5-9 願い ⑥
*
同時刻。
「……あんなものは、もう――」
ずぶ濡れになった髪をかき上げ、空を見上げて中林は無意識に呟いていた。遠くの空で巻き起こった大爆発は海を揺らし、舞い上がった大量の水を雨のように降らせている。
船の上には、海水と共に空を舞った魚が散在していた。中林が吹き飛ばした船の建材の隙間で、それらは苦しそうに口をパクパクと動かしている。中林にとっては、それらが生きている事それ自体が驚きだった。
「大丈夫ですか。アオイさん」
隙間を縫うように耳に届く声。神経を逆撫でするそれは、忘れようとしても耳に残り続ける嫌な音。今、中林の視線の先には、イリス――東條アオイと淡路の姿があった。
アオイは淡路の首に腕を回して、彼に頬を寄せている。
淡路はアオイの行動を意外と感じたのか、少し驚いた様子で彼女の体を強く抱き返す。
「……アオイさん。驚かせてしまって……」
「違う。いいの。……分かってたから」
頬を離すと、アオイは淡路と真っすぐに見つめ合う。濡れた瞳は、言葉以上の思いを語る。だから、二人にはそれだけで充分だった。アオイは淡路の生存を信じていたし、今の彼女にはその理由も分かる。
「茶番じゃないか。茶番だ。こんなものは……!」
中林は、自分の声が震えているのが分かった。そしてそれは緊張や恐怖などではなく、純粋な怒りの為だということも。
アオイが振り向くと、中林の心は更に乱されることとなった。彼女の目は、彼が思うような色をしていない。本来ならば、今頃は温かな眼差しを向けられているはずだったのだ。その役を横から出てきた男に掻っ攫われて、心が穏やかである筈がなかった。
「どうしていつも……!」
右手を振り上げたところで、中林は痛みを覚えて思わず肩を押さえた。
「……なんだこれは」
左の掌にべたりとつく、真っ赤な血。肩から流れ出るそれは、腕や指先を伝って、地面にポタリポタリと垂れている。
傷が塞がっていないのだと理解して、中林は直ぐに第二東京タワーでの一件を思い出した。それは、展望デッキで淡路と対峙した時のことだ。あの時も、淡路によって撃ち込まれた弾は中林に癒えることのない傷を与えている。
特殊な弾か、何らかの技術によるものか。或いはその両方か――。今の中林は、あの時と同じ疑問を抱いている。だがそれは、あの時ほど長く続かなかった。
「……まあ、構わないさ。どっちだっていいんだ、もう。もう、なんだっていいんだ。だって、君はこれ以上、この体を撃てないだろう?」
中林は、両手を広げて笑った。その体は、彼に乗っ取られた東條ヒカルのものだ。
アオイの眉が、僅かに動く。中林は、それを見逃さない。
自分の優位は揺らがないと悟ると、中林には余裕が生まれた。
「まず、認めよう。そう。君は、生きていた。それはそうだ。ゴーストは、死なない。そういうものだ」
淡路のことを認めているのだと口にすると、不思議な程に中林は冷静になることが出来た。自分は相手をも認めることが出来るのだと、そういう強さを持つ人間なのだと、彼は自分自身に言い聞かせている。
「そして、認めよう。君の……それは、恐らく、私を殺めることが出来る。今は不死となったこの身でさえ、殺めることが出来るものだ。大したものだ!」
中林の指は、淡路の手の中の銃を指していた。そのハンドガンは何処でも使われている平凡なものだったが、今の中林には、マットに仕上げられたその塗装さえ神秘的に思えている。光を吸収するその様が、なにか彼の理想の姿にすら思えるのだ。
淡路の銃弾は、中林を殺めることが出来る。だが淡路は、アオイの意思に反する行動をとらない。東條ヒカルの体がこれ以上傷付けられることはなく、事態はどうやっても中林に都合よく進んでみえた。
「その体を……自分にとって都合の良い器を見つけることが、最後の計画か」
淡路が口にした疑問に、中林は答える必要性を全く感じていない。だが彼は、余裕と安堵から、多少の相手をしてやっても良いと思えるようになっていた。
勿論、中林には、計画の全てを教えてやるつもりはなかった。例えば、それはヒカルの体に「彼女」の核を埋め込んだ時期や方法だったり、何人もの人間をアナザーに変えてきたことだったりした。それは今の中林にとっては、とても些末なことだ。
そして中林がそれらを説明しなかったことは、アオイや淡路にとっては幸いと呼べるものでもあった。誰も、自分の大切なものが如何にして傷付けられたか、それを自ら進んで知りたいと思うものはいない。
「君。人の価値とは、なんだと思う? 『人間の持つ価値』とは?」
中林は無意識に、自分が一番嫌いだった「学校の先生」の口調を真似ていた。爆発したようなカーリーヘアに、分厚い瓶底眼鏡、シミだらけの顔。今となっては、その男が一体どこの学校のなんの教科担当だったのかも覚えていない。
「人間の価値はね、成長すること。進化することだよ。長い時間をかけて、それまでとは異なる形質を持つようになる。環境や、条件や、内部の発達に合わせてね。それは、イリスが持ち得なかったものだ」
中林はアオイと目を合わせると、出来るだけ優しく微笑んだ。彼は自分の言葉で彼女を傷付けてしまう可能性があることを分かっていて、それを心苦しく思っている。彼が笑顔に込めているのは、アオイを安心させたいという純粋な優しさだ。
そして同時に、中林は自分達が被害者であるようにも思っていた。この場に居る淡路という邪魔者によって、そうならざるを得ない状況へと追い込まれたようにも感じているのだ。
「イリス。君は、変わることが出来ない。変わるのは、多少の見た目だけ。それすらも、君が望んで行っていることだ。『ヒトと同じでありたい』という思いから、君が無意識にそうしているだけ。君は完璧だから、これ以上にも以下にもなれないんだよ」
自分の言葉が分かるかと、中林は尋ねた。分からない筈も、知らない筈もなかったが、それでも彼は事実を確認するために言葉を口にしている。表情を変えないアオイの様子が、中林には少女が精一杯強がりしているように見えて悲しい。
「勿論、だからと言って、君が無価値という訳ではないよ。……悲しいかな。同じように、全ての人間が『価値のある人間』ではない」
中林は、淡路へと蔑みの目を向けた。彼にとっての淡路は、無価値な人間に思える。ゴーストは、成長しない。彼らには、そのための糧となる過去が存在しない。
――「――!」
一瞬、頭に走るノイズ。中林は顔を顰めて、刺激の跡を追う。干渉してきたのは、彼の中に残るヒカルの意識だ。体内で暴れるヒカルの意識が、段々と深層から抜け出しつつある。
「……嫌だな、こんなことは」
無意識に呟いた言葉。その意味を、中林は知らない。
割れそうに痛む後頭部に手を添えようとして、中林は異変を覚えた。上げた筈の左手は、彼の左脚にピタリと吸いつくようにして下を向いている。ヒカルの意識が、再び体の主導権を握ろうとしているのだ。
さらに異変を察知して、中林は空を見上げた。そこに広がるのは、一面の赤。つい先ほどインドラが相殺してみせた赤い矢が、再び地上に向けて放たれようとしている。
「……二撃目……?」
正面には彼の命を狙う者が存在することも忘れて、中林は空を見上げたまま口をぽかんと開けている。彼の視線の先には、一人の男の姿。大空の中にあってはゴマ粒ほどにしか見えないその人間が、上位存在をも恐れさせ、焦らせているのだ。
今まさに、空から落ちようとしている赤い矢。
そこに向かって撃ち出される強烈な稲光。
目を潰し、身を焼くような熱の嵐。
そうして、世界中の空が、再び真白な光に包まれた。




