5-9 願い ⑨
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「なんで――なんだよ……。なんで……」
ボロボロと泣き出した中林を見て、アオイと淡路は支え合い立ち上がった。彼らには中林とヒカルの会話を知る術は無かったが、唐突な変化を前に、彼の内側でなにかが起こっているのだと推測している。
中林は、髪を掻きむしって泣いていた。彼の脳裏には、これまでの人生で見聞きしてきたあらゆるものが次々に浮かんでいる。その中には純粋な優しさを向けられた場面もあったが、自分自身の幼さのために、それらは結果として辛い思い出になっていた。
分かっていることを認めるよりも、分からないフリをした方が楽だった。間違っていることを受け入れるよりも、正しいと信じ続ける方が楽だった。
でも、楽だと思っていた先には、辛いことが多かった。いつも自分を不当に傷付けるものから逃げているつもりでいたけれど、本当は自分で自分を袋小路に追い込んでいたのだ。
「……違う。まだ終わりじゃない。まだ、終わっていない!」
中林は声を張り上げると、迷いなく淡路を睨みつけた。アオイの力を淡路が継承したのであれば、その淡路を取り込めばいい。それはとてもシンプルで、そして間違いのない選択に思える。
「もう止めましょう。ルシエル」
アオイは、中林に語り掛ける。今の彼女の目には、ヒカルの体に中林の姿が重なって見えている。
「少し黙っていてくれ!」
中林はカッとなって、アオイに向けて腕を振るう。彼から発せられた炎は矢のようにアオイを襲ったが、それは彼女の遥か手前で突然現れた壁によって弾かれ消失した。
輝いて、消えていく氷の壁。その傍らに薄らと見える白装束の人物は、アオイに顔を見せることなく壁と共に消え去った。
(あなたは……)
アオイは、胸に手を当てて彼女のことを思う。
中林は口を大きく開いて、それから唇を噛み締めた。何も言えなかったのではなく、彼は思い浮かんだ幾つもの言葉を飲み込むしかなかったのだ。
中林の目を見つめて、アオイは彼の考えが変わらないことを悟った。
一度目を伏せて、アオイはまた前を向く。淡路が構えようとしていた銃に手を乗せて銃口を下げさせると、アオイは彼にナイフを渡すように求める。
淡路はアオイの表情から彼女の覚悟を読み取って、腰のベルトから引き抜いたコンバットナイフを手渡した。
「なにを考えているんだ?」
ナイフを手に迫ってくるアオイを、中林は笑った。
「忘れていないだろう?」
中林は、アオイの体が持つ力のことを言っている。アオイの体は、どんな傷でもたちどころに癒す力を持つ。彼女の血液を取り込んだことで、それは中林やヒカルの体にも受け継がれているのだ。
攻撃は無意味だということは、アオイにも分かっている。今、彼女の中では、天下井や向島、そして淡路の言葉が思い返されていた。
正面から近付くと、しっかりと両腕で抱き締めて、それからアオイは中林の腹を刺した。
中林は、避けない。彼は、傷が癒えることを信じている。
「……躊躇ったね? 浅いじゃないか」
腹に痛みはあっても、傷は想定よりもずっと浅い。中林は両腕を広げてアオイを抱き返すと、視線の先に一人立つ淡路を見つけてほくそ笑む。
中林は、その笑顔で勝利を宣言したつもりだった。しかし淡路の表情を見るうちに、彼は腹に受けた傷が肩のそれと同じように癒えない事に気付く。
アオイから体を離して、中林は血を流す自分の腹を見た。呼吸する度に腹は上下して、それに合わせてドクドクと血が流れ、体が痛みを訴えている。
「私の体は、『攻撃』を無効化しているだけ。あなたは、もう……助からない。あなたをここで止めることが、私の愛だから」
アオイの目には、涙が光っていた。
中林はアオイを見つめながら、口の中で小さく同じ言葉を繰り返している。彼は、今のアオイを否定するための言葉を探していた。彼女の言葉を認めることは、淡路から受けた癒えない肩の傷も認めることとなる。
「そんな訳がない。ありえないよ。イリス」
中林は顔を上げて、アオイの向こうに立つ淡路を睨む。自分の嫌いな相手が、自分に好意を持つはずがない。中林はそれを強く信じているが、しかし今、淡路は同情するような表情を見せている。
「……嘘だ。じゃあ、仮に……仮に、憎しみなんか無かったとして……だったら一体なんの……」
淡路を見て混乱しつつも、中林はナイフを引き抜こうとして腹に手を伸ばした。すると彼の左手は彼の意思に反して、ナイフをより深く押し込んだ。
一瞬走った電撃のような痛みで、中林はその場に両膝を着く。
「おまえ……! なにを考えて……!」
抗おうとする力と、ナイフを押し込もうとする力とで、中林の左手はブルブルと震えている。ヒカルの意志がナイフを握らせ、自らの体に刃を突き立てたのだ。
「死ぬんだぞ……!」
いよいよ焦って、中林は大の字になって引っ繰り返ると、体を反らしながらナイフを引き抜こうとする。しかしヒカルの意志が、それを拒む。
――「一緒にいるよ」
体の奥から聞こえた声。
意識の深層では、幼児姿の中林とヒカルが泣き疲れて眠っていた。二人の小さな手は、固く結ばれている。
ヒカルは、中林を見捨てないことを決めていた。
空から落ちてきた赤い矢を受けた時、必死になって自分を探しにきた姿。体を乗っ取った後も、ヒカルの中に存在するリリカを傷付けることだけはしなかった事。これまでの幾つもの場面で見てきた表情。それらからヒカルは、どんな形であれ、中林が自分を愛していることは事実なのだと知ったのだ。
中林は、自分がガタガタと震えているのが分かった。それが突然襲ってきた寒気によるものなのか、理解の及ばない者たちへの恐怖によるものなのかは分からない。
傍へ行くと、アオイは膝を着いて中林の手を取った。直ぐに淡路もそれに続いて、重ねるようにしてアオイと中林の手を包む。
「みんな、みんな馬鹿だ。馬鹿しかない……」
せめて淡路の手だけでも払いのけたい気持ちがあったが、中林はもう自分の体を動かすことが出来なくなっていた。痛みは、もう感じない。遠くの空は見えなくなって、傍にあるはずのアオイの顔すらぼやけている。
冷静になろうと意識して呼吸を繰り返すうち、中林は傍にいるはずのない人間たちの気配を感じるようになった。ここにはいるはずのない、今は生きているはずのないその人間たちは、かつてと同じ温かな目で中林に微笑みかけている。
自分は、ここで死ぬ――。
唐突に理解すると、中林の目は焦りや怒り、絶望で一杯になった。思い切り叫ぼうとしても、体には力が入らない。中林の体から流れ出た大量の血液は、空から降り注ぐ雨と混ざり合って赤い川を作っている。
「僕一人が死んだところで、宙は変わらない」
中林の目は空に向けられていたが、もうそこには何も映っていない。
「上位存在は、この星を見つけてしまった。君の存在に、気付いてしまった。インドラが消滅した今、君たちはどうするつもりだ……?」
中林は、驚くほど滑らかに言葉を紡ぐ。彼は直ぐにでも起き上がって笑い出すような不気味さすら纏っていたが、その体が既に限界であることは事実だ。
自分は間違っていたのだろうかと、中林は自問した。自分は自分なりの方法で、世界中の人間を愛そうとしただけ。それなのに今は、まるで世界の敵になったような扱いを受けて、惨めな死を迎えようとしている。
「全ては、愛のためなのに」
中林の足先は、既に消え始めている。
アオイは中林の頬に触れて、彼に顔を寄せた。
「ルシエル」
名前を呼ばれた途端に中林の視界は開け、そこには少女の姿が映った。サラサラの長い金髪を揺らして、頬をバラ色に染めて笑う姿。その金色の瞳には、まるで夢を見ているような青年の顔が映り込んでいる。
(君の目に、僕はそんな風に映っていたんだね……)
「……イリス……」
最後の言葉を残して、中林は消えた。これまで辺り構わず爪跡を残し続けてきた彼だったが、消える時は一瞬で、そこには余韻もなにもなかった。
後に残された核を手にして、アオイはそれを受け入れる。流れ込むのは、そこに宿された人々の思い。ヒカル。リリカ。そして、中林ことルシエル。三人を初めとして、数えきれないその中には「彼女」の存在もあった。
ヒカルの中に存在していた「彼女」のハートを取り込んで、アオイは自分の持つ力が体内で増幅していくのを感じている。その強大な力は、小さな人間の体内に留め続けることは困難に思えた。
アオイは再び、「ルシエル」と名前を呼んだ。目の裏に浮かぶのは、エコールでの日々。歪ではあれ、彼の愛情は確かにアオイに伝わっていたのだ。
ルシエルの過去や思いを受け入れて、アオイは祈るように目を閉じた。




