5-5 楽園 ⑪
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同日。二十時過ぎ。
北上と南城は、連れだって家を後にした。
玄関には、ミカンの姿。彼女は一緒に出掛けようとしていたが、眠気には抗えず、南城に撫でられているうちに寝てしまったのだ。
二人は他愛もない話をしながら、南城家の前を足早に通り過ぎて、職場である白鷹学園へ。丁度、最後の職員がカギ閉めをして出てくる時間だと思い、二人は裏口から敷地内に入り込んで守衛室に向かった。
南城を物陰で待たせ、北上は一人で守衛室へ。忘れ物を取りに来たのだと告げると、守衛は疑う様子もなく北上の体を労う言葉を掛けてくれた。勤続が長いこともあって、信頼されているようだ。
北上が鍵を手に戻ると、南城の体は既に校内にあった。渡り廊下の扉が開いていて、そこから入ったのだという。
「悪いな。こんなことに付き合わせて」
「いや。俺も助かった」
二人は守衛から受け取った鍵を手に、生物準備室へと向かう。こうして彼らが夜の学校にやってきたことには、訳があった。
北上と南城は、全く別のルートから中林に対して疑いを抱くこととなった。北上は、昨年の編入試験を始めとする一連の奇妙な問題から。そして南城は、東條ヒカルとの関係からである。
現状、生徒が登校していないことから、学校に出勤している教師の数も――普段に比べれば――それほど多くない状況だ。人目を避けて行動するのなら、今がベストだろう。
「しかし、お前も中林先生に物を貸してたんだな」
南城は、学校に忘れ物を取りに行くと言って北上家を出ようとした。中林に貸している物があり、それを回収しなくてはならないのだ、と。
すると北上も忘れ物をしたと言い出したので、それならばと、二人は連れだって学校へやって来たのだ。勿論、二人の言うそれは、ただの口実に過ぎない。
「……デジカメ」
「デジカメ? ……ああ。そういや、学年のやつ、管理部に返却だっけ? お前、そんなことも担当してたのか」
うんと、北上は頷く。慣れない嘘に、彼の表情は固い。北上は機材の保管を担当したこともないし、そもそも、彼はクラスや学年の写真を撮る時は、学校から支給されている仕事用のタブレットなどで撮影している。
北上は無言でいるのが気まずくなって、南城にも同じ質問をした。
「私? 私は……。別に、いいだろ。安心しろ。金とか名義とか、そんなものは貸してないから」
下手な冗談で言葉を濁して、南城も不器用にアハハと笑った。
北上は深く考えずに、うんと頷く。
「それにしても……夜の学校に忍び込むなんて、ちょっと青春っぽくないか?」
「忍び込んではいない」
「……そうだけどさ。でも、夜のプールで泳ぐとか、一度はやってみたいと思ったことあるだろ?」
「この時期のプールに水は……」
「もういい。夢の無い奴め」
南城がボソリと呟いた一言は、さり気なく北上の胸に刺さった。自分でも面白みのない人間だという自覚はあるが、人に言われるのは辛いものがある。
「……学校に不審者が乗り込んできたら……というシミュレーションをしたことはある」
「は? なんだそれ?」
「……だから、何処に追い詰めれば一番安全なのか……という……」
突然、南城がピタリと足を止める。
北上も同じように足を止めて、南城と顔を合わせた。
「北上って、結構ガキだな」
冷たい表情でピシャリと言い放つと、南城は北上を置いてまた歩き出す。
北上は、慌てて南城の後を追った。
「最初に言い始めたのは、君だ」
「一緒にするな。不審者が乗り込んできたら、警察を呼べ」
「警察は呼ぶ。……君のは妄想だが、俺のは避難訓練の延長みたいなものだ」
「はあ? 全く、これだから青春もしたことない奴は……。北上には夢がないのか? 頭が固いと禿げるぞ?」
南城は言いたいことを言うと、プイッと顔を背けてしまった。彼女は途中から面倒になって、適当なことを言ったのだ。
一体なんの根拠があってそんな暴言を吐くのかと北上は思ったが、彼はそれを口にはしなかった。唐突に、思い出したことがある。頭皮が固いと、髪が抜けやすい。そんなことを聞いたことがあるような、ないような――。
南城は黙っている北上の横顔を盗み見て、また呆れた。北上は一回りも年下の女に馬鹿にされて、一言も言い返してこない。腹を立てても、可笑しくはないのに。
(……怒らせようとしたのか……?)
そんな理由もないはずなのにと、南城は自分に戸惑う。自分は、ワザと嫌われようとしているのかもしれない。
それからしばらくして、北上が軽く咳払いした。
南城は自分を攻める言葉が続くのかと身構えたが、北上の口から彼女を攻める言葉は一言も出なかった。
「――氷柱を舐めてみたかった」
「氷柱……? 舐めないだろ、普通」
北上は、うんと頷く。彼は少し困ったような顔をして、それからまた口を開いた。
「朝、家の前に下がっているのを折る。それを手で持って、舐めながら学校へいくんだ。子どもらが」
悴む手。白い息。足裏を伝わる雪の音――。北上の目の裏に、青森で過ごした幼少期が思い起こされる。
真冬。家の軒下には、氷柱が下がっていることがあった。子ども達はそれをポキっと手で折って、まるで宝物でも見つけた様子で意気揚々と掲げながら学校へ向かうのだ。うんと長いものを手にした子が、それを剣に見立てて、自慢げに振り回していたこともあった。
舐めるという行為は、誰が始めたのかは分からない。陽の光でキラキラ輝く透明な氷を見るうちに、自然と誘われたのだろうか。子ども達は手にした氷柱を舐めては、「甘い」と口々に言い合っていた。
だが北上は、他の子どものように氷柱を舐めたことはなかった。北上が過ごした施設の軒下にも氷柱は下がっていて、少し背伸びして手を伸ばせば届くように思えたけれど、彼は手を伸ばしたことすらなかったのだ。
一度、同級生に「お前にもやろうか」と、氷柱を向けられたことがあった。しかし北上は「興味がない」とそれを断って、それきりだ。相手はニヤニヤ笑って、それから北上には話しかけてこなくなった。
手を伸ばせば手に入るけれど、欲しくないだけ。今は、興味がないだけ。北上は、ずっとそう思っていた。しかし歳を重ねるうちに、北上は、自分が普通の家の子に嫉妬していたのだと気付く。そしてあの時の子どもは、そんな自分の心を見透かしていたのだ、と。
何がそうさせたのか、ハッキリした原因は分からない。民家と施設とで、軒下に下がる氷柱に違いがある訳もない。ただそれでも、幸せそうに氷柱を舐めながら登校する子どもの中に交ざる自分の姿が、どうしても想像できなかったのだろう。
ましてや、そんな幸せそうな子どもの手から氷柱を受け取ることは、まるでおこぼれでも貰うようで、境遇を同情されているようで嫌だったのだ。親が居ないことも施設で育ったことも仕方のないことと割り切っていたが、それを他人から辛いことだと勝手に推測されるのには耐えられなかった。
「ちっぽけなプライドが、邪魔をした」
呟いて、北上はかつての自分を思った。じいさんに拾われ、家族として過ごした日々が無ければ、今のように考えることもなかっただろう。
北上が口にしたプライドという言葉を、南城は心底意外に思っていた。彼女の中で北上という男は、プライドや信条には振り回されずに生きているように見えていたからだ。
「今度は、酒でも注ぐか?」
南城は、氷柱を折って、それを入れたグラスに酒を注ぐのだと言った。それから南城は、北上のような大男が氷柱をベロベロ舐めながら歩いていたら、事案になりそうだと付け足す。
大きく砕いた氷柱の入ったグラスに日本酒を注いで、縁側で月を眺めながら煽る。そんな想像をして、北上は笑みを浮かべた。子どもの頃に出来なかったことが、形を変えて憧れの一つに変わる。その提案が南城から齎されたことも、北上は嬉しく思った。
「君もだ」
「私もか。そうだな。お前が毒見して、腹を壊さなかったらな」
南城が横顔で笑うのを見て、北上も笑った。他愛もない話をしているだけなのに、それだけで過去が別の意味を持つように思える。南城と居る時、北上はそう思うことが少なくなかった。
過去は、時に意味を変える。今の自分の在り方が、過去の見方を変えるからだ。過去に意味があると思えるのは今の自分が満たされているからで、過去を受け止めようと思えるのは、思考が前を向いているからなのだろう。
「ありがとう」
北上のその言葉には、不器用な彼には表現することのできない様々な思いが込められていた。
南城は「どういたしまして」と、口の端で笑う。彼女は、北上の思いには気付いていない。
やがて、二人は生物準備室の前へ。鍵を使って中に入ると、室内は締め切られていたためか、古い紙や埃などの臭いが充満していた。
北上と南城はそれぞれが口実にした忘れ物を探すふりをしながら、室内に怪しいものがないか捜索を始める。だが互いに相手の視線を気にしながら行うそれは、思うようには進まない。
十五分ほど部屋の中を探し回って、南城は壁に備えられた棚にもたれ掛かった。先日からの体調不良で疲れやすくなったということもあり、なにより北上の視線を気にしながらでは気疲れもする。
「床」
北上がなにかに気付いた様子で、ぼそりと呟く。南城がその視線を追うと、北上は彼女が立っている床に注目していた。
「なんだ? なにかあるのか?」
「君が歩いた時、音が違った」
「重くて悪かったな」
南城は一七五センチと女性にしては背が高く、普段から鍛えていることもあって筋肉質だ。しかし彼女は、自分の体重が平均より重いことを内心気にしていた。
北上は身を屈めて、床を拳で叩く。それから彼は部屋の入り口の方へ行って、また床を拳で叩いた。彼は南城に、音の違いを聞かせたのだ。
始めは信じていなかった南城だが、実際に音を耳にすると、僅かではあるが確かに違いがあると気付いた。昼間の、普段通りの学校であれば、音の違いには気付かなかっただろう。
「なにかある」
「なにかって? 単純に構造が違うんだろ。反響しているだけとか、そんなんじゃないのか?」
「ここは一階だ」
北上は身を屈めたまま、部屋の入口から南城がもたれ掛かっている棚までの床を注意深く確認し始める。そうして彼は、床に傷が走っていることに気付いた。重いものを引き摺ったような跡だ。
「北上。お前、なんか変だぞ」
南城は、北上がデジカメを探しにきたのだとまだ信じている。
北上は軽く腰を叩きながら、背筋を正した。
「南城。理由は言えないが、俺はその床の下を確認したい」
「また意味の分からんことを……」
「嘘をついてすまない。俺は、中林先生に物を貸していない」
嘘という単語で、南城はドキリとした。嘘を吐いて此処へやって来たのは、彼女も同じことだ。それを先に謝罪されて、南城は急に自分を恥ずかしく思った。
「なにか、理由があるんだな? ……この棚、どかしてみるか?」
北上は南城と目を合わせると、うんと頷く。彼はそこに、感謝の気持ちも込めていた。
棚は、同じ形をしたものが、二つ並べて置かれている。中には資料やファイルがギッシリ詰められていて、見るからに重そうだ。
南城は彼女が凭れていた棚の端へ行って、壁と棚の隙間に指を入れて力いっぱい手前に引いた。だが、棚はピクリとも動かない。
北上は入り口に近い方の棚を、南城と同じようにして手前にズラそうと力を込めた。しかし、やはり棚は動かない。まるで床や壁に張り付いているようだ。
「中のファイルを少し出すか。……いや、鍵がかかってるな。鍵があれば……」
南城は、目についた中林のデスクに歩み寄る。デスクには彼が担当している生物の教科書と、カップラーメンがゴロゴロ入ったコンビニの袋が横に下がっているだけ。
さすがに引き出しを漁るのには抵抗があったが、南城が確認すると引き出しにも鍵がかかっていた。鍵のかからない場所には、コンビニで貰える割りばしと使い捨ての先割れスプーンしか入っていない。
「不健康過ぎだよ。机の下まであるじゃないか」
椅子の陰からインスタントラーメンのものと思われる段ボールを見つけて、南城は椅子をグイと引いて机の下に潜り込んだ。全てカップラーメンなら良いが、腐るようなものがないか不安に思ったのだ。
「こんなことは言いたくないが、あのお歳で独身だものな。まあ、それも……」
南城がいつもの口の悪さを披露しかけた、その時。
「……ガツン?」
ガツンっという音。南城が動かそうとした段ボールが、何か固いものに触れたようだ。
それからどこからともなくガリガリと音がして、壁に設置してあった棚が床を滑り、生物準備室の扉の前へと移動した。棚が固定されていた元の場所には、ぽっかりと穴が開いている。
「なんだこれは……」
南城が傍へ行くと、穴には粗末な梯子が掛けられているのが見えた。
「南城」
梯子に手を掛けようとした南城を制止して、北上が駆け寄る。先程、彼は突然動いた棚に轢かれかけていた。南城はそれに気付かなかったばかりか、目の前に現れた謎に気を取られて北上の存在を忘れていたが。
「南城。君は此処に残ってくれ。俺が見てくる」
「嫌だ」
「南城」
「悪いな。後に続け!」
南城は梯子に手を掛けて強度を確認すると、北上の視線を無視して先に降り始めた。
北上は、溜息を漏らす。中林に関して自分が知っていることを説明すれば良かったのかもしれないが、説明したとしても彼女を止められる気がしない。
北上が覗き込むと、穴の下には小さな明かりがぼんやりと浮かんでいる。南城がスマートフォンの明かりで周囲を照らしているのだ。それを頼りに、北上も彼女の後を追いかけた。
「なんだ、ここは? どう見ても、自然のものには思えんが……」
穴の中。南城はぐるりと辺りを見回して、壁や床がコンクリートで出来ているようだと気付く。
「このあたりに防空壕やそれに類するものがあったという話は、聞いたことがない」
北上もスマートフォンの明かりで辺りを照らしながら、壁の方へ歩み寄った。四方をコンクリートの壁に囲まれた、謎の空間。中にはなにもなく、一見すると、防空壕や倉庫のようにも見える。
「ああ、ダメだ。バッテリーが……。北上。調べるにしても、明かりがないと」
南城は充電の切れ掛かっているスマートフォンをポケットにしまうと、さっさと梯子に手を掛ける。彼女はこの場所が中林の秘密に繋がっていることを察していたが、それを調べるためには北上の目が邪魔だった。後日、準備をして出直すことを考えている。
北上は、何処かから風が流れているように思った。微かに、外の匂いがする。
「北上? 先に上がるぞ?」
「直ぐに行く」
北上は壁に手を当てて、そこに意識を集中させた。やはり、僅かだが風の流れがある。横穴があるのだ。
再び南城に名前を呼ばれて、北上は探索を諦めて直ぐに地上に戻った。
中林のデスク下に隠されていたレバーを引いて棚を元の位置に戻すと、二人はどちらとなく顔を見合わせた。互いに今日のことを口留めする必要性を感じているが、そのための理由が見つからない。
南城は北上の目を見るうちに、自分がまだ嘘を吐いたままだということを思い出す。しかし今の彼女には、中林と東條ヒカルの関係を説明するだけの材料がない。
東條ヒカルがヘカトンケイルと呼ばれるハンターであることを説明すれば、北上は恐らくそれを信じるだろう。南城には、その確信がある。だが、彼女がそう推測した理由を尋ねられれば、なにも答えられない。自分もハンターであるという事実は、隠し通す必要があった。
そうして、最初に口を開いたのは、北上だった。
「南城。今日のことは、口外しないで欲しい」
南城は、何故なのかとは問えなかった。彼女は、無言で頷くだけ。
北上は南城が理由を尋ねなかったことを意外だと思ったが、自分からそれを話題に出したり、深く考えることはしなかった。
中林という生物教師のフリをした外部の人間が居た可能性がある――そんな話を、今この場で出来るはずもない。ましてや、まだ可能性があるというだけで、確実な証拠を掴んだ訳ではないのだ。
互いに口外しないことを固く誓って、二人は逃げるように家へと向かった。




