5-9 願い ⑤
*
同時刻。
なにかが、おかしい――国後はそう直感して、運転席に目を向けた。ミラーには、能登の真剣な眼差し。
声をかけるべきか少し迷ったが、国後は何処かで停車するように依頼した。能登は意外そうな顔を見せたが、直ぐに彼も状況の変化に気付く。
今、自分たちを追跡する者はない。国後は、それに気付いた。彼の作業を妨害しようと試みていた動きは鳴りを潜め、今は全くのフリーだ。それは、なにかの罠かと疑うほど。
そして時を同じくして、彼らと遠く離れた海上では、向島も同じ予感を感じ取っていた。
「静かなものだ」
向島は、遠くの空を眺めている。先程まで、そこには稲妻が暴れ狂っていた。しかし今、空には小さな粒が浮かんで見えるだけ。閃光も、爆音も聞こえてこない。
空に浮かぶ巨大な目は、変わらずに存在している。だが、そこから感じていた巨大な圧が、今は和らいだような印象を受けるのだ。それはあくまで向島の主観に過ぎないが、しかしそれは実態とかけ離れている訳でもなかった。
「人を進化させるべきか、そうでないか。そんなことは、誰にも答えが出せるものではない」
向島のその呟きは、いつかの天下井へのアンサーだ。
人生は、偶然の連続で出来ている。出会いと別れを経験する中で、今の向島はそれを強く思っていた。そんな彼にしてみれば、人間がこれから進むべき道というものも、なにかの偶然によって作られていくものに思えるのだ。
「だが、侵略者に対しては、ハッキリと意志を示さねばならない。例え、その相手がどんなものであってもな」
人差し指を銃口に見立てて、戯れに窓の外を撃つ。向島の耳には、ここには居ない男の皮肉めいた口調が思い起こされている。
今の向島は、自分に「観測者」という新たな役割が課せられたことを悟っていた。
*
――「……しゃあんめえ。おめえ、今日から『タツキ』だ。『北上タツキ』」
蘇る懐かしい声。インドラ――北上は、ハッと我に返った。彼の周囲には焼け焦げた幾つもの塊が浮かんでいて、それらはボロボロと崩れ、風に乗って少しずつ消えていく。
(じいさん……)
潰れた左目の奥で、気難しそうな老人が顎を撫でている。彼は北上が手渡した寮母からの手紙に何度も目を通して、困ったような、呆れたような、諦めたような声で唸った。それは、二人が初めて顔を合わせた時の記憶だ。
じいさんの口にした「しゃあんめえ」という言葉は聞いたことが無かったが、北上は恐らく「仕方がない」という意味なのだろうと推測して、子どもなりにそれを申し訳なく思った。誰も、自分のような子どもを引き取りたい筈がないと思ったのだ。
じいさんは居間の入り口で正座している北上の前までやってくると、ずいと顔を寄せて、北上の目を見た。
「嫌か? 新しい名前」
北上は、無言で首を横に振った。
「……そうか。俺のことは、『じいさん』でいい。この歳で『父さん』もあんめえ。説明も面倒だろ?」
北上が頷くと、じいさんは彼の頭に手を置いてグリグリと撫でまわした。
「しゃあんめえよな? しゃあんめえよ。惚れた女の頼みじゃあな」
片方の口を持ち上げて、じいさんはニヤリと笑う。
その笑顔を見た時、北上は、じいさんの言う「しゃあんめえ」には自分が思う以上の意味が込められているように思った。それから、自分はこの老人のことが好きになれそうだとも。
(じいさんは……)
北上が左目に手を当てると、じいさんの幻は消えた。耳には彼の声が残っているが、それも直ぐに消えてしまう。
北上は、自分がまだ闘いの中にいることを思い出した。
見上げた空には、巨大な目。
いつの間にか、空は赤く染まっていた。そこには見覚えのある巨大な光の円が現れ、それは滑るようにして中心に向かって範囲を狭めていく。空を覆う巨大な目は、再び地上に向けて赤い矢を落とそうとしているのだ。
その真下で、北上は静かに目を閉じた。覚えのあるそれは、到底自分一人の力で抑えきれるものではない。ましてや、この位置でまともに喰らえば命はないだろう。
死が近付いたことを悟って、北上の心は穏やかだ。彼はそれを待ち望んでいたし、これほどの巨大な力に破れたのだとあれば、それは仕方のない事に思えた。
「結局、言い訳が欲しいんだろ――?」
北上は、じいさんや南城の声を聞いたように思った。だが、それは、他でもない彼自身の声だった。
愛されないこと。
満たされないこと。
一人ぼっちなこと。
責任を投げ出すこと。
そして、負けること――。
誰か何かの中に幾つもの理由を探して、「仕方がない」と言う。そうして諦めることで自分を守ったつもりなっている生き方が、北上には嫌だった。
北上は、目を開く。彼の視界に映る世界は、赤一色。ジワジワと目を焼かれて、北上の視界は狭まっていく。
「――受けようなどとは思うな。弾き返せ」
聞こえてきたのは、南城サクラの声。
いつの間にか、隣には南城の姿があった。白装束にキツネ面の姿で、南城は光を失った北上の視界にのみ存在している。
「出来るだろう? インドラ」
やって見せろと、南城が北上を鼓舞する。
北上は、口の端で笑った。今の彼には、迫りくる光の矢も、空に浮かぶ巨大な目も、そこから今まさに生まれ出ようとしているアナザーも見えていない。彼には、世界中の全てが時を止めたように感じている。
(……そうか。君は、そこにいたのか)
今の北上は、光を失った世界に南城を、じいさんを、失った過去を見ていた。それらは彼から闘いを取り上げてはくれなかったが、代わりに闘う理由を与え続けている。
しくじるなよと、南城が言う。ミカンや滝、今を生きる人々を守れと。
北上は、「うん」と頷いた。彼はまた、じいさんと初めて顔を合わせた日のことを思い出している。あの時のじいさんの気持ちが、今の彼には分かるように思う。
仕方がない。愛の前に、人は無力なのだから。
仕方がないのだ。愛は簡単に、人を狂わせてしまうから。
迫りくる矢に向けて、北上は手をかざした。攻撃を受け止めることは出来ない。南城の言うように、弾き返す。体は、既に動いている。
北上の体が、電撃を放つ。真っすぐに、空を衝く勢い。それは目前に迫った矢と衝突し、熱と音とを放ち、辺り一帯の空を強く輝かせた。
衝撃は突風を生み、それは大地や海へと強く吹き付け、全てを薙ぎ払うように暴れ狂う。空高く舞い上がった飛沫は雨のように地面や水面に叩き付けられ、乾いた大地には巨大な亀裂が走って大量の木々や車や建物を飲み込んだ。
空が激しく震え、音が響いている。それは終末を思わせるラッパではなく、打ち鳴らすような太鼓の音。
空を塞いでいる巨大な目が、変化を見せた。瞳孔が開き、また閉じる。放った攻撃が相殺されたことに、その存在は驚きを超えて恐怖を覚え始めていた。
空に浮かぶのは、ちっぽけな人間が一人。今は目も見えず、音も失った男。
プツリと音を立てて、巨大な目の端に小さな裂傷が走る。そこに薄らと滲んで見える血は、人と同じ鮮やかな赤。
北上の攻撃は、空を塞ぐ存在へと届き始めていた。




