不安になった。
「最近、な。暇つぶし程度だ」
「ねえ」と、アオイが声を掛ける。
「なんだ」と、答えて、向島はアオイと目が合った。アオイは何か言いたそうだったが、向島は別のことを考えていたので、二人の心は通じ合わなかった。
「もう行くね。この後、ミーティングなの。昨日のハンターの件、また後で連絡する。気を付けて」
「東條――」
向島は、背を向けたアオイを呼び止めた。
振り向いたアオイは、いつもと変わらない表情をしている。
向島は違和感を覚えつつも、激励と共に彼女の背を見送った。
閉じられたドア。
向島はモニターへ向かい、選曲を変える。耳に響くのは、甘美なオペラ。
美しい旋律に心を重ねながら、向島は再び自身の仕事へと意識を戻す。
するとそこに突然、コンコンとドアをノックする音が割って入った。勿論いつものように、向島はそれを無視する。
ドアの向こうで、コツコツというヒールの音。
向島は一瞬手を止めたが、アオイの音とは違うようだと判断し、また仕事に戻る。
カチャリと開錠の音がして、向島はドアの方へ振り向いた。仕事を邪魔された腹いせに、嫌味でも言ってやろうと考えたのだ。
しかし、ドアはピタリと閉じている。人の気配もない。
これには向島も流石に気味が悪くなり、彼は仕方なく席を立った。
向島はドアを開けて、隙間から外の様子を確認する。やはり周囲に、人の姿はない。向かいの窓には気持ちの良い晴れ間が広がっていて、それは見る者を睡魔に誘う。
ふんと鼻を鳴らして、向島は窓に背を向けた。今の自分に、惰眠を貪る暇は無い。
向島が、後ろ手でドアを閉めようとした、正にその時。
あと数センチというドアの隙間を縫って、十五センチほどの刃物が下から上へと滑るように昇ってきた。目にした向島は完全に固まり、しかし無意識に、その動きを目で追う。
ナイフは向島の目の高さよりも少し下でスッと消え、ドアは外から閉められた。
向島には相手の顔が見えなかったが、それが誰かを知るのに顔を確認する必要はなかった。
「――駄犬め!」
向島はドアに体をもたれさせ、前髪をかき上げる。すると彼の顔のすぐ脇に、ドスッと何かが刺さった。横目で確認したそれは、ダーツの矢だ。
忠告のつもりかと、向島は荒々しく矢を引き抜いて床に放った。彼の脳裏には、アオイの傍らに立つ男の姿が浮かんでいる。
それにしてもと、向島は疑問を抱いた。アオイは、排気口を眺めていた。恐らく、そこに仕掛けがあることに気付いていたのだろう。しかし彼女にしては、忠告が不親切ではなかっただろうか。
「……機嫌が悪い? ……いや、まさか、怒っているのか?」
しかし、それは一体、何に――?
部屋を見回す向島の目が、エスプレッソメーカーの上で止まった。
頭の上に二本目の矢が刺さった時、向島は考えることを止めた。




