5-5 楽園 ⑧
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北上家。
縁側から、調子外れの歌が聞こえる。南城が歌いながら、ミカンと遊んでいるのだ。
居間に入ったところで、北上は自分が笑っていることに気付いた。家に自分を待つ人が居ることは、幸せだ。
おかえりと声を掛けられて、北上はうんと頷き、「ただいま」と返す。
「すまん。玄関の音、聞こえなかったんだ」
南城は出迎えしなかったことを謝ったが、北上はそんなことを気にしていない。
世の中の混乱を受けて学校は全ての部活動が休止となり、生徒は自宅学習となった。北上は、役職者だけの会議と、失踪した編入生に関する報告会に出席してきたのだ。
時計の針は、もう十四時を回っている。昼には終わる予定だったのだが、報告会が長引いた。よくあることだ。
南城に食事は済ませたかと尋ねられて、北上は頷く。彼は家で食べたかったのだが、帰りしなに体育科主任の増田に捕まってしまい、彼女に付き合って軽く済ませてきたのだった。
食事中、増田は珍しく愚痴を吐いていた。来年の人事について、腑に落ちない点があったらしい。そして彼女の口にしていたようなことは、他の役職者からも問題として取り上げられているようだった。
「南城。……来年、担任を持たないのか」
北上は、気の利いた物の尋ね方など知らない。
北上が縁側の傍に腰を下ろすと、南城はミカンを抱き上げて彼に向き合った。
「そうだな。そういう可能性が、あるらしい。持ち上がりかと思ってたんだがな」
南城の顔は、サッパリとしている。
「体育と政経だと聞いた」
「うん。実は私、両方持ってるからな。……といっても、実際にどうなるかは分からないぞ?」
南城は、ミカンに笑いかけている。
社会科では予定していた定年退職者の他にも休職者が発生し、人員不足のために急遽採用を行ったのだが、時期が悪いのもあって求めているレベルの人材を確保することが出来なかった。そのため、資格を保持していた南城に白羽の矢が立ったのだ。
南城は大学の法学部を卒業した後、専門学校へ入学して体育教師の資格を得ている。彼女の経歴は、教員の中でも異質だ。
南城は進んで自分のことを話すような性格ではないため、職場でも彼女の経歴を知らない者は多かった。北上も、その一人だ。
仮決定とはいえ、今回のような人事は先ず在り得ない。それは、北上だけでなく今回の件を知っている者たちの共通認識でもあった。
担任を降りることや、学年を持ち上がらずに異動することは、ままある。それ自体は珍しくもないし、おかしなことでもない。人事の都合だ。
だが、二月のこの段階で、四月の採用試験を早々に諦めるような発言が出ることは、非常に奇妙なことだった。規定のレベルに達していなければ、専任でなく臨時で採用を行って様子を見ることも出来る。それさえしないのは、過去に聞いたことがない。
そもそも二人の勤め先である白鷹学園には、それなりの進学実績がある。都内にある私立の進学校が募集をかけて、全く人が集まらない事の方が稀ではないだろうか。
北上が心配しているのは、南城もこの仮決定の奇妙さに気付いていながら、それでも提案を受け入れているということだ。
「……そんな顔するなよ。生徒たちには授業で会えるし、部活もあるし。担任業務なんて、外れてラッキーくらいに思ってるんだ。……それに、来年の事なんて分からない。本当に、どうなるかなんて。そうだろ?」
南城はミカンの手を取って、北上に向けて招き猫のようなポーズを取っている。
北上は言葉が見つからなかったので、無言のままでいた。北上にとって、先程の南城の言葉は重い。それは、彼女が白鷹学園で働き始めた年に起きた事件と関係している。
モンスターペアレントという言葉が浸透して久しいが、南城が一年目で運悪く当たってしまったのも、正に絵に描いたようなモンスターだった。勿論、周囲の教員たちは一年目の彼女を精一杯フォローしたが、それでも一度負った傷を癒すには時間がかかる。
北上が言葉を見つけられないのは、先程の彼女の言葉に嘘を見つけてしまったからだ。どんな親が居て、どんな子供が居ても、南城は担任業務が嫌いになれなかった。彼女は、根っから教師だったのだ。
北上は、庭を眺めた。
二月も末とはいえ、季節外れの陽気だ。少し前は雨で、それは世間の陰鬱さもあって物悲しさを誘ったが、今日の空は人々に春の訪れを思わせた。混乱は人々の予想を超えた速度で浸透し始めていたが、それでも、春はやってくるのだ。
奇病の流行に、中林という教師の失踪事件。そして、存在を消された編入生――。この春は、これまでに北上が迎えてきたどんな春とも異なっている。そして全ての事件には何らかの繋がりがあるのではと、北上には不安が募るのだった。
北上は謎の奇病をアナザーによるものと仮定し、「釣り」の準備を始めている。アナザーを作り出すことで、誘き寄せようと考えたのだ。
だが北上の計画は失敗続きで、残念ながら思うような成果を得ていない。彼は様々な方法を試みたが、アナザーを生み出すことは出来なかった。北上はその原因を、核を植え付ける被検体にあると考えている。
(恐らく、核は生命反応がなければ機能しない)
北上は鳥の死骸を実験に使ったが、核は反応を示さなかった。死体では、意味がないのだろう。
「……あ~あ。思いも寄らぬところで、私の華麗な経歴がお前にバレてしまったな~」
ワザとらしく、南城は思ってもいないことを口にして笑う。彼女は思いつめている様子の北上を見て、空気を変えようとしたのだ。
北上は南城の声で、自分が考え込んでいたことに気付く。アナザーを狩れば世の中の混乱は治まるだろうと、そしてそれは南城にも良い影響を与えるだろうと、そんなことを考えていた。勿論そこには、彼女の兄を狩ったことへの贖罪も含まれていたが。
「君が高学歴なことは、知っていた」
「そうなのか? なんだ、つまらん。……お前も『ある意味で東大出身』だと言ってたぞ?」
南城は「誰が」とは言わなかったが、北上にはそんな噂を流す人物は増田しかいないと分かっている。
北上は誤解されるのが嫌なので、東京工業大学だと母校の名を正しく伝えた。過去に誤解されたまま話が大きくなってしまったことがあり、生来の口下手もあって誤解を解くのに苦労した経験がある。
学部は何処かと尋ねられたので、北上は数学だと答えた。
「今……唐突に、全てが繋がったような気がするぞ……」
南城は笑いを堪えていたが、やがて耐え切れずにミカンを抱いたまま縁側に転がった。
「そうか、だからお前……」
南城は、ケラケラと笑っている。彼女の中では、数学科出身の人間に対して抱いているイメージと北上の人柄とが、面白い程に重なったのだ。決して悪口ではないが、数学科を選ぶ人間は、変わり者という印象がある。
南城は北上を見るうちに、先日の出来事を思い出した。
先日、暇を持て余した南城が北上に、「なにか時間を潰せることはないか」と尋ねたことがあった。直前まで二人は将棋で遊んでいたが、流石にそればかり続けていると飽きてしまう。
すると北上は少し考えてから寝室へ行き、分厚い赤本を手に戻ってきた。それは大学入試の過去問題集で、付箋の貼られたページを広げると、北上はそれが如何に良問であったか言い聞かせながら解き始めたのだ。
勿論、南城は早々に北上を無視して、ミカンと遊んでいたのだが。
他にも北上は、空いている時間に問題を解いていることがあった。それは南城の目には授業準備として映っていたのだが、半分は趣味――恐らく無自覚だろう――だったのだ。
思い出しながら笑う内に、南城は更に北上の妙な癖を思い出した。北上は買い物をしたり、食事をしたりする時、貰ったレシートを見て「南城。素数だ」と報告してくることがあった。それも、一度や二度のことではない。
南城はレシート番号が素数でも円周率でもなんとも思わないが、北上が見つける度にワザワザ報告するので、「良かったな」とだけ返すことにしている。そうすると北上は、何故か嬉しそうなのだ。
南城はミカンを抱き上げたまま、居間に戻ってコタツに脚を入れた。
北上はまだ笑っている南城を不思議に思いながら、壁に掛かっていたハンガーを手に取る。
「数学といえばさ、昔、妙な入試問題あったよな? 何処の大学だっけ。凄く短くて」
妙な問題というワードに、北上は違和感を覚えた。具体的には、どういった問題のことをいうのだろうか。
「『ax=bを解け』?」
それが入試に使われたかどうかは記憶になかったが、北上は思いついた短い問題を口にした。
「んー。そういうやつだけど……」
「『tan1°は有理数か.』か?」
「多分、そんなやつ」
アハハと、南城は声を上げて笑う。
北上はジャケットをハンガーに掛けてネクタイを外しながら、南城の様子を不思議に思った。先程の問題は、狂都大学の入試問題だ。狂大らしい良問だと思うのだが。
北上が着替えを済ませて南城のもとに戻ると、目が合うなり彼女は笑った。南城は、また過去の出来事を思い出している。
北上は南城の纏う雰囲気がすっかり明るくなったように感じて、口元に小さな笑みを浮かべた。理由は分からなくとも、南城が楽しいのならそれで良いのだ。




