5-8 神成 ⑧
*
高咲。
ヒカルとインドラの闘いは、尚も続いていた。
「スッキリサッパリしたものだ」
見通しのよくなった街に降り立って、中林は呑気に辺りを散歩していた。彼はインドラから敵として認識されてもいなかったし、闘いに夢中なヒカルの頭からは存在が抜け落ちている。
相手にはされていないが、妙な動きをすれば二人は自分を殺しに来る――中林はそれを分かっていたから、街を出てイリスの元へ向かうこともなかった。彼はあくまでヒカルを必要としていたので、一人で向かっても意味がないと考えているのだ。
街は、見る影もなかった。二人の闘いで生じる衝撃波や暴風は、街から離れた場所にも影響を与えている。
「このままでは、全て更地になってしまうな。……それも良いか。また造ればいい。何もかも、また初めから」
時々、空気が揺れてビリビリと嫌な音を立てた。その度に耳も頭もチリチリと痛んで、中林は溜息を漏らす。
剥き出しになった建物の基礎に入り込んで、中林はその中に腰を下ろした。大小様々な大きさに区切られた部屋。その中で一番大きな空間は、リビングがあった場所だろうか。
(そこが風呂。そこがトイレ。向こうが玄関……)
頭の中で思い描いたレイアウトを廃墟同然の建物に重ねて、中林はそこで暮らす家族の姿を思い描いてみた。
(今は、朝だ。ダイニングにいる。テーブルは……丸だ。丸いのがいい。何処に座っても、皆が隣り合う形。トーストと目玉焼きとサラダと……。真っ赤なジャムと、タップリのバターと、ボソボソして甘くないリンゴ……)
中林の思い描いた空想の世界では、とある家族が食事を楽しんでいた。彼らは皆、人形だ。人形の頭にはずた袋が被せられていて、そこには異国の文字で「お父さん」「お母さん」「僕」と赤字で描かれている。
(「お父さん」は新聞に夢中で、「お母さん」の呼びかけにもうわの空だ。「あなた、会社に遅刻しますよ」……そうやって、もう三回め)
中林の空想の世界。リビングの隅では、毛の長い大きな老犬がお気に入りのクッションの上で眠っている。その犬は年寄りで、一日の大半を眠って過ごすのだ。
皿を洗う音。室内に漂うコーヒーとシャボンの香り。
テーブルの中央にある花瓶には市場で買ってきた花が活けられて、窓際ではレースのカーテンが揺れている。
(ドア横の壁紙が汚れているのは……そうだ、落書きでもしたんだ。ペパーミント色の壁紙に「僕」が落書きをして、「お母さん」に見つかる前にシャツの裾で擦ったら余計に汚れてしまって……)
中林がイメージを重ねていく度に、彼の空想の世界は華やかになっていった。だが、ここにはそんな親子は住んでいないし、老犬もいない。今は、もう何もない。ここで紡がれていくはずだった時間は、全く別のものへと変化を余儀なくされている。
中林にとって、幸せは一瞬で奪われるもので、不幸は延々と続くものだった。それはいつも外からやってきて、圧倒的な力で人々を圧し潰す。その癖いつまでも居座って、立ち上がることも、息をすることもままならなくさせるのだ。
「だから、強く賢くあるべきだ」
中林は、考える。外からやってくる数多の不幸を退ける方法は、自分の内側にこそ見出すべきだと。個の強さを追い求めることは、ひいては人類全体の強さに繋がるものだと。
「だから我々には、永遠の時間が必要だ」
中林は、こうも考える。人類の多くが「その地点」に到達するためには、膨大な挑戦と失敗の積み重ねが必要なのだ。何もかも上手く行くわけがない。これから先、幾度も心を折られ膝を折ることだろう。しかし無限の時間が約束されていれば、人は幾度でも立ち上がる。
突然、空が哭いた。
中林は立ち上がると、親指と人差し指で輪っかを作って、そこから空を眺めた。
ゴゴゴゴと、地響きのような音。それは、空から聞こえている。
空にあった巨大な目が、恐ろしく素早く瞬きした。それは大きさからは考えられないほどのスピードで行われたので、空を見上げていた人々の中にも気付かない者がいるほどだった。
やがて、空は赤く染まっていく。
「ああ、これは……マズい……」
中林の額から、大粒の汗が零れていく。
赤く染まった空。そこに現れた巨大な円。それは滑らかな動きで円の中心に向かって動き、範囲を狭めていく。
同じ頃。中林と離れた場所では、異変を感じたヒカルとインドラも距離を取って互いに空を見上げていた。
「――!」
インドラがなにか叫ぶのを、そしてそれが途中で掻き消されるのをヒカルは聞いた。
落ちてくる一筋の赤い光。それは、ヒカルとインドラの間で大爆発を巻き起こした。
抉れた地面と共に、ヒカルとインドラは正反対の方向へと吹き飛ばされていく。インドラは北西方向の山中へ、ヒカルは南東方向へ飛ばされて、彼らは地面に叩き付けられるように落下した。
(……南……城……)
落下の衝撃で頭を強打し、インドラは完全に意識を失う。目の前が暗くなる瞬間、彼はそこに南城サクラの姿を見たように思った。
辺りには、大量の血が流れている。
*
「ヒカル! ああ! ヒカル! ヒカル!」
遠くから繰り返し呼ぶその声を、ヒカルは下半身が川に浸かった状態で聞いている。何が起こったのか、理解が追いついていない。ただ気付いた時、彼の体は河川敷にあった。
ゴツゴツした石や岩、川の水の冷たさ。感覚が、ゆっくりと四肢を通して明らかになっていく。それは、彼の体が再生していることの証明だった。背中や折れた腕が、痛みとともに再生している。
「ヒカル!」
近付く中林の声。ザッザッと、岩場を走る足音。
ヒカルは川の中で、左の拳を確かめるようにゆっくりと握りこんだ。
腕は、もう動く。
「ああ! ヒカル!」
中林は一目散にヒカルに駆け寄ると、両手を広げて彼の体を抱いた。冷たい水に浸かる我が子を、一秒でも早く陸に上げてやりたかったのだ。
ずぶりと、鈍い音。
中林は、腕の中のヒカルを見る。
ヒカルも、中林を真っすぐに見上げた。
混血を思わせる、エキゾチックな目元。それは段々と歪んでいき、やがて薄い唇の端からは静かに赤い筋が垂れていく。
中林の目が、ヒカルの目を、口を、首を、胸を順に捉える。そうして彼の目は、最後に彼自身の胸元を見た。固い骨で守られているはずの胸。今そこには、ヒカルの腕が突き刺さって見えている。
「……いくら貴方の血に特別な力があったとしても、その血を作り出す事が出来なければ意味がない」
中林は、もう一度ヒカルの目を見た。少年の目は真っすぐで、それでいてギラギラした強い光を放っている。
ヒカルは、息を呑んだ。彼はそうして、冷静になろうと努力していた。彼には、自分の行為がどれだけ残酷なものが分かっている。これ以上は、取り返しがつかないことも。
中林の口が動くのに合わせて、ヒカルは拳を握り締めた。
掌の中。消えることのない、命の感触。
中林は、小さく呻いた。彼は目を閉じると、ヒカルにもたれ掛かる。
右腕で中林を抱くと、ヒカルも同じように目を閉じた。
まだ温かい体。
人の熱。
ヒカルの腕は、震えていた。




