5-6 Birthday ⑧
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車の中。スモークガラス越しに景色を眺めて、向島は「退屈だ」と呟いた。
後部座席から聞こえてきたその声に、ハンドルに乗せていた佐渡の手には力が籠もる。「好き勝手に動いておきながら」という恨み節が口を衝いて出そうになるも、佐渡はそれを押し堪えた。言ったところで、それは向島には届かない。
二人は天下井との会話の後、追跡する者達から身を隠し、車を乗り継ぎながら移動を繰り返している。向かっているのは、東條アオイが隔離されていると思われる客船だ。
幸い彼らは影響を受けていなかったが、都内の一部の道路では大渋滞が起きている。長野で発生した柱の形状をしたアナザーの移動に合わせて、市民が一斉に避難を始めたからだ。
当初、避難は政府主導で段階的に行われ、そこに目立った混乱はなかった。光の柱の齎す恐怖を目の当たりにしたからか、市民は皆が協力的で、団結して行動が出来ていたのだ。
しかし柱の遠くにある人々は、避難を開始するまでに充分な時間も情報もあったことが返って仇となった。不安や恐怖に駆られて身勝手な行動をする者が出始めた他、先日の第二東京タワーの事件と絡めて陰謀論を唱え始める者なども現れた。
世間は、混乱の渦に巻き込まれている。それはまるで、誰かの意思によって導かれているようですらあった。
「向こうは、どうなっている?」
向島の言うそれは、アオイの部下である城ヶ島、能登、国後の三人を指していた。彼らは天下井の死後、既に佐渡の指示で安全な場所に移動を開始している。城ヶ島は入院中ということもあって移動が困難だったが、彼らはそれを逆手にとって病院を脱出していた。
「無事です。どうも、救急車をお借りしたそうで。馬鹿野郎が、また目立つことを……」
佐渡は皮肉を込めて笑うと、胸ポケットからタバコを取り出した。
「吸うな」
「吸いませんよ」
佐渡は、火のないタバコを口の端に咥えた。彼はそうして口を閉じていないと、今にも向島に向かって暴言を吐きそうなことを自覚している。
能登と国後は城ヶ島を乗せて、病人を移送しているフリをしながら、救急車で病院を抜け出していた。それは馬鹿げたアイディアだったが、結果として誰に邪魔されることもなく初めの目的地へ到着している。彼らはそこから更に車を変えて移動していて、やがて二人と落ち合うことになっていた。
今、向島が彼らの状況を把握できないのは、佐渡にスマートフォンなどを全て取り上げられているからだ。佐渡は、向島が国後を裏で動かし、彼を巻き込んだことに大層腹を立てていて、一時的に向島の動きを制限することに決めた。
向島は、遠くに列を成す車を眺めている。彼も佐渡も別の物を眺めながら、二人は同じ光景を思い出していた。
それは、今から数時間前のこと。
先行していた佐渡が、向島を置いて廊下の曲がり角に消えていく。
三度のパスっという気の抜けた音。それ以上に多くの、うめき声。
向島が追いついた時、佐渡は倒れている男たちの中に立って、コートの襟を直していた。彼の足元には、静かに赤い液体が広がり始めている。
倒れている男たちは皆、スーツ姿だった。彼らの手にあるのは、お守りにもならないようなハンドガンだけ。そんな彼らは、佐渡にとっては何の脅威でもなかった。ただ少し、邪魔なだけだ。
向島は倒れている男たちには一瞥もくれず、何も尋ねず、佐渡を置いて歩き出した。彼は足元に転がる者たちには興味がなかったし、それらが既に動かないことも分かっている。佐渡の手にした拳銃から漂う嫌な臭いが、それを証明しているように思うのだ。
周囲に人の気配がないことを確認して、佐渡は向島の後を追った。
「東條は?」
「拘束されたようです」
佐渡の無線には、変わらずに情報が届き続けている。それは天下井から与えられたものではなく、彼独自の情報網によるものだった。
「東條の部下は?」
アオイが拘束されたことを知って、向島は苛立っていた。心配する思いが先走り、口調はうんと鋭くなる。
「……移動しています」
佐渡は、彼にしては珍しく、向島への返答を躊躇った。向島以上に、佐渡は彼に対して苛立っている。その感情が、彼の仕事を邪魔しているのだ。
そして佐渡がそれを自覚した時、向島も同じことを感じ取っていた。
「なんだ? 国後のことか?」
普段の向島だったなら、その一言がどれだけ不用意なものか、口にする前に理解出来たことだろう。
佐渡の纏う空気が、揺らぐ。それは僅かな時間のことだったが、その変化は確実に向島にも伝わっていた。
向島が悪意を持って国後を利用したのではないということは、佐渡にも分かっている。そもそも彼らには、利用する、されたという感覚すらないに違いなかった。向島と国後は、あくまでそれぞれの思惑が一致した者同士で手を組んだだけなのだ。
それを十二分に理解していても、佐渡は国後が「巻き込まれた」ように感じ、それに腹を立てている。元を辿れば、向島に国後を近付けたのは自分だということも、彼は決して忘れていなかったが。
「国後。城ヶ島。能登。……奴らに愛着でも沸いたか? 嘘だらけのお前たちでも、どうやら『本物の感情』とやらはあるらしい」
「安い挑発をしたところで、この人形は、あなたの思ったようには動いて差し上げられませんがね。残念ながら」
佐渡は前を行く向島の背を見ながら、周囲への警戒も怠ってはいなかった。彼は遠くから近付く足音に気付いていて、それを向島にさり気なく告げる。
向島は心底うんざりした様子で、佐渡に「行け」と顎で指示した。「片付けてこい」と、彼の目が言っている。
佐渡は向島を追い抜くと、扉を開けて非常階段の先に消えて行った。
向島は辺りに反響する金属音や、大きな物がドサリと倒れる音を聞く。狭い階段で、複数人を相手に、佐渡が立ち回っている。そしてそれは、一方的に行われているのだ。
ゴースト。その存在を、向島は改めて思った。天下井亡き今、佐渡は変わらずに任務を遂行し続けている。依頼主と飼い主とは、異なるのだ。依頼主が居なくなっても、飼い主が居続ける限り、彼の仕事は終わらない。
音が聞こえなくなってから、向島はドアの先に進んだ。
佐渡は階段の踊り場で、拳銃に弾を装填していた。壁には幾つもの血痕が残されていたが、佐渡のコートは汚れていない。
「俺を置いて行けばいい」
階段の上から佐渡を見下ろして、向島は言う。出来るはずがないと分かっていて、何故その言葉を口にしたのか。それは、向島にも分からない。
佐渡が口にしていた「殺しは自分の仕事ではない」という言葉は、単に彼の主義に過ぎず、必要があればそれを厭わない性格だということは理解している。それでも向島は、無意識の内に、佐渡に同情を寄せたのかもしれなかった。
佐渡は顔を上げて、向島の様子を確認する。不遜な態度も、他者に興味のない顔つきも普段と何ら変わりがないが、目の奥だけは違って見えた。向島の目の奥には、これまでとは違う感情が表れている。
それに気付いても、佐渡はその正体を確かめるような事はしなかった。それは自分の仕事ではないと、彼は割り切っている。
「女、子どものような我儘など言わず、降りてきて貰えますかね?」
「演じるだけならば、切り捨てる選択肢もあったはずだろう」
「お話が見えませんね」
「お前は、もう『佐渡』になっているということだ」
「俺の名前は、佐渡です。それ以上でも、それ以下でもない。だから、なんです?」
向島の言わんとしていることを理解して、それでも尚、佐渡は惚けてみせた。演じるうちに役に呑まれている――淡路のその言葉が胸に蘇って、佐渡は不快感から逃れようと胸ポケットのタバコに手を伸ばす。
佐渡にとって、タバコは大切な小道具だった。佐渡という人物を演じるために、それは必要不可欠なものだ。
向島は一段一段ステップを降りていくと、佐渡と顔を見合わせて立ち止まった。彼は佐渡の顔を眺めて、初めて自分の中にある感情に気付く。
「お前のそれは、もう演技じゃない。だが、人には戻れない。悲しい生き物だな」
憐み。それが、向島が佐渡に抱いた感情の正体だった。佐渡は演技を越えて、一人の人間として部下を思っている。だが彼がどれだけ人間であろうとしても、それは実態のない幽霊でしかないのだ。ゴーストは、人間には戻れない。
「――ご自分の心すら理解されていない方に、同情されるとは」
その言葉は、佐渡の意思に反して彼の口を衝いて出た。さらに、佐渡は言葉を続ける。
「あなたが求めているのは、幻想だ。夢であって、現実ではない」
「何が言いたい?」
「単に『母性』であって、『女』ではないということですよ。あなたが、東條アオイに押し付けようとしている役割は――」
辺りに響く、鈍い音。
我に返った佐渡の目に、右の拳を押さえて唇の端を噛み締めている向島の姿が映る。それを見て、佐渡は大分遅れて、自分が左頬を殴られたことに気付いた。
そして佐渡が気付いたのは、それだけではなかった。彼は、自分の内面を無理矢理に引っ張り出されてしまったのだ。それは佐渡にとって、考えられない程の失態でもあった。
向島は自分の内面を晒して、相手の内面をも引き摺り出す。それは、決して意図して行われている事ではなかったが。
「これで許してやる」
向島はそう言うと、一度視線を落として、それからまた佐渡の顔を見た。
「……おい。折れたぞ。なんとかしろ」
向島は悪びれもせず、佐渡に右手を見せる。
佐渡は目だけを動かして、向島の手と、それから表情とを交互に眺めた。彼は短い間に幾つものミスを犯していたが、無茶苦茶な向島の行動の前に、恐れはもう消えている。
「こりゃあ……突き指でしょうね」
すっかり毒気を抜かれた様子で、佐渡は呟く。咥えていたはずのタバコは、いつの間にか地面に転がっていた。




