5-7 花は桜木、人は武士 ⑦
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同日。二十時過ぎ。
客間から台所まで届く父親の上機嫌な歌を耳にして、南城サクラは笑った。同僚の前で酔っぱらう父親の姿を見るのは、これが二度目。普段の彼女なら「みっともない」と口を尖らせるところだが、今日は何故か微笑ましいとすら思う。
台所では、滝を始めとする使用人たちが仲良く顔を合わせて、せっせと料理をこしらえていた。以前にも見た光景だが、これがあの時と違うのは、皆がリラックスして心から客人を持て成そうと楽しんでいることだ。
南城は壁に凭れて、台所をぐるりと見回す。
滝は先程からずっと天ぷらを揚げていて、時折鍋から目を離しては、傍の川村に指示を出している。あれやこれやと、思いつくまま北上に食べさせようとしているのかもしれない。
川村は、普段はおっとりしているが、今は滝の指示通りに冷蔵庫とまな板と洗い場を忙しなく往復し続けている。誰よりも動いているはずなのに、疲れた様子もなく笑顔だ。時折、楽し気に声を上げて笑うこともあった。
車係の山中は、庭師の倅から酒の都合をつけて貰うと言って、張り切って家を出て行く。父親の秘書は自宅には帰らず、台所の片隅で滝の目を盗んで酒をチミチミと煽っている。
南城家は昔から人の出入りが多い家で、誰もが忙しくしているこんな光景は決して珍しいものではなかった。だが、それを嬉しく思うのは、南城には初めてのように思えるのだ。
「あら。お嬢様ったら、こちらにいらしたんですね」
空いた酒瓶を手に、家政婦の谷口が台所に現れる。彼女は南城の前で酒瓶を掲げて見せると、「本当に、よく呑みますねえ」と大口を開けて笑った。
「そうですよ。お嬢様もあちらでお召し上がりください」
「ええ。ええ。お酌しませんと!」
谷口の手にした瓶を見て、川村と滝も歯を見せて笑う。
ただ、酒瓶が空になっただけ。それなのに、まるでそこには酒の代わりになにかが満たされているように、皆は声を上げて目を細める。
下戸の南城にはこれまで理解出来ないことだったが、酒の席の楽しさというものは、酒を呑むことだけではないのだろう。楽しそうにしている誰かを見ることが、楽しさの一つなのかもしれない。
南城は川村の傍へ行ってまな板の蒲鉾を一切れ摘まむと、滝の目を盗んで口に運び、行儀悪く口元をモゴモゴさせながら台所を後にする。悪戯を目撃した川村と父親の秘書は、目を合わせると声を出さずに笑った。
客間へ向かおうとして、南城は胸の苦しさを覚えて立ち止まった。痛みと、違和感。いつもの発作が起きるように思い、彼女は慌てて自分の部屋へと向かう。皆の楽しい時を、自分が台無しにしてしまう訳にはいかなかった。
客間の中。
辺りから人の気配が消えたのを察すると、南城の父――セイイチロウは笑うのをピタリと止め、無言で北上のグラスに酒を注いだ。
北上は頭を下げてから、注がれた酒をグビグビと口に流し込んでいく。
セイイチロウは、酔った振りが上手かった。直ぐに顔が赤くなる体質が、上手いこと働いているのかもしれない。声が大きいのは、何時ものことだ。
「あのな、北上君。あの……いや、呑もう」
「はい」
北上は頷いて、今度はセイイチロウのグラスに酒を注ぐ。
「北上君。あのな、あの……サクラの……」
「はい」
「……いや、呑もう」
「はい」
先程から、二人は延々と同じ会話を繰り返している。セイイチロウは客間に人の気配が近付けば、楽し気に歌ったり世の中を皮肉ったような冗談を口にしてみせるが、それ以外は別人のように口が重くなるのだ。
北上が見ると、セイイチロウは口をギュッと真一文字に結んでグラスを睨んでいた。
「そっくりですね」
北上は、深く考えずにそう言った。考え事をしている時の南城と、彼女の父親はよく似ている。
「サクラにか」
「はい」
「そうか。……そうか」
北上は自分がまた余計なことを口走ったように思ったが、しかし、セイイチロウの口元は先程よりも緩んでいる。横顔は穏やかで、グラスに向ける視線も幾分か柔らかい。
「君は、猫を飼っているらしいな」
頷いて、北上はミカンという名前だと伝えた。
セイイチロウは、小さく笑う。
「その歳で、独り身でな、猫なんか飼うもんじゃないぞ。男の独り身なんざな、どうなるか分からん。君は忙しい仕事だしな」
はいと、北上は頷いた。セイイチロウの言うようなことは、北上も考えたことがある。否定できるものではない。
セイイチロウは、北上が思っていた以上に素直な男だと理解して、また笑う。娘との関係を考えて上辺だけの素直を繕う男なら、そんなつまらないものに興味はなかった。だが北上のそれは、生来の性格だろう。
「なにかあったら、うちに連れて来い。猫一匹、預かる位の場所はある。家の者には、言っておく」
そう言って、セイイチロウはグラスを飲み干した。
北上は、頭を深々下げて礼を伝える。セイイチロウの親切心も嬉しいが、何よりも、彼が南城と同じ言葉を口にしたことが北上には嬉しく思えた。
南城が家に苦手意識を持っていることは、北上も気付いている。しかし、南城と南城父の間に似ている部分を見つけたことは、彼らの間にある確かな関係を見たようで、北上にはそれが嬉しく思えるのだった。
「……北上先生とは、一度だけ呑んだことがある。町内の集まりでな」
セイイチロウの言う「北上先生」とは、北上の爺さんのことだ。彼も数学教師だったので、町内の人々からは先生と呼ばれることがある。
北上は、南城の父親と爺さんが顔見知りであることは知らなかった。しかし直ぐに、同じ町内なのだから驚くほどの事でも無いと考え直す。むしろ、自分が無頓着過ぎたのかもしれないとも。
「酒に強くてなあ。頑固で、喧嘩っ早くて……。あの糞ジジイに、子どもが居たとは」
セイイチロウは、笑みを浮かべる。互いに社会的な立場を忘れて意地を張って飲み比べ、最後は喧嘩になって皆を呆れさせたことを思い出したのだ。
「爺さんとは」
「家族だろ」
セイイチロウは酒瓶を掴んでふらりと立ち上がると、後ろの障子を荒々しく開いて縁側に出た。そうして窓を開け放つと、彼は床にドカリと腰を下ろす。「来い」と、セイイチロウの背中はそう言っている。
北上は呼ばれるまま傍へ行って、セイイチロウの隣に腰を下ろした。二人の前には、手入れの行き届いた庭が広がっている。生憎の曇り空だが、雲の隙間からは月の光が零れて見えた。
「血の繋がりなんか、大した事あるか」
北上はセイイチロウの言葉で、彼が既に自分の身辺について調査していることを察した。
「三日だ。三日、一緒に飯を食ったら家族だ。他になにかあるか? ないだろう。人間なんてな、そういうものなんだ」
セイイチロウは、まだ中身の入っている北上のグラスにドバドバと酒を注いだ。
溢れそうになったグラスの水面に、無数の光が浮かんで見える。氷の表面で月光が跳ねて遊んでいるようで、北上はそれを面白いと思った。
「嫁にやろうと考えていた。良い家にな。あの子にとって幸せだろう、と。だが、もう分からん。……当たり前だ。人生なんか、分かってたまるか」
セイイチロウは、自分と会話している。迷いを振り切るように酒瓶に口を付けて熱い液体を流し込むと、彼は荒々しく口元を手の甲で拭った。
「女の嘘は許すのが男だ。だから、俺は何も言わんと決めている」
ドンっと瓶を床に叩きつけるように置くと、セイイチロウは北上を真っすぐに見た。彼は、娘のサクラと血の繋がりが無い事に気付いている。彼は何もかも知っていて、その上でサクラを実の息子と同じように愛しているのだ。
「覚悟があるのなら、お前が婿に来い。嫁にはやらん!」
出来るものならと、セイイチロウは付け足す。刺すような目は、相手の覚悟を窺っている。
北上は、手の中のグラスを一度に飲み干した。
二人には、それ以上は不要だった。
セイイチロウは立ち上がると、厠へ行くと告げて襖の向こうへ消えていく。その間際、「次は本気で斬るぞ」と彼は言葉を残していった。
以前、模造刀で斬りかかられたことを思い出して、北上は笑う。冗談めいた口調だったが、セイイチロウは本気だ。
「失礼します。……って、一人か? 父はどうした?」
セイイチロウの消えていった襖が再び開いて、今度は南城が現れた。
「厠だそうだ」
「そうか? ふーん」
すれ違わなかったようだがと、南城は首を傾げた。
「お前、窓なんか開けて。そんな所で寒くないのか? これだから酔っ払いは……。風邪をひけばいいんだ」
口悪く言いながら、南城は北上の隣に腰を下ろす。
北上は南城の顔色が悪いように思ったが、照明の為だろうかと思い直し、彼女に尋ねることはしなかった。
「悪いな。父に付き合わせて。……病気やらアナザーやら、区議会で緊急の集まりが続いているみたいでな。多分、お疲れなんだろう」
南城は庭を眺めて、溜息を漏らした。社会の騒乱は、こんな小さな一家庭にも影響を与えている。何処に居ても、逃げ場がない。
「全く、気が滅入ってしまうな~。あーあ。たまには、私も呑むか」
「南城。それは良くない」
「冗談だよ。……お前、本気で嫌がってなかったか?」
北上は聞こえないふりをして、雲間からのぞく朧な月を見上げた。南城も彼に続いて、同じ空を見上げる。
綺麗だなと、どちらとなく呟く。
二人はその後も、戻らないセイイチロウを待って月を眺めていた。
南城が、ベッドでグウグウいびきを掻いて寝ている父親を見つけるのは、それからしばらく経ってからのことだった。
この日の夜遅く、二人のもとには大きなニュースが飛び込んだ。
一つは、学校の電気系統に異常が確認されたため、当分の間は校舎の利用がかなり制限されるということ。
そしてもう一つは、炎のアナザーが、再び高咲近郊に姿を現したということだった。




