2-3 Envy ④
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見回り中、南城は不機嫌だった。剣道部の生徒と自分のクラスの生徒とに看板係を頼まれて、両方は持てないと断ったところ、即席で作られた不格好なサンドイッチマンと化していたからだ。
そもそも教師を看板係にすることが腹立たしいのだが、どちらの出し物も盛況で人手が全く足りず、生徒たちに必死に頭を下げられたので断ることが出来なくなってしまった。
そんなに盛況なら、人寄せなど要らないのではないか――南城がそれに気付いたのは、体に看板が括りつけられた後のことである。
校内を歩きながら、南城は幾人もの生徒とすれ違う。
皆の視線が、少し痛い。
途中、遠くに北上の姿を見つけて、南城は思わず物陰に隠れてやり過ごした。今の姿を見られては、冷静に対応する自信がない。
校内は危険と判断して、南城は中庭へ向かう。生徒たちには宣伝を頼まれたのであって、校内にいてくれとは言われていない。
中庭のベンチで一休みしようとして、そこで初めて南城は腰を下ろせないことに気付いた。背中側に括りつけられた剣道部の看板が、邪魔をしている。
ならば看板を左右にずらせばと試みたが、脇の下にガッチリとロープが通されていて、殆ど左右にずらすことは出来なかった。
(拷問か!)
南城は苛立ちの余り看板を破壊しそうになるも、彼女の教師という社会的な立場が辛うじてそれを押し留めた。
「あらら、大変そう」
温かみのある声。後ろから聞こえたその一言で、南城の機嫌は途端に直ってしまった。
期待に満ちた心で声の方へ目を向けると、そこには背の高い赤毛の女性が立っている。
「東條先輩!」
抱き着こうとして、看板の存在に気づき南城は絶望した。いつも何かが、アオイとの間を阻んでいる。
「元気そうね。あ、ちょっと待ってね」
手にしていたたこ焼きをベンチに置くと、アオイは南城の傍へ寄って、脇の下のロープを緩め始めた。
髪を耳にかけて顔を傾けながら作業するアオイの表情に見とれて、南城は無言になる。
アオイの頬には長いまつげが影を落とし、きゅっと結ばれた口元は馴染みのよいベージュ系のリップに彩られている。整えられた爪に、手入れされたロングヘア。体に合わせて仕立てられたネイビーのスーツに、品の良い黒のコート。
動きやすさ重視のためにいつもジャージで、酷いくせ毛のために所々撥ねたショートヘアの自分と異なり、いつも綺麗で知的なアオイの姿は、南城にとって憧れそのものだった。
アオイに促されて、南城は看板を持ち上げるようにして隙間から脱出する。脱いだ看板をベンチに立てかけると、南城はアオイに向きなおり、改めて礼を述べた。
「折角いらしていただいたのに、お恥ずかしいところを……」
「どうして? 素敵な先生じゃない」
南城は、アオイの言葉を嬉しく思った。
一緒に食べようと言って、アオイがたこ焼きを見せる。やたらと筋肉質なタコが描かれた奇妙なパッケージだ。
弟のクラスで買ったのだと聞いて、南城はヒカルの事だと理解した。
「あの後、中々連絡出来なくてごめん。南城も、ケガ人の救出作業とか色々手伝ってくれてたって聞いたの。本当にありがとう」
アオイは、公園での爆発事故の事を話している。
あの時、アオイはアナザーの捜査のために公園に居て、南城はハンターとしてアナザーを狩っていたのだ。勿論南城は、自分がハンターであることをアオイに明かしていない。
「お礼を言われるような事は、何も。偶然居合わせただけですし。私は、先輩もご存じの通り体も丈夫で、怪我もありませんでしたから。当然の事をしたまでです」
アオイと目が合うと、南城は自分の顔が次第に赤くなっていくのが分かった。
アオイの目を見ていると、普段は流れるように出てくる建前や世辞が中々出てこなくなる。それでも善い人を演じたくて言葉を選ぶが、アオイを前にすると、南城は自分の浅はかな心を見透かされているように感じてしまうのだ。
アオイは、ニコリと笑った。
口元にたこ焼きが運ばれてきて、南城は動揺しながら口を開ける。口を開いて閉じるという動作を急に忘れてしまったように、酷くぎこちなく南城はたこ焼きを頬張った。
アオイが同じ楊枝で自分の口にもたこ焼きを運ぶのを見て、南城は自分が悪いことをしているような気持ちになり目をそらす。緊張のあまり、もう味は分からない。
「あの、先輩。先日、公園で一緒にいらっしゃった……」
「ああ、淡路ね」
アオイの声に、少し棘を感じて南城は彼女に目を向けた。
「ご結婚、されるのでしょう?」
南城が恐る恐る尋ねると、アオイは首を横に振って応えた。たが何か事情でもあるのか、詳しく話そうとはしない。
「なにか、ご事情があるのですね」
分かっていても、南城は敢えて言葉を口にした。アオイの口から、結婚は嘘だという言葉を聞きたかったのだ。
間を置いて、アオイは無言で頷いた。
南城には、その仕草だけで充分だった。
やはり、結婚など嘘だったのだ――! そう、思わず声を上げそうになるのを抑えて、南城はアオイから差し出されたたこ焼きを笑顔で頬張る。相変わらず味は分からなかったが、先ほどよりも好ましく感じるのは気のせいではないだろう。
ふと見ると、アオイが口の端を親指の腹で拭っていた。
南城は、それを見ていることを気付かれてはいけないように思った。
視線だけではなく、自分の気持ちすら、南城は隠さなくてはいけないものだと考えていた。アオイのことを一人の女性として見ていることは、他の誰にも知られてはならない秘密なのだ。
だから南城は、会ったその場で自分の心を見抜いてきたあの淡路という男のことが好きになれなかった。自分のアオイへの思いを見抜いたということは、それだけ淡路もアオイのことを見ているということなのだろう。
南城の目に映った淡路という男は、一言でいえば異常だった。そこに居るのに、本当は存在していないような気味の悪さがあった。そういう気配を纏うような人間が、まともである筈がない。
「仕事は大変?」
アオイの言葉は、南城には唐突にも思えた。
「いえ、先輩に比べれば私は」
アオイと目が合って、南城は吐きかけた言葉を飲み込んだ。
「――本当は、少々手こずっています。この道を選んだのは自分ですが。……こんな私に、教育者の資格はないかもしれない」
南城の脳裏には、父や母、兄の姿が思い浮かんだ。父は区議会議員で、道場主。母は華道や茶道などの芸事の講師で、南城家は地元でも有数の名家である。
しかし、その家に生まれた兄は、半ば世捨て人のような生活を送っている。南城はそんな兄を見て、せめて自分は親のためにと真人間を目指しているが、現実は程遠い。
自分が悲観的な言葉を吐いたことに気付いて、南城は慌ててそれを取り消そうとした。誰も、他人のそんな言葉を受け取りたい筈がない。
「南城は昔から、自分に厳しいもんね」
アオイの言葉は温かく、表情は柔らかだった。
「資格なんて、きっと後から勝手についてくるものじゃない? 私だって、こんな仕事してていいのかなって思うけど。まあ、自分で選んだ以上は、やるけどね」
アオイが笑ったのにつられて、南城も笑った。笑うと、抱えていたものが少し消えていくようだった。
南城はアオイの考え方が好きで、笑顔が好きだ。どうすることもできない暗い考えに囚われているとき、アオイは言葉で、笑顔で助けてくれる。
(私は、狡い人間です)
アオイの笑顔に、南城は懺悔した。後輩として可愛がってくれている心優しい人を、自分は邪な目で見ている。
湧き上がってくる感情を、南城は心の奥底に押し込めた。日々強くなるそれは、いつか自分の体を食い破るような気さえした。




