5-6 Birthday ⑭
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高咲。郊外。
「――カ! リリカ!」
呼び声に気付いて、リリカは目を見開いた。彼女の顔は翼で覆われていて、外からその表情を確認することは出来ない。だが、彼女の視界それ自体は、以前と変わらずに開かれている。
今、紅く変化したリリカの両の瞳は、街の惨状を映し出していた。
ヒカルと、リリカは大声で名前を呼んだ。しかしそれは、実際には殆ど音として認識もされないような、蚊の鳴くような声だった。彼女の声帯は人であった頃とは大きく変化していて、以前のようには簡単に声を出せなくなっていたのだ。
それでも、ヒカルはリリカのその声に反応し、駆け寄って彼女を抱き締めることで自分の存在を知らせた。
ヒカルはリリカを抱き締めながら彼女の名前を繰り返し呼んだが、その声に先程のような力強さはない。
(ヒカル……)
リリカは、ヒカルがするように彼の体を抱き返す。そうして直ぐに、彼が小さく、短く唸るような声を上げたことを、そして一度だけ大きく体を痙攣させたことに気付く。
ヒカルはリリカに接している部分から高熱で焼かれ、再生し、そしてまた焼かれて、終わりのない痛みの中にいた。彼の体は中林から与えられた血によって再生し続けていたが、人間の体が発する信号である痛みは、今も変わらずに存在している。
(嫌っ! イヤ!)
ヒカルから体を離そうとして、リリカは身をくねらせ、両腕で強く彼の体を押しのける。しかし幾らそうして暴れても、ヒカルの腕はリリカを離そうとしない。
つい先ほど、ヒカルはインドラの雷から逃れた際に、火傷の痛みに耐え切れず途中でリリカの手を離してしまっていた。彼はそれを後悔していて、今度は離すまいと、全身に無数の針を撃ち込まれ続けているような鋭い痛みに堪えているのだ。
(イヤなの……! ヒカル……。私のせいで……)
「……大……丈……。……リ……」
途切れ途切れ、息も絶え絶えに、ヒカルはリリカに「大丈夫だ」と何度も言い聞かせている。彼の喉は口を開く度に焼かれて、数秒とまともに言葉を紡ぐことが出来ない。
ヒカルは今、リリカの発する炎を抑え込みながら、彼女をインドラ達から遠ざけることを考えている。これ以上の被害を出さないようにするためには、もっと開けた所か、或いは山中などの人気のない所へ移動するしかない。
ヒカルはこの状況にあってもリリカを守ることを考えていて、それは彼女にも伝わっていた。そしてヒカルを傷付けまいとして離れようとしているリリカの気持ちも、同じようにヒカルには伝わっていた。
守りたい気持ちと、傷付けたくない気持ち。強く思う程に、願う程に、それは互いを苦しめ続ける刃に変わる。
リリカの流す涙は、流れ出るそばから蒸発して消えていった。力をコントロールしようと幾ら念じてみても、それは一向に叶わない。リリカの体を包む高熱は彼女の意思によらず在り続けて、それは触れるものを片端から灰に変えていくのだ。
二人にとって、互いの存在が救いであることに変わりはなかった。そうでなければ、ヒカルはリリカから手を離し、リリカもヒカルを思って涙を流すことはないだろう。
ヒカルの頭が、ズルリとリリカの左肩に凭れた。繰り返される痛みの中で、彼はもう立ち続けることも困難になっている。意識は幾度も飛びかけて、その度に彼は奥歯が欠けるほど食いしばり堪え続けた。
不意に、リリカはヒカルの口が弱々しく動いていることに気付く。左の耳元で、彼はなにか囁いている。それは先程まで幾度も口にしていた「大丈夫」とは異なるように思えて、リリカはヒカルの言葉に意識を集中させた。
僕が、守るよ――。
リリカの視界の中で、炎がグニャリグニャリと踊る。音は、もう聞こえなかった。あちこちから聞こえていたパチリパチリと爆ぜるような音も、轟々と響く風の叫びも、全て消え去った。今、世界は、静寂の中にある。
震える唇を噛み締めて、リリカは二度、三度と瞬きした。彼女の目から零れた雫は、ヒカルの肩に落ちるより早く空気に溶けていく。
リリカは、気付いていた。ヒカルは一度も、リリカを「治す」や「元に戻す」とは言っていない。人には戻れないことも、こうなるかもしれない未来も、ヒカルはずっと分かっていたのだ。
「……ル。ヒカル」
絞るようにして、リリカは必死に言葉を紡いだ。それは、とても小さな声だった。
呼びかけに反応して、ヒカルの腕の力が一瞬だけ弱まる。リリカはその隙に、彼の胸を強く押して、腕から逃れた。
「……大好き!」
両手でヒカルを突き飛ばして、リリカはニコリと笑った。
絶望で一杯になったヒカルの顔。
二人の間には空まで届くような火柱が上がり、それは壁となって彼らを分断する。
再生した喉で、ヒカルはリリカの名前を何度も叫んだ。自分の無力さを呪って、彼は幾度も吠えるように声を上げ続けた。
炎の中、リリカは遠くの空に散る火花を見ている。元居た川の方角。インドラとキツネが、闘っているのだ。
ヒカルの声を背に、リリカは目を閉じる。胸の前でしっかりと両手を合わせた彼女は、まるで祈るような姿をしていた。
(ヒカルはいつも、私を守ってくれた)
リリカが思い出すのは、青い空と、自分を心配そうに見つめる少年の顔。ボサボサに乱れた彼の髪には、緑色の葉が何枚もくっ付いている。
幼少期、二人はマンションの階段から落ちたことがあった。奇跡的に助かり、怪我一つない二人を見て、周りの大人たちは運が良かったのだと口にした。だが、リリカだけは、それが決して偶然ではないと気付いていたのだ。
自分を庇ってくれた、ボサボサ髪の少年の笑顔――。リリカはその笑顔に、恋をした。
(ヒカル。……ありがとう……)
リリカの体を、炎が包む。彼女は今、全ての力を自分の内側へと向けていた。その力は火柱を産み、やがて炎は巨大な火球へと姿を変える。
炎の壁の向こうで、繰り返されるヒカルの声。リリカはそれを、穏やかな気持ちで耳にしていた。




