5-3 「疑」、或いは「欺」 ③
*
同日。九時半。
南城家。
ベッドで横になって、南城サクラは過去の闘いを思い出していた。
水を操る女。コアトリクエ。そして、兄の南城ケイイチロウ――。
彼らは皆、強力な核の力に呑まれ、最後は人の姿を失って死んでいった。
(私には、あとどれだけ時間が残されているのだろう……)
ボンヤリと見つめた掌は、電気を点けていないためか、薄黒く見えている。
強くなるためには、核を取り込まなくてはならない。だが核を取り込むことで、人ならざる者へ近付いていく。狩らなければ狩られる以上、南城には闘う以外の道は考えられなかった。しかし今初めて、彼女は別の考えに囚われている。
何も知らず死んでいれば、苦しむことなど無かったのではないか。
死に抗うことで、結果として自ら屈辱的な死へ向かっているのではないだろうか。
そう思う度、南城は斬り捨ててきた者を思い浮かべて胸を痛めた。こんな考えは、敗者をも愚弄している。
体の内側に嫌な予感を覚えて、南城は胸を強く押さえた。昨日から、時折、発作性の咳が止まらなくなることがある。南城は咳をする度に体が内側から裂かれるような痛みを覚え、彼女はそれを体験する度、死が迫っていることを実感するのだった。
現実に死がそこにあるという恐怖から、南城は仕事を休んだ。体調が戻らず、体がいうことを利かないということもある。インフルエンザの大流行のために授業はオンラインに切り替えられていて、彼女の担当している体育の授業は全て振替済み。罪悪感は少ない。
ふと、南城は思い立って、机に置かれていたスマートフォンに手を伸ばした。彼女は東條アオイにチャットを送っていたのだが、返信はまだない。それどころか、まだ既読にすらなっていない。
画面に表示されている「東條アオイ」の文字を穴が開くほど見つめるうち、南城は東條ヒカルの担任に確認することを思いついた。
ヒカルの安否確認が出来ているということは、その保護者である姉のアオイと連絡が取れたということだ。直接会うことが叶わなくとも、先ずはアオイの無事が確認できれば、それだけで心は楽になる。
いつものジャージに着替えて部屋を出ると、南城は全身の毛が逆立つような寒気を覚えて振り向いた。そこには、兄の南城ケイイチロウが立っていた。
兄のケイイチロウは、第二東京タワーで刃を交えた時と同じ花魁を思わせる姿だ。目元は見えず、彼の口元は微笑んでいるが、端からは血が流れている。
ケイイチロウはゆらりと手を動かすと、不気味な程に白い指で窓の外を指した。それは、彼の部屋のある辺りを指しているように見えた。
息を呑み、南城が瞬きすると、ケイイチロウは消えていた。全ては、幻だったのだ。
呼吸を整えようと息を深く吸い込んで、南城は咳に襲われた。彼女が喉も耳も壊れてしまいそうな程に激しく咳き込んでいると、それを聞きつけた家政婦の滝が即座に彼女に駆け寄った。
「お嬢様! どうなさいました? お嬢様!」
血相を変えて、滝は南城の身体を抱くように背中を擦っている。
南城は滝を心配させまいとしたが、声を出すどころか顔を上げることすら出来ず膝を着いてしまった。
「……もう大丈夫だ。滝」
「お嬢様。やはり、お医者様を……」
滝を手で制して、南城は立ち上がった。彼女は、医者にかかっても無意味なことを理解している。
(余程、恨みが深いと見える。日も高いうちから、化けて出るとは……)
心の中で呟いて、南城は滝を宥めながら玄関へ向かった。彼女の目の裏には、兄の姿が焼きついている。
滝は南城の後を小走りに追いかけて、彼女の顔に不安そうな視線を投げていた。そこにあるのは、南城への思いだけではない。滝を初め、南城家の使用人達は皆、数日前から家に戻らないケイイチロウの身を案じている。
南城家に何かが起きていることは、皆、気付いていた。ただ誰も、それを口にしないだけだ。
南城は滝の表情には気付かず、仕事に行くとだけ告げて家を出た。滝は門の外まで出て南城の姿が小さくなるまで見送っていたが、彼女はそれにも気付くことはなかった。
*
気付くと、南城の姿は学校にあった。彼女は自宅から職場までの約十五分を、どのように歩いてきたか全く覚えていない。アオイを心配する気持ちと、幻に見た兄のことで頭の中は一杯だ。
南城が職員室に向かって歩いていると、彼女は見覚えのある顔に呼び止められた。真ん丸フレームの伊達メガネを掛けたその男――英語教師の皆藤は、左手の渡り廊下の先から南城のもとへ駆け寄ってくる。
「ストップ! ストップ! 職員室、ですよね?」
「おはようございます。……行きます」
「いやいや、ちょっと聞いてくださいよ~!」
「うちの生徒ですか? 剣道部? 違うなら、後でもいいですよね。急ぐので」
南城は皆藤から目を背けたが、彼は彼女の前に回り込んで再び視界に入り込んできた。
「職員室、今、ヤ~バイ! すっごい事、起きてますよ。ヤバヤバ!」
ヤバいのはお前の語彙力だろ――南城は思わず口にし掛けたが、それは唯の悪口でしかないことに気付いたので堪えた。学校に居る以上、自分は教師であって、生徒の模範となるべき存在なのだ。
南城は気持ちを落ち着けるために、目を閉じて息を深く吐き出す。
その間に皆藤は南城の隣にピタリと付くと、声を潜めて話を始めた。
「中林ジージ、行方不明らしいっす」
「……生物の?」
「そう! あの日以来、連絡取れてないらしいですよ。覚えてます? あれ……ambulanceって、日本語だとなんでしたっけ?」
南城は、皆藤を無視した。彼女は中林が救急車で運ばれた日のことを思い出すと、直ぐに東條ヒカルについても思い出すことがあった。あの日、救急車を呼んだのは他ならぬヒカルなのだ。
(そういえば、東條は中林の手伝いをしていたことがあったな……)
南城は、ヒカルが生物準備室に出入りする姿を見たことがあった。その時は深く考えなかったが、今にして思えば、中林は生徒に一体何を手伝わせていたのだろうか。
ふと視界の隅で動く目障りな塊に気付いて、南城は顔を向ける。
「救急車、ですよ? せ・ん・せ」
ニコッと笑って、皆藤は肩まである豊かなウェーブヘアをかき上げた。
「……今、竹刀を持っていなくて良かった」
笑顔を返すと、南城は職員室に向かって歩き出す。
(救急車を呼ぶ羽目になるところだった)
追いかけてくる皆藤に苛立ちを募らせながら、南城は眉間に皴を寄せている。
その二人の奇妙な追いかけっこを、遠くから見ている者がいた。北上だ。
北上は数学科準備室からの帰り道で、彼も職員室へ向かっていた。その最中に能天気な男の声が耳に入り、目を向けた先で南城と男が何やら話している様子が視界に入ったのである。
南城と皆藤の姿がすっかり見えなくなってから、まるで思い出したように、北上は職員室へ向かって歩き始めた。




