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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
TO BE (後編)

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373/408

5-7 花は桜木、人は武士 ⑩

 *



 すっかり辺りは暗くなったというのに、北上は縁側の窓を開け放したまま、板張りの床に体を投げ出して天井を眺めている。時計の針は、十八時を過ぎたところ。


 ミカンは、北上から離れてコタツの中で眠っている。南城が帰った後、ミカンは不機嫌な様子でコタツ布団にバリバリと爪を立て、そのまま中に潜って眠ってしまったのだ。北上はミカンのその様子を見て、子猫が彼に腹を立てているのだろうと考えた。


(急いてしまった)


 対局中の狼狽えるような目の動き。駒を手渡した時の強張った横顔。振り向きもせずに消えて行った後姿――。南城のそうした姿を思い出しては、北上は自分を責めている。


(最低なことをした)


 北上には、自分が南城の性格を利用した自覚があった。賭けという形にすれば、南城は自分から言い出した手前、約束を守るだろう。さらに彼は、彼女が先手を好むことも得意とする手も分かった上で、一手目を打たせてから無理な条件を出した。


 人間関係は盤上の遊びとは違うのだから、退路を断って囲い込むような真似は不適切だ。仮に勝負に勝てたとしても、築いてきた関係にヒビが入るようであれば、それは「負け」といえるのではないだろうか。相手が一回りも年下であれば、尚のことだ。


 ミカンが途中で乱入しなければ、北上は勝っていた。北上はそれを分かっているし、仮にあの場で彼が勝利を主張していれば、南城はそれを受け入れただろう。それをしなかったのは、彼の中に自分を恥じる心が確かにあったからだった。


 動揺を隠すようにしていても、南城の打ち筋は明らかに鈍っていたし、彼女らしくないミスを幾度も重ねていた。北上は彼女が焦っていることも、困惑していることも分かっていて、全て理解したうえでそれを好機とばかりに攻め入ったのだ。


(卑怯者)


 心の中で呟いた言葉が、胸に刺さる。


 大切にしたいはずの存在を、余裕の無さから傷付けてしまった。北上は子供じみた自分の行いを恥じるばかりで、今は他に何もできないでいる。



 同時刻。桜見川区の路上。


 ガコンという音がして、自販機が缶を吐き出す。南城が腰を曲げて拾い上げたそれは、ミルクと砂糖がタップリ入ったココアだった。


「……ああ」


 緑茶を押した筈なのにと、南城は目の前でジージー音を立てている自販機を睨みつける。緑茶は左端。その隣は、ほうじ茶だ。ココアは、ほうじ茶の右隣にある。業者が補充の際に間違えたとしか思えないが、本当に自分が正しく押していたのかどうか、今は自信がない。


 南城は、仕方なくココアに口をつけた。


 とあるマンションの前。東條家の庭が見えるその場所で、南城はガードレールに腰を預けて家主の帰らない家を見つめている。


 ココアは南城が想像していたよりも美味しかったし、夜風の冷たさもあって、温かい飲み物は体に染みた。それでもムシャクシャするのは、何度忘れようとしても、つい先ほどの北上との勝負を思い出すからだ。


(私は、完全に負けていた)


 南城には、自分が負けたという自覚があった。完敗だった。その上で北上に同情をかけられたことが腹立たしく、それ以上に、負けた自分が許せない。


 どれだけ睨みつけても東條家に明かりが灯ることはないと分かっていて、それでも南城は動けずにいた。東條アオイに会いたい、せめて一目見たいという思いが、彼女の足を留め続けている。


(友人だと思っていたのに)


 南城は苛立ちを北上に向けたが、彼を責めるべきでない事は分かっていた。相手も感情を持つ一人の人間で、一人の男なのだ。友人の立場を悪用したと考えることは間違っているし、そもそも、彼は初めから自分を友人として見ていなかった可能性もある。


(泊まって行けなどと)


 自分がそういう目で見られていたのだと理解するなり、南城は吐き気を覚えた。全身を毛虫が這いまわるような、言い表し難い気色悪さだ。しかし、頭では、これも北上を責める事は出来ないのだと理解している。


 南城が北上を責めることは、出来ない。彼女には、自分も同じだという自覚があるからだ。東條アオイに対する南城の行動は、北上の南城に対するそれと何が違うのだろう。自分は「後輩」や「同性」といった立場を利用したことがないと、胸を張って言えるだろうか。


 考えるのも嫌になって、南城は手にしていた缶を飲み干した。底に残った甘いドロドロのカタマリが喉に下りてきて、それは彼女を余計に苛立たせる。


 男は嘘を吐くし、女は自分を追い詰める。だから南城は男も女も嫌いだったし、どちらにもなり切れない自分など愛せる筈もなかった。こんな自分が、他人に愛されるとは思えない。


 不意に、腹が鳴る。南城は別の生き物のような鳴き声を出す腹部を押さえて、心底呆れた。死期が迫っていても、自分という存在に絶望していても、たとえ食欲がなくとも、それでも腹は減るのだ。


 自宅には、帰りたくなかった。家は、地獄だ。


 北上の家には、帰れなくなった。今は、どんな顔をすればよいか分からない。


 適当になにか買って腹に入れようとも思ったが、店でいざ食べ物を前にすると、南城には自分がなにを食べたいのかすら分からなくなっていた。空きの目立つ陳列棚の上を、目が滑っていく。


 結局、南城は好物のフルーツが乗ったかき氷を一つ買って、袋を下げて自宅に向かった。


 無意識に遠回りして家に向かって歩く途中、南城は北上が氷柱について話していたことを思い出す。以前、彼は氷柱を舐めてみたかったと話していた。


「……氷でも食ってろ」


 立ち止まって、南城は悪態をつく。左手に下げた袋には、いつか北上から貰った土産が重なって見えている。真冬にわざわざかき氷を土産にする男など、北上くらいしか思いつかない。


 甘いものは食べない癖に団子や和菓子を買ってきたり、転寝すればいつも毛布が掛けられていたり、体調の悪い自分を気遣ったりと、南城の頭には北上の様々な行動が思い起こされている。それらは、アオイに対する自分のそれと何が違うのだろう。


「ああ……くそっ!」


 モヤモヤした気持ちを掻き消すように、南城は自宅とは反対に向かって歩き出す。


 そうして北上家に着くと、一度は玄関扉に手を掛けたものの、南城は庭に回って縁側を目指した。彼女には思い切り無作法にやってやりたいという気持ちがあったが、それと同じくらいに正面から乗り込む勇気がなかったのだ。


 南城が縁側へ行くと、寝転がっていた北上が慌てて体を起した。


「南城。どうして庭……」


「黙れ!」


 ズンと近付いて、南城は北上の目元に右手を押し付ける。


 目を瞑れと言われたので、北上は目元を手で隠された上から更に目を閉じた。


 南城の声に気付いたミカンがコタツから顔を出して、北上の方へ駆け寄る。


「お前、私が好……好きなのか」


 口に出すと途端に恥ずかしく思えて、南城は少し噛んだ。


 北上はまだ何が起きているのか理解出来ていなかったが、尋ねられたことには素直に「好きだ」と答える。


 大の大人がこんなにも馬鹿正直に答えるとは思っていなかったので、南城は動揺して顔を真っ赤にした。だが彼女は、伝えなくてはならないことがあることを忘れてはいない。


「私は、先輩が好きだ。東條先輩が好きなんだ。お前じゃない」


「うん」


「お前が私をどう思っても……。……そんなことは勝手だが。でも、気持ちが変わったりなんかしない。絶対」


「うん」


「先輩はいつも完璧で、欠点なんかなくって、美しくて、凛々しくて、強くて、カッコよくって……。この世で一番、素敵な方なんだ!」


 言いながら、南城は自分の言葉に偽りがあることに気付いている。欠点のない人間など、存在しない。東條アオイがどれだけ完璧な人間に思えても、それは南城サクラという人間の前で欠点を晒したことがないというだけなのだ。


 南城はアオイが自分の前で本当の弱さを見せないことに気付いていたし、同時に、彼女が自分を曝け出すことの出来る相手を見つけたことにも気付いていた。


 結局、南城は随分と前から、自分が失恋していることに心の底では気付いていたのだ。 


「分かっているのか? 私は、先輩が好きなんだ。男なんかな、好きじゃないんだ」


「うん」


 北上があまりに淡々と頷くので、南城は自分の言葉が正しく伝わっていないのではと思った。突然やってきて騒いでいるのだから、それは当然の事にも思えたが。


 北上はそんな南城の心情が分かったように思って、自分が口下手なことも忘れて、彼女に伝えなくてはと口を開いた。


「南城。いい。いいんだ」


「良くない」


「いいんだ。……この歳になって、ミカンと暮らして、分かった。多分、相手がいることが嬉しい」


 南城が黙ると、北上はまた少しずつ言葉を紡いだ。「上手く説明できるか分からないが」と前置きして、北上はゆっくり自分の思いを口にする。


「好かれたい気持ちは、ある。そうなったら嬉しい。想像もできないが。……うまく言えない。愛されたいのと同じくらいに、大切にしたい気持ちがある。……どう言ったらいいんだ。分からない。……愛したいということなのかもしれない。そういう思いを注げる相手がいることが嬉しい。大切に出来ることが嬉しい。嬉しいと感じる。俺が分かるのは、そういうことなんだ」


 目元を隠されたまま、北上は微笑む。


「俺は、君を好きで、嬉しい」


 北上の真っすぐな言葉は、南城の心を打った。口下手で言葉の足りない北上が、ここまで自分の気持ちを相手に伝えようとするのは初めてのことだ。


 南城には、言葉が無かった。北上の言葉は、彼女にも理解できる。自分にどれだけ言い訳しても、それでもアオイのことを諦めることが出来ないのは、相手を思うことそれ自体が幸せだからだ。


 ミィと、ミカンの声。


 南城が目を向けると、北上の傍にちょこんと座って、ミカンは彼女の方を見上げている。真ん丸な目をスッと細めて、ゆっくりと瞬きするような仕草。


 南城の手はとっくに北上の目元から離れていたが、彼はまだ目を閉じていた。そうするように伝えたからだと、彼女には分かっている。自分よりも一回りは年上のこの男は、自分よりも素直で、それでいて途轍もなく不器用だ。


 沓脱石で靴を脱いで家に上がると、南城は北上を通り過ぎて居間のコタツの隣に正座した。


 北上はまだ目を閉じたまま、南城の気配がする方へ体を向ける。


 ミカンはいつの間にか南城の傍に居て、膝に飛び乗っていた。彼女の手にしたビニール袋がカサカサと音を立てるのが、気になるようだ。


「今日……泊まる」


 驚くあまり、北上は目を開いた。背を向けて正座している南城は、薄暗い部屋の中でも分かるくらいに耳を赤く染めている。


 南城は自分が変な顔をしているように思ったので、膝の上に居たミカンを抱きかかえ、彼女に顔を埋めた。


「ありがとう」


 部屋の中には、北上の声が静かに響いていた。

 

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