5-9 願い ⑩
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アオイが目を閉じて意識を集中させていくと、彼女の中には幾つもの光があった。それらは奥深くへと進む度に増えていき、やがて満天の星空を思わせる光景が広がる。
小さいものに、大きなもの。弱いものに、強く瞬くもの。幾千幾万の光りは、それぞれがそれぞれの場所で輝いている。
その中で一際大きな光を見つけて抱き締めると、それはヒカルだった。ヒカルは体育座りするような恰好で眠っていたが、アオイに気付くと直ぐに目を覚ます。
抱擁して、姉弟は互いに微笑みを交わした。二人はお互いの本当の関係を知った後も、変わらずに姉弟のまま。
共に過ごした時間の長さは、二人を本当の家族に変えた。共に過ごした時間で二人は同じ笑い方をするようになって、価値観や考え方を近付けていったのだ。だから今の二人には、この時間が長く続かないことも、また別の闘いがあることも分かっていた。
この星は、もう昨日までのそれとは違うものだ。分厚い雲に覆われて地上に光は届かず、空から降り続けている雨は世界の海面を押し上げ続けている。赤い雨は海にも土壌にも影響を与えて、やがて生態系を狂わせていくだろう。そして中林の言うように、いつまた新たなアナザーが襲来するかも分からない状況だ。
この星を、以前の姿に戻す。それは、人々が「彼女」に触れる前に時を戻すことだった。それにより、世界はもう一度生まれ直すこととなる。
アオイがそれを考えた時、彼女と同じことをヒカルも考えていた。そしてこの考えが二人の永遠の別れに繋がることもまた、二人には理解出来ていた。
「私は、生まれるはずではなかった。人類にとって、接触してはならないものだった」
アオイは言葉を口にしながら、ルシエルの愛を噛み締めている。自分を生み出したのは彼の情熱と熱意に他ならず、自分をここまで生かし続けてくれたのは人間の愛情だ。
アオイには、ヒカルの姿にかつての彼が重なってみえる。その幼い命を守るために生きてきたつもりだったが、本当は自分こそが、その命に生かされていたのだ。
スプーンを握って、口の端にケチャップを付けてオムライスを頬張る顔。
遊んでいるうちに、リビングの床で大の字になって眠ってしまった姿。
楽しかった思い出を話そうとすると、いつも先に少し笑ってしまう癖。
いつも同じ場所に寝癖がつく髪。
声変わりした時、ずっと恥ずかしそうにしていたこと。
おでこが広めなことを、実は少し気にしていること。
大好きな幼馴染の女の子の話をする時、とても優しい目をしていること。
「……大きくなったね」
その言葉に、二人は思わず笑う。これまでに幾度となく口を衝いて出たその言葉だが、今日ほどそれを実感したことはなかった。
「アオ姉。大丈夫。僕がやるよ」
今のヒカルは、アオイと同じことを考えている。
中林が言ったように、例え地球が生まれ直したのだとしても、この星が見つかったことそれ自体は変わらない。イレギュラーを生み出した人類を、上位存在は危険視する可能性がある。この星を守るためには、誰かが闘い続けなくてはならない。
「色んなことがあったけど、でも、みんなのことが好きなんだ。だから、僕が闘う」
ヒカルの姿は、いつの間にかシルバーのボディスーツに包まれていた。ヘカトンケイルと呼ばれていたその姿が、彼の中に闘いのイメージとして強く残っていたのだろう。
「……それでいいの?」
アオイは弟の決断を受け止めきれずに、迷いを覚えている。確かに、今のヒカルには強い力が宿っていた。それは、どんなアナザーにも打ち勝つことが出来るものだ。
だがヒカルは、闘う性格をしていない。優しい彼に終わりのない闘いを強い続けることが、アオイには苦しいのだ。
アオイが戸惑っていることに気付くと、ヒカルは笑顔を見せた。そうすることで、彼は自分の覚悟を示したのだ。
再びきつく抱擁を交わすと、少しの間見つめ合って、それから二人は離れた。最後の「行ってきます」と「行ってらっしゃい」は、強くも弱くもあり、優しくも勇ましくもあり、なによりも人の熱に満ちていた。
アオイに見守られながら、ヒカルは他とは色の違う強く大きな光を放つ場所へと目指していく。そにあるのは、光の門。そこを潜ればアオイとは離れ離れになり、永遠にここには戻れない。
光に向かいながら、ヒカルはリリカのことを思った。アオイの中に取り込まれた時に、二人は再び分かれてしまったのだ。リリカと離れることは悲しかったが、彼女の生きていく星を守るのだと思えば、ヒカルに後悔はなかった。
そうして、ヒカルが光の門を潜ろうとした時――彼の体は不意に後ろから何者かによって掴まれ、強い力で押し退けられてしまった。ヒカルは抵抗できぬまま、遠くへと放られてしまう。
遠ざかる光の門。そこに消えていく、一人の男の後ろ姿。
(……インドラ!)
ヒカルの声は、言葉にならなかった。
アオイに取り込まれ、彼女の力で両腕を再生させたインドラ。しかし、彼の両の目は潰れたまま。彼は自ら求めて、闘いの場へと赴いたのだった。
アオイが強く祈ると、辺りには光が溢れだし、それは散らばっていた幾つもの光を飲み込んで増幅していく。
余りの眩しさに、ヒカルは目を閉じた。しかし、目を閉じても光は目の中を照らす。
増幅する光に触れて、ヒカルの体は溶けていく。全ての光は溶けあって、そこには数えきれないほどの命が溢れているのが分かる。
ヒカルは光の中で巻き起こる猛烈な流れに身を任せていくうち、不意に覚えのある気配に気付く。それは紛れもなく、中林のものだった。
ヒカルは流れに逆らって泳いでいき、中林の手を取る。中林は老人の変装姿でもなければ、幼児でも少年でもない。彼は本来の青年の姿で、目を閉じて眠っている。
光の流れに乗れずに離れて行こうとする中林の体を支えて、ヒカルは元の流れに戻ろうと藻掻いた。しかし幾ら腕を大きく振って足をバタつかせても、彼らの体は段々と光から離れていく。
それでもヒカルが諦めずにいると、突然、彼は体が軽くなるのを覚えた。見れば、中林を支える腕がもう一本。それは、リリカだった。
リリカはヒカルと一緒に中林を支えると、元の流れを目指して泳ぎ出す。
元の流れに戻るのは、大変なことだった。二人は随分と苦労して自分たちよりも大きく重い中林を支え続けたが、彼らはそれを一度も辛いとは感じなかった。
やがて彼らが光の中に戻った時、全身を心地よい暖かさに包まれて中林が目を開く。彼が最初に見聞きしたのは、自分を支えるヒカルとリリカの腕、そしてヒカルが口にした短い言葉。それはきっと、「良かった」だった。
(また、それだ。その言葉……)
中林はそれを、不思議に思った。もしも次があるのなら、今度はその言葉の意味を、ヒカルの気持ちを理解できるだろうかと。
それから三人は、正面からより強い光が近付いてくることに気付く。ヒカルとリリカはそれを笑顔で迎えている。そして中林もまた、少し困ったように笑って、光の中へと飲まれていった。




