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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
TO BE (前編)

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314/408

5-3 「疑」、或いは「欺」 ⑤

 *

 


 リビングから繋がるインナーテラスの隅にしゃがみ込んで、アオイは花を眺めていた。開いたままのガラス戸からは、室内に流れる音楽が漏れている。それは古い映画のテーマソングに、ジャズアレンジを加えたものだ。


 目の前のガーベラをツンと指でついて、アオイは溜息を漏らした。ガーベラはこの季節にはまだ早いように思えたが、まるで待ちきれないとばかりに鮮やかな大輪の花を咲かせている。


「ガーベラの花言葉は、『希望』だ」


 後ろから向島の声がして、アオイは思わず肩を竦めた。


「こんな所に隠れていたのか。暖かくしているように言っただろう?」


 後ろから肩に上着を掛けられ、アオイはそのまま室内のソファへ誘導されていく。


 ソファの上には、モコモコした素材のブランケットやクッション、本などが半円を描くように配置されていた。その中心には、少し前までアオイが居た跡がある。アオイはそれを、まるで鳥の巣の様だと思った。


 再び鳥の巣に戻されて、アオイは諦めたようにブランケットに包まる。先程、アオイは向島が温かい飲み物の準備をしに行っている間に、巣から逃げ出していた。目を覚ましてからというもの、向島はなにかと理由をつけてアオイの傍を離れない。


 向島は純粋にアオイを心配する思いから、彼女の世話を焼いていた。彼は第二東京タワーで佐渡に気絶させられた後、病院へ運ばれている。その後、目を覚まして直ぐに現場へ戻ろうとしたものの、佐渡の息のかかった病院スタッフによって足止めされ続けていたのだ。


 なにも情報が得られぬまま向島はアオイの身を案じ続け、その間に彼は幾度も不吉な予感や耐えがたい妄想に襲われた。


 やがて、ようやく向島が自由を得た後。病室のベッドに横たわるアオイの姿を見た時、彼は足元から世界が崩れていくような感覚に囚われた。まるで、あってはならないものを目にしたように、向島は酷く取り乱した。


 そんな彼にしてみれば、たった一日足らずで退院し、口数少なく、どこか憂鬱な表情を見せるアオイの事が心配で堪らないのだ。


 向島はアオイが席に戻ったことを確認すると、彼女のもとにティーセットを運んできた。それは優雅な曲線をして、カップとソーサーを縁取る紅いラインとゴールドの金彩模様が高貴な印象を湛えている。アオイはそれを、向島らしくない色だと思った。


 向島は手慣れた様子で、茶葉をポットにセットしている。彼はアオイの視線に気付くと、「残念ながらジャムはないぞ」と冗談を言った。


「向こうでは入れるんだっけ?」


 アオイは、向島がロシアに留学していた時のことを尋ねている。


「入れるというより、『添える』だな。菓子だのを山ほど用意して、濃い目の紅茶をチビチビ呑んでいたよ」


 向島は直ぐに、自分は違うと付け足した。彼は、紅茶はストレートで楽しむタイプなのだ、と。


「向島は、そんなに好きじゃないものね。甘いもの」


 何気なく口にしたその言葉で、アオイは胸を突かれたように思った。無意識のうちに向島と比べていた人物が、目の裏では穏やかな笑みを見せている。それはアオイから言葉を奪って、彼女を残酷な現実に直面させていた。


 向島はアオイの表情が一瞬で青ざめたことに気付いたが、その理由を尋ねることはしなかった。お互いにそれを望んでいないことにも、彼は気付いていたからだ。


 暫くの間、二人は同じ無言の時を共有していた。それが悲しいものにも寂しいものにもならなかったのは、互いに寄り添う気持ちを感じていたからだろう。二人には、友人として積み上げてきた大切な時間があった。


「さあ。熱いぞ。口にあうといいが」


 向島は笑顔でティーカップを差し出して、アオイも同じように笑顔を見せる。カップは琥珀色の液体で満たされていて、それはマスカットのような爽やかな香りを漂わせていた。


 綺麗ねと、アオイは呟く。彼女は、紅茶の色を眺めている。


 好きな色だと、向島は答えた。彼はアオイの横顔を見つめながら、彼女の赤い髪を思い出している。


「東條。俺は――」


 突然、向島の言葉を遮って、インターホンが鳴った。それは何処の家にでもある無機質な音ではなく、妙に明るいメロディ音だ。モダンな部屋のインテリアには不似合いなそれは、少しの間を置いてもう一度鳴った。


 向島の表情は、それが予期せぬ来訪であることを告げている。彼は溜息交じりに立ち上がると、リビングのドアの方まで歩いて行き、インターフォンの画面に目をやった。


「……ホマレ?」


 怪訝そうなその声には、アオイが反応する。彼女はソファを抜け出すと、向島の傍へ駆け寄った。


 インターフォンの画面には、向島と同じ顔をした男――向島ホマレが笑顔で手を振る様子が映っている。彼は、向島タカネの双子の弟だ。 


 アオイは向島に、出なくてよいのかと尋ねる。


 向島は迷う素振もなく、インターフォンを切ってホマレを無視した。だがそれを見越していたかのように、再び呼び出し音が鳴る。画面の向こうでは、先程よりカメラに近づいたホマレが「開けて」と口を動かしていた。


 向島がインターフォンの電源を切ろうとすると、今度は外からドアを叩く音がする。


「出た方がいいんじゃない? ご近所迷惑になるし……」


「ああ。すまないが、ソファで待っていてくれないか」


 向島はアオイの手前、辛うじて笑顔を保っている。だが彼の内面は、弟への怒りで荒れていた。そもそも住所を――渋々――教えてあるとはいえ、何故鍵を持たない彼が此処へやってこれたのだろうか。


 アオイは向島が玄関へ出て行く背中を見送って、ソファに戻った。ホマレのことは気になったが、今の自分を見られてはいけないという思いもある。向島にすら、まだ自分のことを説明できていないのだ。


(一体なにから……どう説明したら……)


 そうしてアオイがティーカップに口をつけた時、リビングのドアが勢いよく開いた。


「あーっ! やっぱり、アオイちゃん来てたんだー!」


 ドアから飛び出してきたのは、ホマレだ。彼はまだコートも手袋もつけたままで、両手に袋を抱えている。


 ホマレの後を追って、直ぐに向島も姿を見せた。彼はもう、怒りを隠していない。彼はチェーンロックを掛けた状態ではドアの隙間からホマレの姿が確認できず、うっかりロックを外してしまったのだ。ホマレは、その隙をついて素早く室内に侵入したのだった。


「そうなんじゃないかな~って思ったんだよねぇ。だって、兄さんが僕に『レシピを教えろ』なんて言うからさぁ。あ、今日寒いねぇ。それ、紅茶? 一口ちょーだい♪」


 突然のことに戸惑うアオイの様子を物ともせず、ホマレはズカズカと近付いてアオイの隣に腰を下ろした。床に置かれた荷物からは、ジャガイモや人参などの野菜が見えている。


 ホマレがアオイの手からティーカップをサッと取るのを見て、向島が慌てて彼を後ろから羽交い絞めにした。


「たとえ冗談でも、人から物を強請るな。みっともない! 東條から離れろ! さっさと帰れ!」


「えー! ヤダよー。来たばっかなのにさぁ。あれ? このカップ、兄さんにしてはカワイイね。おお? なるほど、なるほど。これ、アオイちゃんカラーじゃ~ん」


 ホマレは紅茶には口を付けず、カップを見てニヤニヤしている。


 アオイは向島が顔を赤くしているのを見て、同じように顔を赤らめた。


「いいから、もう帰れ! 大体、どうやって入ったんだ!」


「どうやってって……そんなの、ムスーッとした顔で兄さんのフリしたら一発だったよ?」


「そんな訳ないだろう! それに、俺はそんな顔じゃない」


「だって入れたんだよ~。双子ってこういう時、便利だね。あ、兄さんも僕の店でやっていいよ。たまには接客代わってよ~」


 腕にしがみ付くホマレに呆れた目を向けて、向島は「甘ったれるな」と一喝する。


「兄さんたら、冷たいよ~。世の中がこんな大変な事になっちゃって、買い物だって行けないだろうしって思って、特急で行ってきてあげたのに」


 ホマレは大げさに嘆いてみせて、それからソファに深く体を預けて脚を組んだ。


 向島は弟が長居しようとしていることに気付いて、眉を潜める。


 アオイは目の前で起きている出来事に呆気に取られて、今は姿を隠すことも忘れていた。それ以上に彼女は、ホマレの言葉が気になっている。


 ホマレはそんな二人の様子を見て、自分の言葉の意味が正しく伝わっていないことに気付いた。


「もしかして二人とも、まだニュースみてないの?」


 ニュースという単語を耳にして、アオイと向島は第二東京タワーやアナザーのことを思い浮かべる。だがホマレが言っているそれは、その二つのことではなかった。


「えぇえ? ほんとに? ニュース観てよ、ニュース! さっきから大変なことになってるんだから。……兄さんの家、テレビ無いの?」


「そんなものはない」


「テレビ観ないの? 映画は?」


「映画はプロジェクターがある。ニュースはネット。PCがあれば不要だ」


「うわぁ……めんどくさい男だ……」


 ボソッと呟くホマレを横目で睨んで、向島はソファの前のローテーブルにノートパソコンを運んできた。


 驚異の新型ウイルス―――ニュースサイトのトップページには、同じ文言ばかりが並んでいる。国内で猛威を振るっているインフルエンザとは別に、新たな病が発生したというのだ。


 ホマレに急かされて、向島は並んでいるトピックスからニュース動画を選択する。画面に現れた若い男性のキャスターは、困惑を隠しきれないような緊張した面持ちでニュース原稿を読み始めた。それは、とても信じられないような奇病を伝えるものだった。 

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