2-1 予感 ④
*
立ち入り禁止と殴り書きされた紙を前に、ヒカルは溜息を漏らした。
ヒカルの家に帰ってきて直ぐに、リリカはヒカルの部屋に閉じこもっている。
直前にスマートフォンで誰かとチャットしていた様子だったので、それが原因だろうと予想はしているものの、その内容については全く見当もつかない。
「リリカ」
呼びかけた声は、見慣れたドアの表面で跳ね返ったように思えた。
「リリカ。入るよ」
一声かけてから、ヒカルは占拠された自室のドアに手を掛けた。
ドアには、ヒカルの侵入を拒むものは無かった。元々、カギはついていないのだが、ドアが開かないように荷物で塞がれているといったわけでも無かった。
部屋の中ではリリカがベッドの上に寝転んで、うつ伏せでスマートフォンを弄っている。
「ごはん、もうすぐ出来るよ」
聞こえているのは確かだが、リリカは答えようとしない。
リリカの背中から漂う怒りを感じ取って、ヒカルはどうしたらいいか分からずに、彼女の足元の方へ腰を下ろした。
二人は五歳の頃からずっと一緒に過ごしてきたが、高校生になった今でも、怒らせてしまった後の気まずさは慣れるものではない。
ヒカルは謝ろうと考えたが、一体なにが悪かったのか分からないままでは、なにに対して謝れば良いのかも分からない。
「リリカ」
ヒカルは自分の声が弱気になっている事に気付いたが、一度口から出た声は飲み込むことも出来ない。
「……こっち向いてよ」
咄嗟に、ヒカルはリリカの背中から視線を反らした。口を突いて出た言葉が、自分で意識していた以上に女々しく感じられて嫌だったからだ。
自分は何をやっているんだろうと、ヒカルは深く息を吐く。
それから少し間を置いて、リリカがようやく口を開いた。
「――廊下で抱き合ってたって……本当?」
リリカが口を開いた安堵と、全く理解できない言葉とがヒカルの頭を一杯にした。
「それ、僕が?」
他に誰がいるのかと、リリカが口を尖らせる。
ヒカルは一日の流れを順に思い出していくが、身に覚えがない。
「今日。転校生と」
リリカがさらに付け加える。それは追及するためというよりも、ヒカルが無言でいることが怖く感じられたからだった。
「ああ。あれか」
転校生という言葉でようやく理解して、ヒカルは独りごちた。
夕方、クラスの買出しの帰りにアンズが躓いたのを、ヒカルは助けている。その時に一時的にアンズがヒカルの腕にしがみ付く形になったのだが、それを誰かが見ていたのかもしれない。
「やっぱり」
「いや、違うよ」
「だって……」
「だからさ、抱き合ってたとかじゃなくて、西園寺さんが躓いたのを支えたんだよ」
「西園寺さんっていうんだ?」
「そうだよ。……別に、名前なんかいいだろ。とにかく、抱き合ってないから」
「じゃあ、嘘ってこと?」
「そうだって。大体、そんなこと言ったら、西園寺さんにも迷惑かかるから」
「ああ、そう」
和らぎかけていた雰囲気が、一転した。ビリビリと肌に刺さるように感じられるそれを感じ取って、ヒカルの目は彼方こちらへと泳ぐ。誤解は解けたはずなのに、リリカは先ほどよりも怒っているように見える。
「リリカは、僕が誰かと抱き合ってたと思ってたから、怒ってたの?」
「別に。関係ないし」
ならば何故怒っているのかと問いかけようとして、ヒカルはそれを飲み込んだ。その理由をヒカルは分かっていなかったが、その判断は間違いではなかった。
「可愛いんでしょ?」
「なにが?」
「西園寺さん」
「分かんないよ、そんなの」
「分からない訳ないでしょ」
「分かんないよ。いつも、リリカとアオ姉しかみてないんだからさ」
「……そう」
ふうんと、リリカの声。
そうだよと、ヒカルは呟く。
それからしばらく、二人は無言だった。リリカはスマートフォンを放り出して、枕を抱きかかえるようにして頭を乗せ、何かを考えている様子だ。
ヒカルはその背中を、ただ眺めている。
少しして、リビングからアオイの声がした。食事にしようと、彼女は二人を呼んでいる。
ヒカルが意識をリビングの方へ向けた時、彼を制するようにリリカが先にベッドを立った。スマートフォンを拾い上げて、リリカは部屋のドアに手を掛ける。
「ヒカル。彼女が出来たら、真っ先に教えなさいよ? 秘密にしないで」
「彼女なんかいないよ」
「そうかもね」
そうだよと、ヒカルはドアの向こうに消えていくリリカの背中に返した。
リリカは、何も応えなかった。
リビングからは、アオイと淡路の会話が漏れ聞こえている。
部屋に一人になって、ヒカルは脱力しベッドに寝転んだ。
ヒカルはリリカが怒っていた理由を、隠し事のためだと考えた。今回の件については、単なる誤解に過ぎなかったが。
(でも、だとしたら、やっぱり僕は謝らなくちゃいけない)
ハンターであるという、重大な隠し事。それを思って、ヒカルは溜息を漏らした。
「ヒカル君」
ノックの音で、ヒカルの意識は再び外へ向けられる。
ヒカルが返事をすると、ドアの隙間からは淡路が顔を出した。
「ごめんね。延長コードって、何処にあるかな?」
淡路の言葉で、ヒカルの頭にはダイニングの様子が思い浮かんだ。ダイニングテーブルでホットプレートを使う時、電源コードの長さが微妙で、妙に危なっかしいような恰好になるのだ。
勿論、小さな子供でもなければ、見えているそれに引っかかるような事はない。だがアオイが酒を飲むことを考えると、用心しておいた方が良いだろう。
「出します。リビングの収納に入れてあるんですよ」
重い体を無理やり起こしあげて、ヒカルは淡路の方へ顔を向けた。
目が合った時、ヒカルの予想していた通りに淡路は笑顔だった。
「仲直り出来て、よかったね」
「まあ。……はい」
「餃子、喜んでるよ」
そうだろうなと、ヒカルは思った。リリカは、餃子に羽根をつけてやるともっと喜ぶのだ。
「まるで魔法だね」
「そう、ですか」
そんなものがあるなら教えて欲しいくらいだと、ヒカルは心の中で呟かずにはいられなかった。




