5-4 「病」(someone might call it family) ⑦
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二〇×二年 二月 二十五日 金曜日
清潔なリネンと見慣れない天井で目覚める、二度目の朝。
時計の針は、六時半を指している。
身支度を整えてアオイがリビングに向かうと、そこには向島ホマレの姿があった。ホマレはリビングの隅に置かれたアップライトピアノの前に居て、ピアノに掛けられたカバーに触れようとしているところだった。
ホマレはアオイと顔を合わせると、少しバツの悪そうな顔をする。アオイはそれを単にピアノに関する事だと考えたが、実際にはそれだけではなかった。
「おはよう! ごめんね~朝早くから。忘れ物しちゃってさあ。……あ、兄さんは、シャワー行ってる」
「うん。おはよう。……あの、私たち別に……」
「あ! うん! だよね。そうだよね。分かるよ。大丈夫! 兄さん、僕が着いた時、普通にゲームしてたし」
タカネは徹夜したのかとアオイが尋ねると、ホマレも信じられないといった様子で笑った。
「馬鹿だよね~。というか、兄さんらしくないというか……。意外と、そんなところもあるんだなって思った」
弱みを見つけたような気分だと笑って、ホマレはキッチンへ向かった。彼は、朝食を用意すると言う。
アオイが洗面所へ向かうと、風呂場からはシャワーの音に交じって音楽が聞こえていた。この家では、何処に居ても音楽が聞こえてくる。
アオイが顔を洗ってリビングに戻ると、同じタイミングでホマレがマグカップを二つ手にキッチンを飛び出してきた。朝食は皆が揃ってからにしようと言って、彼はアオイをテラスへ連れて行く。
ホマレの表情を見て、アオイは、彼には何か話したいことがあるのだと察した。
「僕さ、兄さんがお花を育ててるの、知らなかったんだよね」
「私も。向島が花言葉を言うなんて思わなかったから、昨日は少し驚いちゃった」
「花言葉? 兄さんが? あの仏頂面で言うの?」
ホマレは笑いながら、マグカップ片手に花々を見て回っている。
ミルクを多めに入れたカフェオレの香り。目に鮮やかなテラスを彩る草花。冬の凛とした冷たさと春の暖かさとが交じり合ったような、朝の匂い。その中に立つホマレの姿に、アオイはタカネの姿を重ねていた。
「お花でしょ。お魚にゲームでしょ。……それから、アオイちゃんに栄養つけさせるとか言って、急に料理しだしたりしてさ。意外と尽くすタイプだよね、アイツ。知らなかったな、僕」
ホマレはテラスの手すりに凭れて、遠くを見ている。少しの間を置いて彼はもう一度「知らなかったな」と呟いたが、その横顔は彼が真逆の言葉を抱いているように思わせた。
「アオイちゃん、知ってる? 僕ね、ピアノ……へったくそなんだ」
アオイと目が合うと、ホマレは歯を見せて笑った。彼は、自分の言葉が可笑しくて仕方がない様子だった。悪いと知っていて悪戯を楽しむ子どものような顔で、ホマレは話を続ける。
「うちの実家さ、ちょっと変なの。死んだ爺ちゃんが指揮者で、婆ちゃんが声楽の先生。でも父さんと母さんは、全然違う仕事してる。母さん、歌も楽器も全然ダメなんだよ。お勉強は得意なのにね」
母親は十年以上ピアノを習っていたそうだが、今ではスコアさえ碌に読めないと、ホマレは笑う。それから彼は、「自分もだ」と付け足した。
「爺さんも婆さんも古い人間でさ~。孫に音楽の才能がないのを、『母親のせい』とか言っちゃって。父さんのチェロだって、趣味レベルなのに」
ホマレはアハハと笑っているが、彼の言葉からは彼らの母親と子どもたちの置かれた立場の厳しさが伝わって来るようだった。
アオイは、向島が「暗譜が苦手で苦労した」と話していたことを思い出す。スコアを覚えるために何度も弾き続けている時、彼はなにを思っていたのだろう――? それを思うと、アオイには胸が痛かった。
才能という言葉に隠れがちだが、その裏には文字通り血の滲むような努力がある。それが本人の望んだものであれば良いが、本人の望まざる状況下で発生したものであれば、それは悲劇とも呼べるものだろう。例え華々しい結果を残していたとしても、それは同じことだ。
「タカネは爺ちゃんと婆ちゃんと暮らしてたから、全然会えなくてさ。コンクール結果とか、テレビで知るんだよ。『言わなくても分かるだろう』とか言って。あの糞ジジイ」
ホマレは悪態を吐きながら、眉間に皴を寄せている。
険しい顔をすると、ホマレの目元はタカネと瓜二つだ。それでも、二人の纏う雰囲気は全く異なっている。それは、兄弟が全く別の道を歩いてきたことを強く思わせた。
音楽に愛された兄と、愛されなかった弟。兄は家族への愛情から音楽の道を進んだが、彼が成功する度に家族との距離は開いていった。彼らの家族は沢山の愛に溢れていたが、誰もが不器用で、贈ることも受け取ることも満足に出来ないまま。
向島タカネは、祖父の死去と共にピアノから離れた。そんな彼の家に置かれた古いピアノは、彼が母親や弟への愛情も、祖父母への愛情も捨てきれていないことを示している。だが本人は、まだそれに気付いていない。
「意外とさ、良い奴なんだよ。普段は、暴君だけど」
アオイは微笑む。
「割と稼いでるみたいだし、真面目だし、結構マメ。あと、優しいし……」
知っていると、アオイも頷く。
ホマレはアオイと目を合わせて、それから直ぐに視線を逸らした。彼はプランターで機嫌よく風に揺れているガーベラを眺めながら、重苦しそうに口を開く。
「それでも……ダメ、なんだ? 兄さんじゃ」
ホマレの顔は、否定する言葉だけを欲して見えた。
アオイは無言のまま、一度だけ静かに頷いてホマレに答えを返す。
「そっか。……そっか。それじゃ、仕方ないね~」
アハハと、ホマレは声を上げて笑った。そうすることで、彼は場に満ちた空気と落ち込んだ自分の心とを切り替えようとしている。アオイの返答はホマレにとって存外に味気ないものだったが、彼はそれも一つの優しさであることに気付いていた。
一頻り笑って、冷めたカフェオレを飲み干して、それからホマレは空を見る。ビルの隙間に見える空は小さく、遠くあったが、それでも朝の清廉な空気を纏って輝いて見えた。
「……あーあ。きっと、スッゲーいい男なんだろうね。そいつ」
ワザと不貞腐れたような口調で、ホマレは言う。彼はアオイの心の中に、兄ではない別の男の存在があることに気付いている。
「そういや、兄さん遅すぎない? 何時まで風呂入ってんだよ~」
ホマレはアオイの返答を待たずに、タカネの様子を見に行くと告げてテラスを出て行く。
アオイはホマレの背中を見送って、それからマグカップを満たすクリーム色の液体を眺めた。なにも映さないその表面からは、薄く細い湯気が立ち昇っている。
それから程無くして、アオイの耳が聞き覚えのある音を捉えた。それはリビングの向こうの、ベッドルームから聞こえてきている。
アオイが急ぎ部屋に戻ると、仕事用のカバンの底から、その音は鳴り響いていた。電話の着信音。相手は、表示されていない。
アオイは期待も不安も込めて、スマートフォンを耳に当てる。電話の相手は、ワンテンポ遅れて発話した。相手は、佐渡だった。
佐渡はアオイに、「移動です」と告げる。それから彼は、天下井の名を口にした。
アオイは自分への処分が下ったことを悟り、「分かった」とだけ答える。彼女は深く尋ねなかったが、ここから先は独りなのだということも分かっていた。
通話を終えたスマートフォン。画面に映る女の顔に、迷いはなかった。




