5-8 神成 ③
*
十五時半。
身なりを整え、北上は仏壇の前で手を合わせた。周囲に漂う線香の匂い。無音であるはずの部屋には、聞こえる筈のない者たちの声。仏壇に飾られた写真の老人は、今日も気難しそうな顔で北上を見る。
膝に乗ってきた子猫を抱き上げると、北上はガスの元栓を締めて、ブレーカーを落としてから、猫の生活道具が詰められた紙袋を手に家を後にした。
街には、冷たい風が吹き付けていた。雪は、まだどこも除雪されていない。幾つか足跡が残されているけれど、それらは家の周囲にポツポツとある程度で、何処かへ向かった様子はなかった。空に浮かぶ巨大な目玉のために、人々は家に篭もっているのだ。
雪の上に舞い落ちた桜の花びらは、風が吹く度に舞い上がり、運ばれていく。水に濡れてすっかり重くなったものなどは、雪の上に薄桃色の絨毯のように広がっている。それらは陽の光を拾って、時折、自らの存在を主張するように輝いてみえた。
街は、美しかった。雪と花とが染めた白い世界は、家々の持つ色を浮き上がらせている。
道すがら、子猫のミカンは、何度も北上の方を見上げた。勘の鋭いこの生き物は、これから起きる事が分かっているのかもしれない。そして、それが止められないということも。
南城家の正門の前に着くと、北上は呼び鈴を押して「ごめんください」と声を掛ける。応対した老婆――家政婦の滝は声で北上に気付くと、割烹着の前で濡れた手を拭きながら、パタパタと玄関先まで駆けてきた。
玄関の扉の向こう。家の匂い。それは、短い夢の中と同じ匂い。
グッと口元を結んで、北上は視線を落とす。目に映る石畳、柱の色、奥に続く廊下や家中の空気――それら全てが、今はただ辛い。
「北上先生! ……お出かけですか?」
滝は、喪服姿の北上を見てそう尋ねた。彼女は、出来るだけ平静を装っている。北上の左目を覆うガーゼは既に血が滲んで、子猫を抱く彼の手にも無数の傷があった。
仕事でないことは、滝には分かっている。世間は、突然の桜の開花や空に浮かぶ目玉に関する話題で持ち切りだ。政府は対応を追われ、主要な交通網も運休や欠便、欠航となっている。区内の学校は、全て休校となった。今、街を出歩いている者はいない。
「ご迷惑を承知で、猫を……預かって頂きたいのです」
「あら。ええ、ええ。旦那様からも、お嬢様からも聞いておりますよ。ミカンちゃんでしょう? 勿論、大歓迎ですよ」
滝は北上の雰囲気が普段と異なることを感じていたが、それに触れようとはしない。彼女は昨夜から家に戻らないサクラのことを尋ねたいと思っていたが、今はそれに触れることを怖いと感じている。
今朝は、滝の思い描いていた朝とは違っていた。滝の予想では、サクラが気恥ずかしそうに、困ったように、父親の居ない時間を狙って帰宅してくるはずだったのだ。それはそれは、とても喜ばしい報告と共に。
だが今、北上の隣には、サクラの姿はない。
「さあさ。おいで、ミカンちゃん」
滝が手を伸ばすと、ミカンは北上の方を見上げながら、彼の洋服に爪を立てて離れまいとした。
北上は子猫を見つめたまま、小さな爪が折れないように、一つ一つ外していく。その優しい手つきは、見ている滝の胸を苦しくさせた。彼女は北上の表情と子猫の顔を見るうちに、良くない予感を抱いたのだ。
「ほうら。いい子、いい子」
腕に抱いて体を揺らしながら、滝はミカンを赤子のようにあやしている。
ミカンがミィと鳴き、北上は「うん」と頷く。それからミカンの頭をワシワシ撫でると、北上は頭を深々と下げて、荷物を置いて南城家を後にした。
「……先生!」
北上を追いかけて門を飛び出すと、滝は思わず彼を呼び止めていた。彼女の目には、北上の背中が不吉な陰に覆われているように思える。
北上は、振り返らなかった。彼は少し顔を傾けて、小さく頭を下げただけ。
この男は、死にに行く――。
滝はそれに気付いても、彼を止める事はしなかった。それは、出来ないのだ。こうまで強い覚悟を決めた男を、どうやって止めることが出来るだろうか。
子猫を胸に抱いて、滝は息を呑む。彼女は、可愛いサクラがもう戻らない事にも気付いている。
突然の大雪。
桜の開花。
人々を見下ろす、巨大な目。
考えたくはないことだったが、それらとサクラには何らかの関係があることを悟って、滝は背筋に冷たいものを覚えている。
北上はジャケットの内側に手を入れると、スラックスの背中とベルトの間に挿していたキツネの面を被り、空へ向かって跳んだ。目的は、一つだけ。倒すべき敵がいる方へ、向かうだけ。
「……行ってらっしゃいませ」
遠くなっていく影に、滝は願いを込めてそう呟く。彼女にとっては、北上の正体などは最早どうでも良かった。彼女は、ただ無事を祈るだけだ。
滝の腕の中。ミカンは、北上の消えた方角を見つめている。その小さな目は、何時までも最愛の家族の姿を追っていた。




