5-7 花は桜木、人は武士 ⑲
*
雪原の中央で、北上とアンズが横たわっている。彼らは、深い眠りの中に居るのだ。
北上の左目から流れ出る液体は、彼の顔の傍に血だまりを作っていた。傍に立って二人を眺めていたケイイチロウは、その光景を楽しんでいる。雪を染める紅は、まるで花のように美しい。
「悩んだって、考えたって、無駄さね。インドラ。それが、人間というやつだろう?」
ケイイチロウは、薄らと笑う。
アンズが南城や幻の子どもたちの口を使って言わせたような事は、どうにもならないことだ。劣等感から生じる他人の不平や不満など、ぶつけられた側にどうこうと出来るものではない。
強い。賢い。美しい。そういった優れた人間は、理不尽に恨まれ憎まれるのが世の常だ。どれだけ気を回しても全てを回避することなど出来はしないし、そんなことに気を揉んでも仕方がない。他人の心を変えることなど、出来ないのだから。
ただ、それを理解していても、それでも悩みが尽きないのが人間という生き物の性なのだが。
「本当に、困ったお嬢さんだね」
ケイイチロウは呆れた様に言ったが、その顔には別の感情が表れている。
肉体の強さでは、インドラには勝てない。それは、ケイイチロウも理解している。勝機があるとすれば、彼の深くに潜り、精神を破壊することだろう。
だから、アンズは全ての力を使って、北上を再び夢の中に引き摺り込んだ。しかしそれは、一歩間違えれば、自分が消滅しかねない自殺行為でもある。
インドラに対するアンズの恨みは、相当深いものに見えていた。だがケイイチロウには、アンズが単なる恨みだけで行動しているようには思えない。
ケイイチロウの目には、アンズが迷っているようにも映っていた。彼女は絡み合った複雑な感情の中で本当の思いを見失い、その中で強烈な色を放つ殺意に目を奪われているのかもしれない。
「――お前は、嫌いだろうねえ。こんなことはさ」
妹の気配を感じて、ケイイチロウは目を細めて遠くを眺めた。彼の視線の先には、真白なキツネが一匹。それはピンと足を揃えて、無言で彼らを見ている。
そのキツネは、いつもそうしている訳ではなかった。それは突然現れたかと思うと、空気に溶けるようにサッと消えてしまう。夢と、現実。在ることと、無いということ。この結界の中では、それらは同じ意味を持っているように思えた。
「……お前も、おんなじになってしまったね」
アナザーと化した妹を前に、ケイイチロウは悲し気に笑った。これはお互いが望んでいた再会ではなかったし、なによりも、妹が自分を認識できているのかすら分からないことを彼は悲しく思っている。
南城サクラは、何も答えない。彼女は、もう自我を失っているのかもしれない。
南城サクラは、彼女が死ぬことよりも恐れていたはずの怪物と成り果てた。その事実が、ケイイチロウには辛い。
ふと、ケイイチロウはアンズの異変に気付いた。閉じられた彼女の両の目からは、ポロリポロリと涙が零れている。真白な雪の上にポトリと落ちたそれは余りにも小さく、跡は既に残っていない。
「やるなら、気が済むようにおやりよ」
声を掛けて、ケイイチロウはアンズの涙を拭ってやった。
きっとアンズは、嫌いという感情と同じくらいに、インドラやキツネを気に入っているのだ。彼らの強さや弱さに触れて、そこに「人間」を感じたのだろう。ケイイチロウがそう思うのは、彼もまた同じだからだ。
何処からともなく風が吹き、雪原を撫でていく。
ケイイチロウが視線を戻した時、キツネの姿は消えていた。




