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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
TO BE (前編)

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334/408

5-5 楽園 ④

 *



 同日。


 ヒカルとリリカは草原に寝転がって、流れゆく雲を眺めていた。首筋にはジットリと汗を掻いているが、眺めている景色がその不快さを中和するようで、二人はもう一時間以上も同じように過ごしている。


 眺めている光景は、全て偽物だ。二人が寝転がっているのは毛布を重ねて敷いた冷たい床の上で、空は投影された映像に過ぎない。それでも二人は、ここにある筈のない風を感じながら、穏やかな気持ちでいた。


 リリカは、既に自分の脚で歩ける程に回復している。食事もシャワーも普段通りに過ごしていて、もうすっかりいつもの調子を取り戻していた。ヒカルからなにか困ったことはないかと尋ねられて、「スマートフォンの充電が出来ない」と答えて笑わせたほどだ。


 二人で探検して、彼らはこの施設が想像よりも広いことを知った。あちこちに鍵のかかった部屋があるため全てを確認できた訳ではないが、一時間ほど歩き回って、それでも二人は、まだ施設の全容を掴めていない。


 施設の見取り図は廊下や階段の至る所に表示されていて、それを見る限りでは単純な造りであることを思わせていた。だが実際に探索を始めると、見取り図に描かれた各部屋までの距離は途方もなく遠い。


 ヒカルはここへ来てからリリカが目を覚ますまでの間に、相当な時間をかけて施設の中を歩き回っていたはずなのだが、彼は自分が歩いていたその距離や場所を分かっていなかった。なにも考えられないほど、心が弱っていたのだろう。


 施設の中は、何処へ行っても、廊下やドアの横幅がゆとりを持って作られていた。また、天井にはレールやコードが敷かれているが、床には段差が殆どない。ベッドや台車、研究機材などを運び入れるために適した造りなのだろうか。


 探検している間、二人は一度も中林の姿を見なかった。リリカが目を覚ました時も、二人が食事をしている間も、中林は現れなかった。


 記憶が確かなら、ヒカルはここへ来てから、中林が食事するのを見ていない。一度、コーヒーを飲んでいただけだ。しかし、施設内には電気も水も引かれ、冷蔵庫には幾らか食料が入っていた。不思議なことに、それらには手を付けられた跡がなかったが。


 冷蔵庫は何故か廊下に設置されていて、水場の蛇口からは勢いよく水が流しっぱなしになっていた。まるで、二人に存在を知らせるかのように。


「夜、どうしようかな。卵あったな……」


 ヒカルの言葉を聞いて、リリカは噴き出す。この状況でヒカルから出てきた言葉が夕飯の献立についてだったことが、彼女には面白かった。


 ヒカルは、自分の言葉に驚いて笑う。無意識に発した状況に似つかわしくない言葉は、余りに能天気だ。リリカが目覚めて、約半日。張り詰め続けていた心が今ようやく解かれていくのを、ヒカルは確かに感じていた。


「ねえ。今、何時だと思う?」


「全然、分かんないよ。夜にはなってないと思うけど。……そろそろ部屋に戻ろうか」


 二人のスマートフォンやモバイルバッテリーの充電は、とっくに切れている。電気が通っているのだから充電も出来るはずなのだが、電気を取っていると思われるコードは全て天井を通って壁の内側に入り込んでいて、電源が見つからないのだ。


 不思議な構造の確認も含めて、二人はまた施設内を探検する事に決めた。本当は直ぐにでも家に帰りたかったが、リリカの体調が急変するのではと思うと、強行することは出来なかった。


 二人は元来た道を歩きながら、その途中で誰かの話し声を聞く。見知らぬ男たちの話し声を不思議に思って声の方へ近付いていくと、それは壁に投影された映像だということが分かった。


 暗い部屋の壁一面に投影されたその映像は、どうやらテレビで放送されているニュース番組のようだ。画面の右上には生放送であることを示す文字と、現在の時刻である「15:49」の数字が並んでいる。


 二人はどちらともなく部屋の中へ進んでいって、それからテレビ番組に耳を傾けた。その内容は、存在が確認されたばかりの奇病について伝えるものだ。


「……脳が溶けちゃうなんて、信じられない……」


 リリカの言葉に、ヒカルも同意した。それから彼は、タイミングが良すぎるのではと考える。彼らが東京を離れた後でこのニュースが出てきたのは、本当に偶然だろうか。


 その後も、テレビは信じ難いニュースばかりを映し続けた。それは巨大な電波塔の崩壊だったり、海の向こうの戦争だったり、日本近海で起きた海底地震のことだったりした。そのどれもが、まるで世界の終わりを予期させるような暗い内容ばかりだ。


 ヒカルは映像を眺めながら、これも中林の用意した小道具ではないかと考え始めていた。中林は二人に、外は危険だという印象を植え付けるためにこれを用意したのかもしれない。


 一つを疑い始めると、ヒカルには全てが疑わしく思えた。右上の時刻は直に十六時になろうとしているところだが、それすら本当なのか分からない。本当はまだ中林と話をしたあの日のままで、リリカも目覚めていないのではないだろうか――。


「大丈夫?」


 グイと腕を掴まれて、ヒカルは我に返る。傍らにはリリカが居て、彼女は強張った表情のヒカルを心配そうに見つめていた。


「……ごめん。ボーっとして……」


 ヒカルは自分の馬鹿な考えを振り切ろうと、頭を軽く左右に振った。


 リリカの手が、ヒカルの手に触れる。


「ヒカル。大丈夫」


 リリカは、ヒカルに微笑んでいる。


 うんと、ヒカルは頷いて応えた。今の彼には、リリカの笑顔を疑うことは出来ない。


 しばらくすると、テレビ番組はニュースではなく子供向けのアニメを流し始めた。真ん丸の顔をしたヒーローが、「どりーむわーるど」を守るために「アクマ」と闘う物語だ。それは国民的アニメ作品で、二人も小学校入学前までは毎日観ていた。


オープニングでは、ヒーローが物語の登場人物である森の動物たちと歌い踊りながら、平和な日々を満喫している。彼の表情は、笑っているか、勇ましいかの二パターンしかない。


 リリカは見るうちに懐かしさを覚えたのか、途中からオープニングソングを口ずさみ始めた。その声は明るく、ヒカルの胸中の不安を消し去ってくれるようだ。


 二人は手を繋いで、アニメを眺めた。途中、リリカが汗を掻いたことを恥ずかしがって手を離そうとしたが、ヒカルがそれを嫌がった。


「離さないで欲しいんだ。今日だけ……今だけでもいいから」


 ヒカルが言うと、リリカは顔を真っ赤にして、無言で頷く。


 ヒカルは、リリカと手を繋いでいる今だけは、これが現実なのだと信じられるような気がしていた。

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