2-1 予感 ②
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二〇×一年 十一月 十八日 木曜日
「よっしゃあ!」
拳を掲げて、坊主の少年――山田が喜びのあまり椅子から飛び上がった。
「ええ……」
自分が出した二本の指を眺めながら、赤毛の少年――東條ヒカルは落胆する。三回目まではアイコだった。四回目で、痺れを切らしたヒカルが先に手を変えて負けたのだ。
悔しいが、じゃんけんごときに文句は言えない。
「分かったよ。買い出し行くよ。で、ご注文は?」
「俺、コーラ!」
「お茶だったら、なんでも」
「ねえ、温かいのある?」
好き勝手に注文を始めるクラスメイトを手で制止して、ヒカルは一人一人の注文をスマートフォンでメモしていく。
自由気ままなクラスメイトの一部の注文は、学内のコンビニでは調達が難しそうに思えた。今は文化祭の準備期間で学外にも出ることが出来るが、飲み物の買い出しのために担任に許可を取りに行くのもバカバカしい。
「東條、お菓子も買ってきて。甘じょっぱいやつ!」
クラスの中でも目立つ女子のグループが、小腹が空いたと騒いでいる。
「いいけど、お菓子は皆が食べられるやつだよ」
ヒカルの返答が妙に母親のそれに似ていたので、クラスメイトが声をあげて笑った。
からかわれた様で、ヒカルは気恥ずかしさから視線を反らす。
「お菓子は、西園寺さんに選んで貰えよ」
山田の提案で、皆の視線がヒカルの隣に立つ少女に向けられた。
ここまで物静かにクラスを眺めて微笑んでいた少女は、西園寺アンズ。二週間ほど前に転校してきたばかりのアンズは、真面目で清楚な印象が壁を感じさせてしまうのか、一部の女子とはまだ打ち解けられていない様子だ。
しかしその反面、アンズは既に、男子からは密かに人気を集める存在になりつつあった。
「東條、西園寺さんに荷物持ちさせんなよー?」
サッカー部の高岡が、ヒカルをからかう。
「大丈夫でしょ。東條は、優しいし」
「俺らだって優しいんですけど?」
「どこが!」
ワイワイとはしゃぎ出すクラスを見て、クラス委員の長山が作業に戻ろうと提案した。
文化祭は二日後に迫っているというのに、看板や屋台など、必要なものはまだ用意できていない。
ただでさえ今年は先日の爆発事故の影響で日程が延期となっており、その関係で期間も二日間から一日に短縮されたりと変更が生じていて、どこのクラスもバタバタとしている。
準備をクラスメイトに任せて、ヒカルは買出しのためにアンズと教室を後にした。
「東條くん」
教室を離れて少し歩いたところで、ヒカルは不意にシャツの背中側を掴まれた。顔を向けると、ヒカルの目には自分を見上げるアンズの顔が映り込む。
「東條くん。置いていかないで」
「え、あ……ごめん」
いつの間にか早歩きしてしまったのかとヒカルは慌てたが、再び歩き始めて直ぐに、彼はアンズの歩が少し遅めなのだと気付いた。華奢で小柄なアンズは、歩幅も小さいように見える。
無意識に別の誰かと比べていることに気付いて、ヒカルは不思議な気持ちになった。思えば、幼馴染のリリカ以外の女の子とこうして歩くのは、あまり無いことだ。
暫く歩いたところで、アンズがようやく気付いた様子でシャツから手を離したので、ヒカルは安堵した。なんと声を掛ければ良いか、分かりかねていたのだ。
ヒカルが横目で見やると、アンズは顔を真っ赤にして俯きがちに隣をついてきていた。肩で切りそろえられた艶やかな黒髪が歩く度にサラサラと揺れて、時折その隙間から赤くなった耳が覗いている。
何か会話をしないと失礼だろうかと考えたが、ヒカルには話題が殆ど思いつかない。ただでさえ女子とは共通の話題が見当たらない上に、相手は転校してきたばかりだ。普段リリカと会話している時には、態々話題を考える必要はないのだが。
「えっと……西園寺さんは、もう慣れた?」
ようやく絞り出した質問は、余りに陳腐だ。
「うん。ありがとう。みんな優しいね」
ささやきにも似た、柔らかい声。アンズのそれは、よく通る快活なリリカの声とは、全く違う声質だ。
「ねえ、東條くん。東條くんは、生物部なの?」
思ってもいなかった質問を受けて、ヒカルは返答に困ってしまった。
ヒカルは手伝いという名目で生物教師の中林――ヒカルをハンターに変えた人物である――の元を頻繁に訪れているので、見ようによってはそうもとれるのかもしれない。
ヒカルは少し間を置いて、ただ手伝いをしているだけだと答えた。
アンズは、前の学校には生物部がなかったこと、生物部に興味があるといった話をしたが、それ以上の事をヒカルに尋ねはしなかった。
学内のコンビニは、空いていた。
二人が訪れたとき、そこでは二、三人の生徒が文房具の棚を眺めていた。
文化祭の準備に使えそうなガムテープやマジックペンなどは売り切れで、飲み物や菓子パンなどが棚から溢れそうなほどに過剰に陳列されている。
メモを見返しながら、ヒカルはクラスメイトから頼まれた飲み物をカゴに放り込んでいく。
コーラやペットボトルのお茶、珈琲飲料は直ぐに見つかったが、メーカーまで指定するような細かい注文は無視をする。そもそも学内のコンビニの品ぞろえは、皆も承知の通りだ。
「東條くん」
呼ばれて振り向くと、ヒカルの視線よりも下の方にアンズの姿があった。無意識に、ヒカルはリリカに合わせて視線を向けていたのだ。
「これ、どうかなあ。みんなで食べられるかなと思ったの」
アンズは、個包装のクッキーが入った袋を胸の前に抱えている。
ヒカルは商品を大して見なかったが、個包装ならとそれを受け取ってカゴに入れた。アンズが選んだといえば、あのクラスの男子は文句を言わないだろうと思ったのだ。
飲み物を選ぶ傍ら、ヒカルは沢山詰まった煎餅の袋を見つけて手に取った。
「おせんべいも買うの?」
「甘じょっぱいし、そこそこ食い出があるし。うちのクラス、結構食うよ」
「そうなんだ。東條くん、優しいね」
アンズは、ニコニコと笑っている。転校してきてからまだ二週間という短い期間ではあるが、彼女が笑顔でないところを誰も見たことがない。
いつも笑顔というキーワードで、ヒカルの脳裏には一人の男が浮かび上がった。姉のアオイに付き纏っている、淡路という男である。
淡路はアオイの部下にあたる人物だが、元は彼女の後を付け回していた危険人物だ。現在は心を入れ替えたようだが、アオイにどれだけぞんざいに扱われても、決して笑顔を崩さず楽し気に振舞っている奇特な男である。
ヒカルには、アンズの笑顔も淡路の笑顔も、嘘のようには思えなかった。そしてヒカルには、二人の笑顔にはそれぞれ別の意味が込められているように思えているのだ。
レジへ行くと、パートのおばちゃんが二人を気遣って、商品を小分けに袋へ詰めようとした。ヒカルはそれをやんわりと止めて、持ってきた大きな袋に素早く飲み物だけを詰めていく。
「はい。半分持ってね」
ヒカルがクッキーと煎餅の袋を渡すと、アンズがそれを両手で受け止める。
アンズが戸惑っている間に会計を済ませると、ヒカルはレジのおばちゃんに礼を言って店を出た。
「東條くん! 私も持つよ」
後ろから、アンズがパタパタと掛けてくる音がする。
「いいよ。重いから」
ヒカルにとってそれは、もう癖になっていた。リリカと買い物に行くときは、いつもそうなのだ。
アンズはオロオロした様子で後ろをついてきていたが、突然、何か思い立ったように小走りでヒカルのすぐ傍へやってきた。
「東條くん! ……きゃあっ!」
「――大丈夫?」
こけそうになったアンズを左腕で支えて、ヒカルは彼女の顔を覗き込む。突然走り出したと思ったら何もないところで転びそうになったので、一体どうしたのだろうと不思議に思ったのだ。
アンズは顔を真っ赤にして、ヒカルの左腕に抱き着くような形で寄りかかっている。口元はいつものように笑っているが、その目には恥ずかしさの余り涙が滲んでいた。
「あの、ね。やっぱり、私も持とうと思って。ごめんね、東條くん。……ありがとう」
普段よりも小さな声でそういうと、アンズはヒカルの腕をギュッと抱いた。それは緊張からくるもので、ほとんど無意識だった。
そしてこの時ヒカルは、この様子を隣のクラスの女子に目撃されていたことに気付いていなかった。




