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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
TO BE (後編)

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403/408

5-9 願い ⑧

 * 



『目を開く。

 嫌な臭い。煙の臭い。


 背もたれに服が掛けられたソファ。物が乱雑に積み上げらえたダイニングテーブル。埃まみれのブラウン管テレビ。壁も床もシミだらけで、キッチンには大量の空き瓶。


 声が聞こえる。癪に障る声。磨かれたことのない濁った窓の向こうには、路地裏でボールを追いかけている子どもの姿がチラチラと見えている。


「金にもならない。……その癖、役にも立たない」


 キッチンの換気扇の下。その狭いスペースで体を縮めて、ガリガリに痩せた女がタバコを咥えて虚空を見つめている。適当に塗りたくったファンデーション。馬鹿みたいに真っ赤な唇。手入れされていない眉毛は嫌に細くて、虫の触角みたいに顔に貼り付いている。


「ノロマの穀潰し」


 女は、換気扇に向かって煙を吐く。態度はデカい癖に気が小さくて神経質だから、彼女はこの換気扇の下でしかタバコを吸えない。時々家にくる髭の男が大のタバコ嫌いで、「臭い」と騒いでは酒瓶を振り回すからだ。


「――ばいいのに」


 女の言葉には、時々聞き取れない単語がある。それはいつも同じ口の形から発せられる、とても短い言葉だ。とても、嫌な言葉だ。


 殴られるのを怖がる癖に、女はタバコを止められた試しがなかった。殴られて、泣いて、縋りつく。そうして朝になって男が帰ると、家の中と同じくらいに「ぼく」をグチャグチャにする。


 賢くなる必要があった。体が小さいから、自分の武器は頭の方だと分かっていた。


 役に立つ必要があった。役に立たないものには、居場所が与えられないから。


 お金が必要だった。お金は、人の心も買えたから。


 お金が、沢山必要だった。お金は、人の心を変えたから――』



「――これが、先生の記憶ですか?」


「……は?」


 後ろから声をかけられて、「ぼく」――中林は思わず気の抜けた声を漏らした。先程まで聞こえ続けていた心の声は消えて、キッチンの女も換気扇に吸い寄せられるタバコの煙もそのままの形で静止している。時間が、停まっているのだ。


 中林が振り向くと、後ろにあった窓からはヒカルが顔を出していた。彼は窓を開くなり、「お邪魔します」と言って家の中に足を踏み入れる。


「は……? なんで? ここは四階……いや、違う! おかしいじゃないか!」


「え? あ、靴?」


「違う! そうじゃない!」


 立ち上がると、中林は靴を脱ごうとしているヒカルの体を両手で思い切り突き飛ばした。ヒカルはソファに向かって倒れて、その奥にあった上着のかかっているポールや姿見などがガタガタと揺れる。


「なんだこれは……?」


 姿見に映り込む自分の姿に気付いて、中林は頬に手を当て、続けて髪や顎に触れた。鏡には、老人でも青年でもなく五歳くらいの少年が映っている。成長不良のために実際の歳よりも幼く見えるが、それは七歳の頃の中林そのものだった。


「どうして僕の家に居るんだ!」


 中林が叫ぶ度、高くて下っ足らずな声が部屋中に響く。彼は一瞬、大きな声を出した自分に気付いて身を竦めた。彼ら以外の時は止まったままであることに気付いても、心臓はバクバクと音を立てている。


「どうしてって言われても……。むしろ、先生が僕の中に入ってきたと思うんですが」


「それは……。……違う! 僕は、僕の中に入って良いなんて言ってないんだ!」


「ええ……。そんな無茶苦茶な」


 ヒカルは困ったように笑いながら、ソファに掛かっていた服を手に取って畳んでいる。先程まで命を懸けて殴り合っていたとは思えないほど、彼の表情は穏やかだ。


「やめろよ! やめろ! やめろ!」


 ヒカルに駆け寄って、中林は腕や脚をバタバタと動かした。


 ヒカルは衣服を畳んでいた手を止めて、自分に向かって振り下ろされる骨の浮いた手を見ている。


「こんなの違う! こんなの違う……!」


「――じゃあ、一緒に考えよう」


「……はあ?」


 中林が目を開くと、彼の体は見知らぬ教室の中にあった。両隣には、知らない子ども。目の前には大きな黒板があって、その前には「せんせい」と書かれた紙袋を被った男が立っている。


 教室の中には沢山の「おとこのこ」「おんなのこ」「わかんない」と描かれた袋を被った子どもが居て、彼らは皆、黒板の方を向いて大人しく座っていた。


 教室の隅には、一人だけ中林と同じように素顔を晒している子どもがいる。それは、紛れもなくヒカルだった。今の彼は、中林と同じ七歳の少年だ。


「はーい! それでは、みんなで考えてみよう!」


 「せんせい」がそう言うと、子どもたちはみんな一斉に拍手した。そのあまりに揃った動きに、中林は吐き気を覚える。


 黒板には、太く大きな文字で「世界中の人々とお友達になるには?」と描かれていた。その隣には、地球を囲んで手を繋いでいる子どもたちのイラスト。


 中林がぽかんとしていると、右隣の子どもが真っすぐに手を上げた。


「はい、それでは◇○△さん」


「はい! わたしは、せかいじゅうの人と、おはなしすることが、いちばん大切だと思います!」


「はい、そうですね~。はい、拍手」


 パチパチパチと、教室中に響く音。


 今度は、中林の左隣の子どもが手を挙げた。


「はい、それでは□△〇さん」


「はい! わたしは、せいかいじゅうの人に届くように、へいわへの思いを、お歌に込めたいと思います!」


「はい、素敵ですね~。はい、拍手」


 再びパチパチパチと、教室中に響く音。それは波のようにあらゆる方向から押し寄せて、中林に眩暈を覚えさせた。拍手の音は次第に大きくなっていき、同時に心がザワザワと騒ぎ出す。


 やがて誰かが「歌おう!」と言い出して、子どもたちは輪になって手を繋ぎ、明るい声でハキハキと歌い出した。皆は笑顔で、「夢が膨らむ」「希望にあふれる」「分かり合える」「信じている」といった言葉を多用した歌詞を口にしている。


 中林は輪の中心で机に突っ伏して、必死になって耳を塞いでいた。薄っぺらい歌詞と甲高い声が頭に響いて、目が飛び出しそうな程の強烈な頭痛に襲われている。


 みんな、死ねばいい。中林は、口の中で呟く。みんな、自分よりも馬鹿だから。

 みんな、消えればいい。中林は、強く祈る。みんな、自分よりも幸せだから。


 不意に目の前に人の気配を感じて、中林は弾かれるように顔を上げた。彼の前には、ヒカルの顔がある。ヒカルは他の子どもとは違って、輪の中で歌ったり踊ったりはしていない。


「なんだ? お前も、僕を攻撃するつもりなのか!」


 中林が吠えると、ヒカルは首を横に振った。それから彼は、小さな指で中林の手元を指す。


「それ、かして?」


「……え?」


 中林が右手を見ると、いつの間にかそこには赤いブロックが握られていた。子どもの掌にすっぽりとおさまる、凹凸のついた小さなブロック。中林はヒカルに急かされて、混乱するままそれを彼に手渡した。


「ありがとう! ……じゃーん! かんせい!」


 屈託のない笑顔。明るい声。


 中林が気付くと、彼はまた別の場所に居た。それは、かつてヒカルのような作られた子どもたちが過ごした場所――エコールだ。


 中林とヒカルは、先程よりも幼い姿になっていた。二人は三つか四つくらいの幼児になっていて、他に誰も居ない部屋の中心で玩具に囲まれている。


 ヒカルはブロックを積み上げてロボットを作り、それと傍に転がっていた着せ替え人形を戦わせ始めた。着せ替え人形は、青い水玉のシャツにショッキングピンクの花柄スカート、頭にはシルクハットといった前衛的な格好だ。片脚は、何故かポットに突っ込んでいる。


 中林は、しばらくヒカルが遊ぶのを眺めていた。他に出来ることもなく、したいことも思い浮かばない。状況も理解出来ず、何をすれば良いのかもわからない。


 ヒカルのロボットは、着せ替え人形をあっさりと倒した。だが、次に現れたパンダのぬいぐるみには苦戦を強いられ、ロボットの左腕はパンダの右ストレートで破壊されてしまう。


 右手にはパンダ。左手には壊れたロボットを手に、ヒカルはフルフルと震え出した。全て自分で演じているのに、彼はまるで悲劇を目にしたような顔をしている。


 それから、ヒカルはロボットを分解して大胆な改造を施し始めた。パンダに打ち勝つためには、破壊された腕の強化が必須だ。


 中林は、その様子も黙って見ていた。そうして随分と眺めているうちに、今度はなんだかもどかしい気持ちを抱き始めた。「もっとこうしたら良いのに」や「ああした方が強いのに」と幾度も思いながら、それを伝える方法を知らない自分にも気付いたのだ。


「あ……これ……」


 中林は床に転がっている小さなパーツを掴んで、ヒカルの方へずいと突き出す。彼は何故か心細いような気持ちになって、ヒカルから目を反らした。


「これ……」


「これ?」


「あ……かんせつ、まがるようにしたら……うで」


 床と空中と、右と左と、中林の視線は定まらない。自分の唾を飲み込む音が大きすぎるように思えて、彼は耳を塞ぎたい気持ちになった。


「いいね!」


 元気よくそう言うと、ヒカルは自分の傍にあったブロックを両手でかき集めて中林との間に集めた。中林も慌ててヒカルに倣い、二人は相談しながらロボットを一から組み立て始める。


 ああしたら、こうしたら。あれがいい、これがいい。そうやって言葉を交わしていく度、中林はいつの間にか自分のことを忘れて、二人はただの子どもになった。


 楽しいことを認めると、心は驚くほどに軽くなる。一度素直に認めてしまえば、後は幾らでも本当の言葉が湧いて出た。話しかければ返事があるという当たり前のことが泣くほど嬉しくて、中林は何度もヒカルに話しかけ、ヒカルもそれに何度でも応える。


 そうして、二人は何時間も遊び続けた。


 積み木の街に暮らす、大小様々なロボット達。本を並べて作った迷路の先には別の街があって、そこではぬいぐるみや人形たちが幸せに暮らしている。着せ替え人形は店を持っていて、それは服屋だったりガソリンスタンドだったりした。


 時々、街では大変な事件が発生する。ミニカー同士の衝突事故や、小さなボールが大量に押し寄せて建物を壊したり、悪い心を持った恐竜たちが襲ってきたりするのだ。その度に二人は力を合わせて闘い、問題を解決する度に街は大きく豊かになっていった。


「――九歳の時、大学に入ったんだ」


 ドライバーでラジコンの裏ブタを開けて、中林は折れてしまったパーツをピンセットで摘まみ上げている。


 ヒカルは中林の前に腹ばいの姿勢で寝転んで、足をバタつかせながら「はたらくくるま」の図鑑を眺めていた。


「十四で論文を書いて、十七の時に小さな賞を貰った。何処に行っても天才で……何処に行っても独りだった」


 幼児の姿をしていた中林が、途端に七歳、九歳、十四歳……と体を順に成長させていく。それに合わせるように、ヒカルの体も同じ年齢の姿へと成長していった。


 中林はラジコンを床に置いて立ち上がると、壁の方へ歩いて行って照明のスイッチを落とす。それから彼は天井からスクリーンを引っ張り下ろすと、何処からともなく部屋の中央に現れたプロジェクターで映画を投映し始めた。


 隣り合って座り、スクリーンを眺める二人。ヒカルは胡坐を掻いて、中林は足を投げだす。いつの間にか彼らの姿は、中林は二十歳に、ヒカルは元の十六歳になっていた。


 映画は、とある小惑星探査機についての物語だ。そこには人類の持つ宇宙への憧れと、夢と希望とが詰まっている。


「成長するにつれ、気付いた。僕は、みんなとは違う」


 中林がそれを悪い意味で口にしていることは、彼の口調から明らかだ。


「みんな言うんだよ。『お前は不幸だ』って。幸せになるためのハードルが、他とは違いすぎるんだ」


 スクリーンの中では、一人のエンジニアが満天の星空を見つめて目を輝かせている。


「何処に行っても嫌われるんだ。同じことをやっても、僕だけ悪く言われる。……みんな、僕が嫌いなんだ」


 中林が目元を手で覆って俯いても、ヒカルは真っすぐに前を見ている。


「いつも嫌だった。……でも、仲間が出来たんだ。やりたいことが見つかって、嬉しいことがあって、毎日が楽しくなった! ……ああ。そうだ。だけど、それもダメになったんだっけ」


 中林は言いながら、彼の記憶を全て思い出していた。彼の脳裏にはエコールで過ごした仲間との日々が浮かんでいたが、それらは次第に薄れていく。


「全部、ダメになったんだっけ」


 呟くと、その言葉は幾倍にも膨れ上がって中林の胸に返った。


「そっか、ダメになったのか。もう全部」


 立ち上がると、中林は傍に落ちていた積み木を引っ掴んでスクリーンに向かって力いっぱい投げつけた。積み木がぶつかったスクリーンは大きく凹んだけれど、またすぐに元に戻って映画の続きを映し出す。画面一杯に広がる小惑星帯の映像は、かなりチープな3D。


「あれも……これも……それも……」


 積み木の街を蹴り飛ばして、ロボットを掴んで投げ散らかし、本の迷路もぬいぐるみの街も滅茶苦茶にして、中林はスクリーンに駆け寄った。体重をかけて思い切り引っ張ると、スクリーンを釣っていた金具がギリギリガリガリ嫌な音を立てる。


 外れかけて大きく傾いたスクリーンに映るのは、探査機と地球の基地局との通信が途絶える悲劇的なシーン。


 中林の口が、なにかを叫んだ。それは、誰の耳にも聞き取ることは叶わなかった。


 中林が、またなにかを叫んだ。ヒカルの知らない国の言葉で、中林は世の中を呪うようなワードを連発している。


 中林は奇声を上げながら、手あたり次第に部屋中を荒らした。時々、中林が投げた物がぶつかりそうになっても、ヒカルは動かずに前を見続けていた。


 スクリーンには、もうなにも映っていない。プロジェクターは中林が放り投げて、それは少し離れた床の上で引っ繰り返っている。小さくジッという音を出しているそれは、死にかけの虫にも似て哀れだ。


 暴れるうち、中林は時々、子どもの姿に戻ったり大人の姿になったりした。初めは世間や時代を呪っていた彼だが、その内容は次第に彼自身に向いて、自分を卑下するような言葉ばかりを並べたてる。そして自分を攻める言葉すら言い尽くすと、その矛先はヒカルへと向かった。


 何も反応しないヒカルの前へ行くと、中林は彼に向かって暴言を吐く。しかし幾ら言葉を投げつけてもヒカルが口を開かないと分かると、今度は「自分を殺せ」と喚きだした。


 中林は大声で、殴ってくれ、殺してくれと喚く。それでもヒカルが応えないと、今度は自分を罵るように、無視するように、壊すように、なんでもいいから傷付けるようにと懇願するような声を上げる。


 子どもの姿に戻った中林は、ぶかぶかになった白衣の袖をブンブン振り回して泣きわめく。


 ヒカルは、目を反らさずに中林を見ている。彼は、暴れている中林の発する言葉が全て同じものであることに気付いていた。殴れ、殺せ、罵れ、無視しろと叫ぶその言葉は、全て「愛してくれ」という願いだ。


 ヒカルは、中林の生まれ育った環境に同情していた。そしてヒカルのこの思いは不思議と中林にも伝わっていて、彼は此処に最後のチャンスを見出す。


「体をくれ。ヒカル。君の体を、僕にくれ! 世界を変えるためのチャンスをくれ!」


 白衣の袖で涙を拭いて、中林はしっかりとヒカルの顔を見る。


 ヒカルも、視線を反らさずに中林に応える。


「嫌だよ」


 放たれた言葉に、中林は耳を疑う。驚きのあまり、声すら出ない。目の前の少年は自分に同情を寄せていたはずなのに、そこから発せられたのは純粋な拒否だ。


 ヒカルは、ここまで見てきた光景を思い出している。生まれの不幸。孤独な人生。ようやく得た喜びを失った深い悲しみ。中林が見せたそれらは、確かに彼に深い同情を覚えさせた。


「だけど、それは、他人を傷付けていい理由にはならない。僕の体は、渡せない」


 ヒカルの目には、迷いがなかった。


 説得は不可能なのだと、中林は理解する。


「……そんなことくらい……僕だって分かってるんだよぅ……!」


 中林の顔がグニャリと歪んで、彼の目からは涙が零れた。 

 

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