5-5 楽園 ②
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同日。
トントンと、規則正しいまな板の音。米の炊ける匂いと、少し焦げたような醤油の匂い。玄関の壁に凭れて胡坐を掻きながら、北上は台所から届く心地よい音と匂いとで睡魔に誘われている。
ミカンは先程から台所と玄関とを忙しく移動して、時々、思い出したように北上の膝に乗って彼に甘えていた。
「……うん。悪くないな。流石、私だ」
台所から聞こえてきた南城の声を聞いて、北上は微笑んだ。彼女は先程から、なにか成功する度に自画自賛を繰り返している。
南城は、長年使われていなかった北上家の台所で、朝食を作っていた。炊飯器は電源が入らなかったので土鍋で米を炊き、包丁は錆びが酷く、素人にどうにか出来るレベルを越えていたので、仕方なく実家から持ち込んでいる。
南城の作った玉子焼きは、滝や他の家政婦が焼くようにはならなかった。やけに平べったいそれは、畳まれて圧縮された布団のようにも見える。
味噌汁だけは上手く出来たが、他に気を取られているうちに、時間は八時半をとうに回っていた。予定では、八時には朝食を摂っている筈だったのだが。
「北上、そろそろだぞ。そっちは?」
呼ばれて、北上は玄関から台所を覗いて返事をした。
北上は、玄関で荷物が届くのを待っている。北上家の呼び鈴がいつの間にか壊れていたことが分かり、スカスカした音では居間に居ても聞こえないため、彼は玄関で業者の到着を待つことにしたのだ。
「そういう修理って、業者呼ぶのか? 自分で?」
「交換した方が安い」
北上はそう言った後で、恐らく取り付けも自分で出来るのではないかと考えた。勿論、業者に頼むことが出来れば、それが一番安心で楽なのだが。
そもそも北上は呼び鈴の交換に緊急性を感じておらず、当分このままでも問題ないように思っている。元々置き配を依頼することが多く、出来ない場合は、こうして玄関で本でも読んで待てば良いのだ。
待っているのは、先日購入した洗濯機だった。配送業者からは前日の夜に配送時間の連絡があって、北上はそれに合わせて休みを取っている。有給に加えて、まだ消化出来ていない代休が三日残っていたのだ。
北上は勤怠管理や給与計算などを行っている事務員から目を付けられていて、週に一度は残業と有給、代休消化のアラートを貰っている。だがアラートを貰ったところで、直ぐに休みが取れるわけでもなければ、残業が無くなるわけでもない。
教師になって、早十年。こうして考えてみると、この仕事についてから、本当に疲れが取れたことなど無いように思う。実態を知らない人間からは、長期休みが複数あることを理由に働いていないような言い方をされることもあるが、休んでいるのは生徒だけ。教師は授業準備などで、普通に毎日出勤している。休めるものなら、休みたいのだが。
玄関扉のすりガラス越しに柔らかい陽の光を浴びながら、北上は手にしていた文庫本を床に落として、自分が微睡んでいたことを知る。以前は貴重な休みといえば、一日中寝るか呑むかの二択だったのだが、今は朝から陽を浴びて猫と戯れるようになった。
「あ! お焦げだ」
台所から聞こえてくる南城の上機嫌な声と、それに応えるように鳴く子猫。文庫本を拾って膝に戻しながら、北上は癒されている自分に気付いた。爺さんが死んでからは独りの思い出しかなかったこの家が、また心地よく感じられる日がくるとは――。
「北上。ちょっと、こっち! ミカンが」
慌てるような南城の声を不思議に思って北上が台所へ行くと、ミカンが南城の背中に爪を立ててへばりついていた。南城はミカンを落とすまいと、お辞儀をするような姿勢で身を屈めている。
「君は、もう食べた」
ミカンに言い聞かせながら、北上は南城の背中からミカンをヒョイと持ち上げる。ミカンの爪が引っかかって、捲れたシャツの裾からはチラリと肌が覗いた。
ミカンは台所のテーブルの上に並べられた鮭や玉子焼きを強請って、北上の腕の中から小さな手を伸ばしている。
「全く。野良の本能が残っているのか、主人に似たのか。中々の大喰らいだな」
姿勢を戻すと、左手でチョイチョイとミカンの顎下を撫でて、南城は笑った。身を屈めていたために癖の強い髪はボサッと乱れていたが、彼女は気にしていない。
それから南城は不意に玄関の方を見て「人だ」と言い、エプロンの前で手を拭きながらバタバタと台所を出て行く。
北上がミカンを抱いたまま後を追うと、開けっ放しの玄関扉の向こうには、業者らしき年配の男性と話している南城の姿があった。
「あ、ご主人。すみませんね、地図がね」
業者は北上を見つけると恥ずかしそうに頭を下げて、それから何処かへ走っていく。戻ってきた南城が言うには、彼は都内の道に不慣れで、少し先にトラックを停めて家の場所を確認しに来たのだという。
それから五分と経たずに、北上家の前にはトラックが停まった。助手席にも人が乗っているようだ。
「なんだ、二人居るよ。受け取りだけなら、お前が休むこともなかったかもな」
南城がそう言って直ぐ、助手席のドアが開いて、中からは老人がヨロヨロと姿を現した。二人の老人はトラックの荷台の方へ回って、後ろから商品を運び出そうとしている。
「……前言撤回。時代だな。いつか我らも行く道だよ」
南城は北上の腕から、ミカンを抱き上げた。老人二人には文字通り荷が重い仕事だと、南城は困惑する心を隠すように笑っている。仕事を受ける方も受ける方だが、任せる方もどうかしているのではないだろうか。
全くだと、北上も頷く。南城に抱かれてご機嫌なミカンの頭をワシャワシャと軽く撫でると、シャツの袖を捲り上げながら、北上はトラックへ歩み寄って行った。




