5-7 花は桜木、人は武士 ⑱
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雪原の中。
膝を着く北上とその両隣に立つ男女の姿を、遠くから眺めているものがあった。それは一匹のキツネで、時折吹雪いた時などは、その白くて美しい毛並みが体を雪に同化させてしまう。
北上は、まだ夢の中にいた。彼は随分と長い間夢を見ているように思っていたが、実際には数分と経っていない。現実の世界においては、誰かが一度瞬きするような、そんな時間のことだ。
キツネは天を仰いで、それからまた、北上を見つめる。その視線は、彼になにか願っているようでもあった。
「――なんだ、こんなところで」
声を掛けられて、北上は我に返る。南城家の縁側に腰掛けて、彼は月を眺めていた。
月は、恐ろしく巨大だった。ばかに大きなそれは、人も街も押し潰してしまいそうなほど。
傍にやって来た南城は、北上に体をピタリと寄せた。彼女は子どもたちを寝かしつけた後、彼を探していたのだと言う。
北上は、視線を落とす。瞼の裏には、この家で目にした様々な光景が浮かんでいる。
しっかり者の娘に、元気な息子たち。
武道に励む子供の真剣な表情に、無垢な寝顔。
真っすぐ大きく書かれた習字作品に、淡い絵の具で描かれた空の絵。
菓子の箱で作られた車とロボット。
クレヨンで描かれた、じゃがいものようにも見える人の顔。
穴の開いた障子を隠すように貼られた、サクラの花を模した和紙。
子ども部屋の襖に残された小さな手形。
玄関のたたきに背の順で並ぶ、三足の靴。
「――俺と君が欲しかったものは、多分、似ていたんだろう」
北上は隣の南城ではなく、庭に目を向けた。月の光に照らされて、庭木には別の光景が重なって見える場所がある。どこまでも広がる平野。終わらない雪景色。そこには、幼い南城がキツネ面を被って立っている。
「どうしたんだよ。今日は、本当に変だぞ……?」
隣に居る大人の南城が、北上の腕を引いて不安そうな顔をみせた。彼女は帰宅してからの北上の様子がおかしいと言って、どこか具合が悪いのかと尋ねる。それから、仕事でなにかあったのか、とも。
北上の脳裏には、子供らと接している時の南城の顔が思い浮かんでいる。子どもと接している時の南城は、彼が知っている以上に表情が豊かで、どんな時でも明るく、いつも元気に笑っていた。
強くて、優しくて、いつも元気な母の姿。
しかし、それは理想でしかない。
立ち上がる北上に合わせて、南城も慌てて腰を上げる。
「待って。どうして……」
「ありがとう」
北上が目を合わせてそう言うと、南城は顔を強張らせた。彼女は、まるでなにか酷い言葉でも耳にしたようだ。
遠くで、子どもの笑い声。
自分を父と慕う子供らの声を背に、北上は庭に降りて行く。
北上の背を見送って、大人姿の南城は、彼がもう戻らないことを悟った。彼女が目を閉じると、その体は頭の先からサラサラと溶けて水になり、跡も残さず消えていく。
――再び、雪原。
北上が目を開くと同時に、彼の周囲には凄まじい音と光が走った。その電撃は傍で刃を構えていたアンズを焼き、避けたケイイチロウの着物の先を燃やす。
「――インドラ!」
怒り狂ったアンズが腕を振り上げると、彼女の水獣達がたちまち北上に襲い掛かる。彼女は北上――インドラの雷で全身を焼かれた経験がトラウマになっていて、その恐怖で足が震え、四つん這いになったまま動くことが出来ない。
水で出来た巨大なクジラが、パカッと口を大きく開いて、北上を頭からぺろりと飲み込んだ。
「モンストル! 直ぐに潰して!」
必死なアンズの声を耳にして、クジラは目をパチクリさせた。
イヤと、アンズの悲鳴。クジラの体に電撃が走ったかと思うと、その巨体は四方八方へと飛び散っていく。
北上が地面に下りると、舞い上がった雪で視界は白一色になる。
「よくまあ、帰ってこれたものだよ」
近付いてくる人影は、南城ケイイチロウだった。彼が息する度に、燃え残りの体は酸素を取り込んで赤く輝く。
「気分が良かったろう? 例え夢と分かっていても。お前さんを慕う者の存在は」
ケイイチロウの口元は妖艶に動いて、北上の心を刺す。
北上に、否定はできなかった。分かっていても、理解出来ていても、それでも夢は甘く美しい。
「幻を愛することは出来ない」
「さあて……どうかねえ」
クククッと、ケイイチロウは笑った。彼の指が空気を撫でると、生まれた炎が地面を走って北上を取り囲む。
ケイイチロウは何処からともなく薙刀を引き摺り出すと、切っ先を下げて北上に対し構えを取った。
じりじりと、近付いてくる殺意。
目を開けていることすら苦痛を覚える熱。
「インドラ! 死んでちょうだい!」
辺りを覆っていた靄のような雪が晴れると、今度は空一杯に大量の魚群が現れる。アンズの水の能力で作られたその魚たちは、文字通り雨のように北上に降り注ぎながら、その途中で体を鋭利な刃物へと変化させた。
「おや、お嬢さん。困ったねえ」
ケイイチロウの呆れ声。
北上を取り巻いていた炎の壁が、アンズの放った魚群に勢いよく叩き付けられ弱まった。アンズが見失っている間に、北上は脱出して二人から距離を取る。
大量の核を吸収した影響は、アナザー本体である南城サクラだけではなく、彼女の中に取り込まれたアンズとケイイチロウにも及んでいた。彼らは南城の意志によらず、自らの意思のみで攻撃を行っている。その自由を与えたのは、南城の作った結界だ。
アナザーと化した南城は、今、桜見川区の上空に球状の巨大な空間を発生させている。その周囲は常に猛烈な風で人を寄せ付けず、今は雨や雪を降らせる雲に覆われて内部の確認は困難だ。
「邪魔をしない約束でしょ?」
苛立ち気味に言い放つと、アンズは鋭い目つきでケイイチロウを睨みつけた。
ケイイチロウは少し肩を竦めただけで、反論もしなければ慰めもしない。アンズが幾ら騒いだとしても、彼にとっては子どもがヒステリーを起している程度の事なのだ。
アンズはそれ以上はなにも言わなかったが、彼女は自分が小馬鹿にされていると分かっている。指摘したところで「私がなにか言ったかい?」と惚けて、今以上に馬鹿にされるだけだろう。それが分かっているから、初めから見えないフリをしているのだ。
同じ体、同じ精神に触れていても彼らが南城そのものに成ることがないように、彼らもまた互いを理解し合うには遠い存在だった。彼らの共通点は、南城に狩られたということだけ。
ケイイチロウは幼い女が嫌いだったし、アンズは賢いと思い上がっている男が嫌いだ。彼は直ぐに騒ぐ女も嫌いだったし、彼女は心の中を隠しきれない男も嫌いだった。
ジジッという虫の羽音を思わせる音。
全身の毛が逆立つような感覚。
アンズとケイイチロウは咄嗟に回避の体勢に入ったが、北上のスピードは彼らを上回っていた。
幾つもの光の筋が落ちて、それは爆音と共に雪原を抉り取っていく。幾つも連続して落ちたその雷に誘導されるように、ケイイチロウは後退を余儀なくされた。そしてその先には、予想通りに北上が待ち構えている。
背後から伸びるガントレット。
寸でのところで躱して、空に回避するケイイチロウ。彼の炎の翼は、辺りに大量の灰を撒く。
北上は間を置かず雷を落とし、ケイイチロウは翼一枚を犠牲に体への直撃を避けた。
墜落したケイイチロウの周囲には雪と灰とが舞って、彼らの視界は白く濁る。
「ゆ……さない……」
消え入りそうな声。
北上が目をやると、穴だらけの雪原に、半身だけになったアンズが転がっている。彼女は落雷の衝撃で気を失い、全身が溶けて水に戻っていたのだ。アンズは自分を狩った北上への恨みからなんとか体を再生させているが、それはまだ不完全な状態だった。
「じっとしていて欲しい。可能なら、闘いたくない」
北上の吐いた言葉に、アンズは耳を疑った。そして彼の言葉に驚いたのは、彼女だけではなかった。
「よくもまあ、そんなことを……」
沸々と湧き上がる怒り。ケイイチロウの指は、雪の上に五本の筋を残している。
怒りの余り、アンズは唇の端を噛み締めた。
強くなるためには、核を取り込まねばならない。しかし、核を取り込む度に、体は人ならざるものへと近付いていく――。
始まりこそ違えど、彼らは同じ葛藤を抱えながら闘い、散った者たちだ。彼らにとって、北上の言葉は侮辱以外のなにものでもなかった。
這いつくばった姿勢で必死に顔を持ち上げて、アンズは北上を睨む。体中に呼び起こされるのは、身を裂く様な痛み。それはインドラの雷であり、体が核に順応するための痛みだ。
北上の目は、もうアンズを見ていない。彼は目を細めて、靄が掛かったその向こうに南城サクラを探している。
「……あんたは、まだ夢の中よ。なにも理解しちゃいない」
低く、恨みの籠もった声。アンズの体は、少しずつ溶けて広がっていく。
「あの女をアナザーに変えたのは、あんたよ――」
アンズの溶けた体から数本の水柱が静かに立ち上がって、それらは人に姿を変えた。それは北上が夢の中で見た子どもたちや、滝や、南城サクラの姿だ。
作られた南城は、北上と目を合わせるとニッコリ笑った。
「楽しいか? 人を見下すのは――」
思いもよらない言葉に、北上は動きを止める。偽物と分かっていても、南城と同じ顔、同じ声で投げられた言葉は北上の胸を刺した。
「面白いだろ? 這いずり回る相手を見るのは」
「……違う」
「……本当に違うの? とうさま」
南城の隣にはハヅキが立って、彼女は悲し気な顔で母に体を寄せている。
「……とうさまの思う『可愛い』や『愛おしい』は、『相手が自分より弱いから』では?」
そんなことはないと、北上はハッキリ口にすることが出来なかった。彼はハヅキの言うようなことを考えたことも意識したことも無かったので、純粋に驚きが勝ったのだ。
「とうさま。ぼくらが何をしても怒らないのは、ぼくらが所詮は子どもだからですか」
サツキが現れて、彼もまた南城に寄り添う。悔しさを滲ませたような彼の目は、赤く染まっている。
「違う。……どうして、そんなことを思うんだ」
自分は、そんなことを考えたこともないのに――。ハッとして、北上は言葉を飲み込む。彼は、自分自身の行動の異常さに気付いた。目の前にいるのは、幻だ。幻の言葉に心を乱されるのは、おかしなことではないか。彼らは、本当の子どもですらないというのに。
「私が傷ついて、苦しんでいる時……お前は、いつも通りだったな。お前は、人のまま。ずっと、綺麗な人間のままだった」
「君は……」
「いいな。北上。いいなあ。私は……化物になってしまったのに……」
「違う」
「死ぬのが怖くて、化物になるのが怖くて……。辛かったんだよ。北上」
「……南城」
北上の二度目の否定は、彼自身を擁護するためのものではなかった。目の前の女は、南城サクラではないと分かっている。それでも北上には、南城の姿をした女が自分を化物呼ばわりすることが辛いのだ。
いつの間にか、北上の両腕からガントレットは消えていた。彼は夢の中で出会った子どもたちや妻となった南城と向き合う内に、戦意を削がれていった。
「自分より弱いから……そんな理由で可愛がったりしない。怒らないのは、諦めたり、馬鹿にしたりじゃ……そうじゃない」
例え言葉にするのが苦手であっても、無言は相手との距離を生むだけ。時間が全てを解決することもあるが、それは出来ることを全てやった後の話だ。
必死になって言葉を紡ぐうち、北上は自分が幻を相手にしている事すら忘れていた。南城の口にした「辛い」や「苦しい」と言った言葉と、それに気付くことのできなかった自分への失望で、彼の心は大きく乱れている。
「見下したり……。そう思わせてしまったなら、すまない。君を下に見たり、そんなことは考えたこともなかった。君は……強いから」
南城をはじめ、皆はピタリと動きを止めた。北上の言葉を耳にして、彼らの顔には憎しみが広がっていく。
北上は、自分が失言をしたのだと察した。口下手な彼は、過去にも別の誰かに似たような目を向けられたことがある。
「ああ、まただ」と、北上は心の中で呟く。余計なことを言ったのだ。要らぬ言葉で、また人を傷付けてしまったのだ。
「思ってもいないことを……」
南城の声は、北上の腹にキリキリと響く。
「自分より劣っている相手を褒めるのは、楽だよな。褒めようが、認めようが、持ち上げようが、お前の足元は揺らがないもの。心も擦り減らないし、自分の格まで上がるんだ」
「なんの話か分からない。考えたこともない。……それに、君は強い。俺なんかより賢い」
「私が、本当に一度でも、お前に勝てたことがあるか?」
南城の問いに、北上は口を閉じた。彼は、彼女が何を言っているのか、理解が追い付いていない。彼女が、一体何について話しているのか、何を伝えたいのか分からないのだ。
上下や、勝敗や優劣。北上は南城相手にそんなことを考えていないし、考えたこともない。きっと、これからもそうだろう。
二人がインドラやキツネという名で闘っていた時は、彼らは互いに競う必要があった。核をめぐる闘いの中で、北上はキツネの強さを認めていたのだ。だから、手を抜いたことなど無いし、ましてや、ワザと負けるような器用な真似が彼には出来る筈もなかった。
「北上」
「止めてくれ」
無意識に南城の言葉を遮ってしまい、北上は動揺して彼女から顔を背けた。
「止めてくれ。君は……南城じゃない」
北上は、その言葉を自分に言い聞かせている。南城の姿をしていても、目の前に立つ女は南城サクラその人ではないのだと。そして自分には、子どもなどいない。「とうさま」と自分を慕ってくれる幼い子らは、全てが幻なのだ。
――「あの女をアナザーに変えたのは、あんたよ――」
不意に、北上は思い出す。先程、少女が消えていく間際に残した言葉。そして彼は、考える。それが、一体何を意味するのか。
異変を察して、北上は顔を上げた。視線の先にいる南城は、もう彼を見ていない。彼らは皆、俯いてメソメソと泣いている。
「とっとー」
北上は、ドキリとした。いつの間にか足元にはムツキが居て、彼は北上のスラックスを掴んで立っている。
無意識に、殆ど反射で、北上はしゃがんでムツキと視線を合わせた。
「とと。死んでー?」
ドスッと、衝撃が頭を抜けていく。
目を衝かれたのだ。そう理解するまでに、北上は相当の時間を要した。彼の閉じた左目からは、ダラダラと生暖かい血液が流れ出ている。
ムツキは、ケラケラ笑った。その顔は次第に歪み、崩れて、やがてアンズの顔へと変化していく。彼の手には不似合いな程に大きな刃があって、切っ先から滴る液体は足元に深紅の花を咲かせている。
そうして、北上の足元がグラグラ揺れたかと思うと、大穴が開いた。抗うことなく、彼はそれに呑まれていく。
落ちていく北上を見ながら、南城や他の子どもたちもムツキと同じように笑っていた。彼らの顔は笑う度に歪んで、それから皆アンズの顔になる。
何処からが現実で、何処までが夢なのか。北上には、考えることすらできない。ただ痛みだけは、確かなものとして彼に寄り添っていた。




