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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
TO BE (前編)

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343/408

5-5 楽園 ⑬

 *



 同日。


 リリカは中林に連れられて、温室の奥に備えられた書斎のような場所にいた。温室との間を透明なガラスで仕切られたそれは、壁がある場所に滝や亜熱帯のジャングルを思わせる映像が投影されている奇妙な空間だ。


 リリカがその場所を書斎のようだと感じたのは、大きなデスクや本棚、あちらこちらに積まれた本が腰高ほどのタワーを作っているからだった。


 幾つかの本の間からはメモらしき紙が飛び出していて、壁には古びたメモが貼られている。壁に投影されたジャングルの木々には、まるで葉のように写真がペタペタと貼られていた。それが扇風機の風に当たると、まるで本物のようにヒラヒラと揺れるのだ。


 部屋の隅に吊るされた扇風機は、時々、奇妙な挙動をしていた。右よりも左側の方へ首を大きく傾けて、右を向こうとする時は、必ず一度カタタッと小さな音を立てて数秒だけ止まる。寝違えでもしたかのように、右を向くのが苦手な様子だ。


 中林に勧められて椅子に腰を下ろすと、リリカはデスク上のパソコンに目を向けた。やや古いモニターの表面には、薄らと埃が付着している。


「これ……もしかして、アオ姉……?」


 モニターに映る写真を見て、リリカは思わず声を上げた。


 モニターには、アオイによく似た少女と、彼女の肩に手を置く中林の姿が映されている。少女は七、八歳くらいの見た目で、顔はアオイによく似ているが、その髪や瞳の色は金色に輝いて見えた。


「そうだ。君たちが東條アオイと呼んでいる者だ。本当の名は、イリスという」


 中林には、もう真実を隠そうという気はなかった。


「イリス? ……それって確か、女神様の名前でしょ?」


「ギリシャ神話だ。物知りじゃないか。天地を結ぶ、虹の女神だよ」


「虹の女神? ステキ! アオ姉にピッタリ」


 リリカの笑顔を見て、思わず中林も微笑んでいた。元々リリカが人懐こい性格で相手の懐に入るのが上手いということもあったが、中林はイリスを褒められたことに気を良くしている。


 リリカの笑顔には、一点の曇りもなかった。目の前に居るのは自分の体を変えた張本人だというのに、彼女はまるでそれを覚えていない様子で笑顔を振りまいている。


 勿論、リリカは全てを忘れた訳ではない。そしてそれには、中林も気付いていた。


「ヒカルにも、別の名前があるの?」


「いいや。……番号だけだ」


 中林はデスクに積まれた書類の傍からヤカンを探し出すと、部屋の隅へ行ってカセットコンロに火をつける。その様子を、リリカは不思議に思い眺めていた。水も電気もガスも通っているこの空間で、何故カセットコンロなのだろう。


「ねえ、先生。先生は、どうしていつも姿を隠すの?」


 リリカはヒカルが呼んだように、中林のことを先生と呼んだ。


「さて、どうだろう。こう見えて忙しいのだよ」


「そう? ヒカルが怒るからだと思ってた」


「ああ。なんだ、お見通しじゃないか。全く、その通りだよ」


 困った様子で、中林は口元に笑みを浮かべている。リリカに調子を狂わされるのを感じながらも、中林はそれを嫌だとは思っていなかった。リリカの長い金髪は、かつてのイリスを思い出させる。


 中林がカップや茶葉を探すのを見るうちに、リリカは自分の疑問に一つの答えを見つけていた。恐らく、中林は食事を必要としていない。この施設に用意された食事は、全てヒカルの為のものだ。


 それでも中林は、ヒカルが作った食事を毎食口にしている。その意味は、考えるまでもなかった。


「先生はヒカルに怒られるのが嫌なんじゃなくて、怒らせたくないんでしょ? ヒカルって、怒った後に落ち込むタイプだもの。『ああ、酷いこと言っちゃった』……って。違う?」


「……困ったな。……嫌なところばかり似てしまうものなのだ。親子というのは」


 中林は、リリカの言葉を否定しようともしなかった。


「私が傍に居ると、あの子を傷つけるだけだ」


 紅茶の缶を見つけて固く閉じられた蓋を開くと、中林は中からティーバッグを二つ取り出してカップの中に放っていく。その後姿には、孤独の影が滲んでいる。


 傍に居ることも、離れるという選択も、そのどちらも相手への愛情あってのことだ。リリカはそれに気付いて、中林に興味を惹かれた。


「単刀直入に聞くけど、私に何をさせたいの?」


 リリカは中林が誤魔化す前に、続けて言葉を口にした。


「ヒカルの胸には、大きな傷なんてなかった」


 ヤカンに伸ばした中林の手が、空中でピタリと止まる。


 ヒカルがリリカの前で服を脱いで胸を見せた時、リリカは状況が分からずなにも言葉を返すことが出来なかった。ヒカルの胸には、大手術の痕を思わせる傷などなかったからだ。


 しかしヒカルには、冗談を言っている様子も、なにか別のものを「傷」という言葉に例えた様子もなかった。彼には本当に、手術痕が見えているようなのだ。


「すまないが、私には何の話か……」


「ねえ、先生。先生の見た目は、全然変わらないのね。まるで、歳を取らないみたい」


 リリカは、先程眺めた写真のことを指している。そこに映るアオイは少女の見た目なのに、隣に写る中林の姿は今のそれと殆ど変わっていない。


「事故も手術も、嘘なんでしょ?」


「……だとしたら?」


「私じゃダメ?」


 中林は、ゆっくりと振り返った。彼の視線の先には、先程と何も変わらぬ笑顔のリリカの姿がある。


「ヒカルにさせようとしていること。……それって、私には出来ないことなの?」


 リリカは、もう覚悟を決めていた。


 ヒカルがどうして事故や手術の記憶を持っているのか、リリカには分からない。ヒカルが彼女に説明した出来事の中で、どれが本当で、どれが嘘なのかも知りようがなかった。しかしリリカは、もうそれを問題としていない。


「皆で家に帰りたいの。ヒカルがいて、アオ姉がいて、淡路さんが居る、あの家に帰りたいの。だから、教えて。何をさせたいのか」


 思い出の中、リリカはいつも笑顔だった。特別なことは、何も要らない。皆で食事をして、ソファで映画を観て、下らないことで喧嘩をしたり、思い切りふざけたりする。それだけで、リリカは心の底から幸せだったのだ。


 リリカに真っすぐな瞳を向けられて、中林は僅かに戸惑いを覚えていた。彼には明確な目的があって、そのためにリリカに核を与えている。しかし今、中林はそれに後悔すら覚え始めていた。今のリリカは、かつてのイリスを思い起こさせる。


(あの日の君も、こんな目で私を見た……)


 中林は心の中に、イリスの姿を思い浮かべている。それはエコールが消失する前夜に、中林がイリスと会話した時のことだった。


「あの日、君は始めて、私の言葉を否定したね……」


 リリカは、中林の目が自分を見ていないことに気付く。中林はリリカと目を合わせたまま、その向こうにイリスを見ている。


「あんなに悲しいことは無かった。……こんなことは、言いたくないさ。でも、裏切られたように思ったんだ」


 中林の目の裏では、イリスが彼に冷たい視線を寄こしている。



――「ルシエル。あなた……子どもたちを実験に使っているの……?」



 蘇る、イリスの声。彼女の表情は、自分の言葉を否定してほしいと願っている。


 中林は、イリスが何故そんなことを言い出すのか、理解に苦しんだ。実験は確かに行っていたが、それは人類の為に必要なことでもある。多少の犠牲はつきものだ。 


 思い出の中。イリスは中林に背を向けると、そのまま何処かへ消えてしまった。そして中林がそれに気付いた時、エコールは消えていたのだ。イリスの引き起こした大地震によって――。


「イリスは、私を捨てた。彼女は、彼を選んだ。ヒカルを、だ。……君にその意味が分かるかい?」


 リリカは、思わず身構えた。中林の口調は落ち着いていたが、そこには隠しきれない負の感情がある。


 怖いと、リリカは口の中で呟く。脚は、カタカタと震えだす。


 それでもリリカは、その場から逃げようとはしなかった。中林と向き合うことを止めることは、闘いから目を背けることと同じだ。


「ごめんなさい。私には、あなたの言うことが分からない。……でも、大切な人達を守るために出来ることがあるのなら、私はそれから逃げたくない」


 負けそうな心を奮い立たせるために、アオイのようにピンと背を伸ばして、淡路のように笑顔を作ってみせる。リリカの心は、ヒカルを思って熱く燃える。


「幸せでいたいのなら、此処でずっと暮らせばいい。ヒカルと一緒に、二人で何時までも……。君たちには、そういう選択肢もある」


 中林は、敢えてその言葉を口にした。彼にはリリカの意思が固いことも、彼女が首を縦に振らないことも分かっていた。


 そして中林の予想通りに、リリカは首を横に振る。


 リリカの意思を確認して、中林は満足そうに何度も頷いた。「君を選んで良かった」と、中林は呟く。その声は、リリカの耳には届かない。


「ヒカルは、幸せだ。君のような女の子と出会えて」


 中林は、感激のあまり目の端に涙を溜めていた。それから彼は、リリカの元へと歩んでいく。


 一歩一歩近付いてくる中林を見つめながら、リリカは緊張して息を呑んだ。彼女の耳には、鼓動がバクバクと大音量で響いている。


 やがて、中林から差し出された手。そこに乗せられているのは、眩い光を放つ塊。


 

――「好きだよ」



 耳元に蘇る、ヒカルの声。


 目の裏に思い浮かぶのは、部屋を出る前に見た寝顔。


 迷いを捨てて、リリカは光を放つ塊に手を伸ばした。

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