5-8 神成 ⑩
*
高咲。
ヒカルの腕の中。中林の体は淡く輝くと、静かに消えていく。ヒカルは中林がすっかり見えなくなるまで彼の事を見つめ続け、やがて残された核を手にした。
中林の残した核は、存外に小さく弱い光を放っている。ヒカルに血を与え続けたことで、中林には殆ど力が残されていなかったのかもしれない。それを思うと、ヒカルの胸は強く痛んだ。
迷いを振り切るように、目を閉じてヒカルは核を一息に呑みこむ。立ち上がって空を睨みつけると、彼は周囲の気配を注意深く探り始めた。
インドラの気配は、感じられない。あの時、ヒカルはインドラが何処へ飛ばされたのか見ておらず、今は彼の気配を辿ることも出来そうになかった。
これまでの経験から、直にのた打ち回るような激痛がやってくるだろうと予想して、ヒカルはまず身を隠す場所を探すことにした。急いで残りの核を回収したいという思いはあったが、先ずは中林の核が体に順応するのを待つことにしたのだ。
河原を二、三歩と歩いたところで、ヒカルは地面が大きく揺れ出したことに気付く。現実に地震が起きているのではなく、酷い眩暈によって彼の視界だけがぐわんぐわんと大きく揺れているのだ。そして猛烈な吐き気と寒気で、体はガタガタと震え出す。
なにか、おかしい――。ヒカルがそう感じるまでに、時間はかからなかった。リリカを吸収した時も、中林の血を受け入れた時も、こんな感覚はなかった。
数分と経たず、ついに一歩も歩くことが出来なくなり、ヒカルはぐしゃりと崩れるようにして河原に倒れた。意識はハッキリしているのにも関わらず、声も出せなければ体の感覚もない。
やがて、ヒカルの耳には声が届き始めた。
なにか、聞こえる。
それは、ヒカルの頭の中で聞こえている。ヒカルは自分の意志で目を閉じることも出来ず、瞬きすることもなく、ただ聞こえてくる声に意識を集中させた。
「――た」
(……先生……?)
「長かった……」
(どうして……)
「ああ、ようやく入れた――!」
真っ暗闇の中。ヒカルは、突如として現れた中林に呑み込まれてしまった。それは一瞬のこと。なにもかも、瞬きする間の出来事だ。
最初から、取り込まれることが中林の狙いだった。それに気づいた時、ヒカルは既に体を乗っ取られた後だった。
パチパチと、動作を確かめるようにヒカルは瞬きする。それから彼はスッと立ち上がると、左手の拳を小指から順に握る動作を繰り返した。
「……いいなあ。若い体は」
ヒカルの顔で、ヒカルの声で、中林はクククと笑う。
ヒカルは今、彼の体の中で、中林の闇に飲まれて意識を失っている。
「さあ。イリス。再会の時は近いぞ」
満足そうに顎を撫でると、中林はヒカルの体を操って空へと跳躍した。
――時を同じくして、群馬県山中。
土の匂い。
鉄の味。
季節外れの生暖かい風。
どこかで、猫が鳴いている――。
「――何をしている?」
南城の声で、北上は目を覚ました。暗闇の真ん中に、袴姿の南城がポツンと立っている。
北上は手を伸ばそうとして、右の肩が外れている事に気付いた。
「聞こえないのか? 何をしている?」
南城の声は、まるで初めて会った頃のように冷淡だ。彼女の目は、地面に転がる北上を冷たく見下ろしている。
「もう……君の所へ行きたい」
無意識に、口を衝いて出た言葉。それは紛れもなく、北上の本音だった。
南城を殺めた今、北上に出来ることはアナザーを狩る他なかった。闘いの中でなら、死ぬことが出来る。今の彼は、死を強く求めている。
北上の脳裏に、ミカンの姿がチラつく。彼女は、置いて逝く自分を恨むだろうか――そんな考えが、北上の頭を過ぎった。無責任なことは、重々承知している。ミカンも家も仕事も放り出していくのだから。それでも、今の彼には立ち上がる力がない。
小さく、舌打ちするような音。
北上の視線の先で、南城は彼に背を向けた。
「失望したよ。なんだ、その程度か。お前には、心底ガッカリした」
嫌悪感を露わにする南城の声。北上には、彼女が言わんとしていることが分かる。
それでも、脚は動かない。
北上が瞬きする間に、南城は彼に刃を向けていた。それは北上の鼻先に触れそうな距離で、彼の顔に鋭い光を投げている。
「お前の目は、何を見ている? 役に立たぬなら、もう片方も抉ってしまえ」
淡々と言い放つ南城。彼女の目は、北上を真っすぐに捉えている。
北上は、そんな南城の姿が透け始めていることに気づいた。彼女の髪や足先は、既に消えている所がある。キラキラと輝きながら消えゆくその様は、まるで雪のようだ。
「見るべきものを見ろ。聞くべきものを聞け。そして、為すべきことを為せ」
刃が北上の目の前で素早く動き、空気を切り裂いた。それは、北上の迷いを振り切るようでもあった。
「立て、北上」
言いながら、南城は風に攫われて消えていく。
北上は、その風の行く方へ目を向けた。
目を閉じて、ゆっくりと開く。
なぎ倒された木々の合間から見える空には、巨大な目。そしてそこから向かってくるのは、無数の黒点。北上には、それらがアナザーであると分かっていた。
立ち上がり、歯を食いしばりながら、北上は抜けた右肩を無理矢理はめ込む。歯の隙間からは、うめき声が漏れる。
痛みは、体中にあった。何処もかしこもボロボロで、目は霞み、視界は狭い。恐らく、肋骨も幾本か折れているのだろう。動く度、息をする度に、体は限界を訴えている。
貼り付くように残っていたシャツを脱ぎ捨てると、北上は靴と時計も投げ捨てた。
――行けるな?
北上には、南城の声が聞こえたように思えた。
うんと、北上は頷く。
「分かった。南城」
――再び、高咲周辺。
「おお。集まってきたか!」
イリスのもとを目指す、その道中。空を見上げて、中林は喜びの声を上げた。ヒカルの体を乗っ取った彼は、普段とは違う自分の声をくすぐったく感じている。今は、それも楽しいことだ。
空を埋め尽くす黒い影。各地へ散っていたアナザー達に加えて、それは天を塞ぐ巨大な瞳からも生み出されているように見える。その数は、百や二百ではなかった。千とも万とも思えるその集団は、巨大な核の反応につられて降下してきている。
「イリスか、或いはこの私か。……どちらにせよ、これは実に――」
中林は、思わず言葉を呑み込んだ。
突如、アナザー達の中に現れた人影。それを中心にして、三六〇度、全方向に降り注ぐ雷。
空が燃え尽きてしまうのではないかと思う程、辺り一面が真白になった。その光は目にした者の視力を奪い、遅れてやってきた音は耳の機能を奪う。
「……インドラ」
中林が再び空を見ることが出来るようになった時、彼の視界には空に浮かぶインドラの姿があった。
インドラは上裸で両腕をダラリと下げ、消し炭となり落下していくアナザー達の中心で天を見上げている。アナザー達の残した核は、引き寄せられるようにしてインドラに吸収されていく。
インドラの視線の先には、再び瞳から生まれ出たアナザー達の集団があった。恐らく、それは幾らでも無限に供給されるのだ。
そうして、インドラは空を覆う化物を相手に闘い始めた。腕が、脚がアナザーを捉え、雷がアナザーを撃つ。その度に空は震え、嵐のような音が鳴り響く。
中林以外にも、地上でその闘いを目にしている者たちがいた。破壊された避難所や、倒壊した建物に居た人々。彼らの多くは、空を見上げて無意識のうちに手を合わせていた。
「神様が闘っている――」
いつしか、誰もがそう口にしていた。




