5-3 「疑」、或いは「欺」 ⑩
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十七時半。
「珍しいな。一緒に帰ろうなんて」
南城の言葉に、北上は「うん」と頷いた。
仕事を終えた二人はコートを着込んで、白い息を吐きながら自宅へと向かっている。殆ど毎日のように北上の家で会っている二人だが、これまで職場から一緒に帰宅することはなかった。生徒の目が気になる訳ではないが、単に時間が合わなかったのだ。
今日は生徒が登校していないということもあって、北上は珍しく早い時間に仕事を終えていた。
「なんか、ずっと会議してなかったか? 北上って忙しいよな」
南城は、北上が主任の職に就いていることを度々忘れてしまう。南城にはその理由が分からなかったが、北上が変に偉ぶったりしないからではないかとも考えていた。
北上は歳が離れている割に、南城とはフラットに接している。南城はそれに気付くと、北上という男を不思議だとも、奇妙だとも思った。互いに武道に励む人間同士、上下関係には厳しい環境に身を置いているはずなのだが。
だがそうは言っても、南城は、今更北上に上下関係を持ち出されても、それに納得するような性格ではなかった。そして北上がそれに気付いていたかどうかは別として、彼もそんなことには興味がなかった。職場でも道場でもない場所で、先輩も後輩もないだろう。
「毎日、寒いな。……そうだ。お前、風呂の時は脱衣所へストーブを持って行けよ? 北上が死ぬとしたら、ヒートショックか急性アル中だから。あとは、過労」
南城は北上家の厳しい寒さを思い出して、彼を心配してそう言った。彼女は自宅から北上の家に運んだストーブのことを言っている。
北上は突然自分の死因を予想された訳だが、「うん」と頷いて、それから小さく笑った。北上には、南城の心配する気持ちが伝わったのだ。
「春って感じだ。昼は暑いのに、朝夕は寒い。その上、週末は雪だとさ」
雪の日は道場に出るのがツライと、南城は珍しく弱音を吐く。冬の道場の床は、まるで氷のように冷たい。
「大会は中止。卒業式はオンラインだっけ? ……学年末テストも中止かな」
南城が顧問を務める剣道部も、北上が顧問を務める空手部も、三月に控えていた大会の中止が決定している。インフルエンザの大流行に加え、謎の奇病が確認されたことも理由の一つだ。そして同じ理由で、白鷹高校の卒業式はオンラインのみで実施することとなった。
今、高校三年生を担当する教員たちは、卒業証書の郵送作業に関する打合せを行っている。白鷹学園にとって前代未聞とも云えるこの一連の対応には賛否あり、担任陣は最後まで対面での卒業式の決行を提案していたが、上層部の判断は彼らとは異なっていた。
「……今日、機嫌でも悪いのか?」
少し前から考えていたそれを、南城は思い切って北上に尋ねた。元々、北上は口数の少ない男だったが、それにしても今日は雰囲気が固い。それはいつも以上で、なにか言いたいことを我慢しているような印象だ。
北上は南城にそう問われて、口をグッと真一文字にした。問われれば、大抵の人間はなにかしら答えようとするものだ。だが北上は、自分の胸中を言葉に出来ないと悟って黙った。
北上が南城に尋ねたいことは、様々だった。南城の体調のこと。東條アオイやヒカルのこと。泉リリカのこと。南城の兄、ケイイチロウのこと。それに、昼間一緒にいた教師のこと――。
聞きたいことはあっても、北上にはそれらを言葉にする能力が絶望的に足りていなかった。一つ一つ言葉にすれば良いだけだということは分かっているのだが、心配する気持ちが急いて言葉を奪う。
言葉に出来ないから、しない。それは、北上の悪い癖だった。そしてそれは、南城には既にバレている。
「機嫌は、悪くないんだな。……まぁ、忙しそうだったもんな」
南城は横目で北上を見て、笑いを堪えた。北上の口は、貝のようだ。簡単には開きそうにないが、そこに日本酒でも近付ければパカッと開くのだろう。そんな想像をすると、南城にはそれが可笑しかった。
以前の南城ならば、こういう時は「言いたいことがあるならハッキリ言え」と一喝している場面だ。そうはならなかったのは、短いながらも、ミカンという子猫を通して二人の関係が変わったからに他ならない。
北上は「黙る」という行動に逃げてしまった自分に気付くと、それを恥じた。
「南城。体調」
一つ一つ、言葉に出来るものから尋ねようと決意して、北上はまず南城の体調について触れた。彼は彼女を気遣ったつもりだったが、実際には単語を発しただけだった。
「……そうだな。正直言うと、朝はよくなかった。休もうと思ったんだけど、少し楽になったから。インフルじゃない……と思うけど、明日も悪かったら休んで病院行くよ」
ありがとうと、南城は言う。
北上は安心して、「うん」と頷いた。
南城は北上の様子から他にも尋ねたいことがあるのだろうと察して、無言で彼の言葉を待った。
二人の視界には、既に南城家の門が見え始めている。南城はミカンに会いたかったが、今日は体調のことを考えてこのままに家に戻ると北上に告げた。
北上は残りの時間が少ないのだと理解すると、焦って余計に言葉を無くした。東條姉弟の話を出せる雰囲気ではないし、ケイイチロウの話などもっと難しい。全く別の、なんてことはない世間話をして別れる選択肢もあったが、北上には難易度が高すぎた。
「昼間……傍に居た……」
ポツリと呟いて、北上は自分に驚いた。何を言い出したのか、自分でも分かっていない。
南城は少し考えて、それは上川かと尋ねた。上川は、東條ヒカルの担任だ。
北上は、首を横に振る。
南城は職員室の光景を思い出して、それから数人の名を挙げた。それは学年主任だったり、同じ体育科の若手だったり、結婚したばかりの女性教員の名で、北上はその全てに首を横に振った。
そうこうしているうちに二人は南城家の前に着き、どちらからとなく足を止めて向き合う。
「川野さんでもないなら……じゃあ、皆藤じゃないか? ほら、髪がここまであって、ナヨッとした」
南城は北上の方を向きながら、自分の肩の辺りを指した。北上が頷くのを見て、南城はさらに質問を続ける。
「それで? 皆藤が、どうかしたのか?」
その質問に、中身はあってないようなものだった。南城は皆藤に興味がないし、彼について尋ねられても答えられる事がない。
北上はまた無言になって、南城を見ている。
門の前に立つ二人の間に、冷たい風が通り抜けていく。
「……仲が良い。……一年の担任は」
そう言って、北上はまた黙る。
南城は北上がなにを言いたいのか分からず、首を傾げた。北上の言葉が足りないのはいつものことだったが、彼が何を伝えたいのか全く分からない状況は、南城にとって久しぶりの事だ。
(なにか揉めているような話は聞かんが……)
南城は、黙り込む北上の顔をまじまじと眺める。今日は会議ばかりだったことを思うと、北上もなにか問題に巻き込まれているのかもしれない。そう考えると、南城には北上が不憫に思えた。他人に愚痴るような性格でもないが、だからこそストレスが溜まるのだろう。
「……私は、ミカンを抱っこすると落ち着くんだよ。ぎゅってすると、柔らかくて、温かくて。太陽みたいな匂いもするし。あとは、風呂だ。温かいのがいいのかもしれんな」
そう言ってから、南城は、ストレス解消の方法だと付け足した。まるで北上のようだと、南城は言葉足らずの自分を笑う。
「……あ! 分かってると思うが、酒は……」
不意に北上のコートが視界一杯に広がって、南城は言葉を呑んだ。北上は南城の方へ大きく一歩踏み出して、二人の影は一つになっている。北上がコートの下に着ている黒のスリーピースは、南城の視界を夜より暗くして見えた。
目の前に立つ大きな壁のような男の顔を見ようとして南城が見上げると、目を合わせる前に北上の体は彼女から離れていく。
「ヨロケタ」
「……ああ。うん。大丈夫か?」
「オヤスミ」
「うん……。お休み。気をつけてな」
北上は軽く頭を下げて、彼の家に向かってスタスタと歩いていく。南城は、やけに速足の北上が曲がり角で見えなくなるまで見送って、それから自宅の玄関へ向かった。
(驚いた。……なにか、されるのかと……)
そんなことがある筈もないと、南城は直ぐに自分の考えを打ち消した。北上はそんな男ではないし、自分もそんな女ではないのだ、と。そしてなにより、自分には、自宅に戻れば向き合わなくてはならない問題があるのだ。
南城は溜息を漏らして、玄関の引き戸に手を掛けた。彼女の顔には、もう北上と話している時のような笑顔はなかった。
同じ頃。南城家と同じ町内にある自宅へ、北上は競歩の選手のようなスピードで向かっていた。彼は自分が間違いを犯しそうになった自覚があり、その罪の意識から逃げようとしている。
(南城は、ミカンじゃない)
北上は、南城を腕に抱こうとした自分にも、それを踏みとどまれたことにも驚いていた。それは理性が勝ったというよりも、単に度胸が無かったというだけなのかもしれないが。
(路上だ。家の前。学校からも離れていない)
北上は、冷静になるように自分に言い聞かせるフリをしながら、その実は行動しなかったことを正当化しようとしている。
仮に、あの時自分を抑えることが出来なかったとしたら、今頃どうなっていたのか――。
危険人物。その単語が脳裏に浮かんで、北上は思わず、頭の中で自分自身を殴りつけていた。今の二人の関係は、信頼により成り立っている。信頼を失うようなことはあってはならないし、なにより、相手を傷つけることは許されない。
(いっその事、常に竹刀を持ち歩いてくれた方がありがたい)
そんな馬鹿なことを考えて、北上はまた自分に嫌気がさした。自分が心を強く保てば、南城が武装する必要などないのだ。
溜息交じりに、北上は玄関の引き戸を開いた。中から飛び出してきたサビ猫が、彼の帰宅を全力で喜んでいる。
子猫を腕に抱いてその温かさを感じながら、北上はふと、子猫の足が濡れていることに気付いた。初めは洗面所や台所で水でも舐めていたのだろうかと考えたが、子猫の前足からはトマトのような匂いがする。
嫌な予感がして、北上は玉砂利の暖簾の隙間からそっと台所の中を覗き込んだ。
何かを察したように、ミカンは北上の腕から飛び出して走り去っていく。
「……やられた……」
北上の視線の先には、開け放たれた冷蔵庫の扉と、台所の床に飛び散るケチャップ。倒れて中身の零れた牛乳パックに、転がっているメンマの入った瓶。
疲れと眩暈を覚えて、北上は目元を手で覆った。




