5-2 you’re my home ⑥
*
ポタリポタリと、何処からか水の滴る音。木枠で支えられた天井には幾本もコードが走り、所々に古びた電灯が吊るされている。
僅かに湿った岩壁に右手を添えながら、ヒカルは薄暗い洞窟の中を進んでいた。歩き始めて既に三十分が過ぎていたが、道は何処までも続いている。
リリカはヒカルに負ぶわれたまま、目だけを動かして代わり映えしない洞窟の壁を眺めていた。彼女は時々目を閉じて、その度に短い夢を見る。リリカは、もう寒さや暑さ、痛みや不安を感じることは無かった。ただひたすらに、眠いだけだ。
ヒカルはリリカの変化には気付いていなかったが、彼女が静かなことを怖いと感じていた。一刻も早く暗闇を抜けたい思いと、リリカの表情を確認するのが怖いような気持ちとで、ヒカルの頭は冷静さを欠いている。
それからさらに十五分は歩いたところで、二人は分かれ道の前に出た。辺りの天井は急に高くなり、分かれ道の双方から風が吹いてきている。
ヒカルはリリカを背負い直して、少し考えてから左の道へ進んだ。左を選んだ明確な理由などなかった。だがヒカルには、どちらの道を選んでも同じ場所に行きつくような、どちらも正解であるような予感がある。
選んだ道を進んでいくうち、とある地点を過ぎたところで、ヒカルは急に辺りの空気が変わったのを感じ取った。臭いや、空気の冷たさ。触れている壁や靴底に返ってくる地面の様子が、明らかに先程までとは異なる。
その変化は、歩き続けるうちにより顕著になった。凸凹していた岩壁は平らになり、ゴツゴツやジャリジャリという足音がコツコツに変わる。壁も地面も、整備されているのだ。
やがて二人の前には、古びた鉄の扉が姿を現した。それは左右ではなく上下に開くもので、近付くなり静かに、滑らかに動いて二人を中へと迎え入れる。センサーは、まだ生きている。
扉の先は、エレベーターだった。
外観と異なり、エレベーターの内部は真新しく清潔だった。まるで作られたばかりのように、汚れ一つない。階数表示の上には製造元や製造年月日が記されたプレートが貼り付けられていたが、製造元は聞いたこともない企業で、何十年も昔の日付が刻まれていた。
その製造年月日を見て、ヒカルはそれがどんな時代かを考える。記憶が正しければ、教科書にあった先の大戦の頃だ。それが本当だとしたら、相当な骨董品が動いているということになるのだが。
上がっているのか、下がっているのか分からぬまま、あっと言う間に二人は別の階へ運ばれていく。そうして数秒で到着し、踏み出した扉の先には、コンクリートで整備された広い通路があった。これまでと異なり、通路は隅々まで電灯で照らされている。
通路はまるで、病院を思わせた。壁や床には目的地ごとに色分けされたラインが引かれ、歩行を支えるための手すりが彼方此方に付けられている。
朝のように明るい通路を歩きながら、ヒカルは不思議と懐かしい気持ちになっていた。理由は分からない。ただ、壁に描かれた案内表示や番号を見る度に、頭の奥や目の裏や耳に、誰か何かの影がチラつくのだ。
ヒカルが意識を集中しても、それらはノイズがかっていて、断片すら掴むことが出来ない。浮かび上がる映像や、蘇る声。その全てに、別の誰か何かの映像や声が重なっているようなのだ。それはまるで、ヒカルを邪魔するようでも、彼を守るようでもあった。
(第一訓練室……)
突き当りの壁に書かれたその文字を、ヒカルは心の中で読み上げた。それは何故か怖いものに思えたので、ヒカルは引き返して別の道を行く。
処置室、閲覧室、保管室――様々な案内表記を読み上げながら、ヒカルは施設の奥へと進んで行った。その中で彼は、「ガーデン」と書かれた表記の前で立ち止まる。その響きは、これまでのどれよりも彼を強く捉えていた。
「……そうだ、先生のお花……水を上げなきゃ」
ヒカルは、自分が口にした言葉の意味を理解していない。
操られるようにフラフラと、ヒカルはガーデンに向かって歩き始めた。途中、壁に落書きをする子どもや、クマのぬいぐるみの手を掴んで走り回る子どもの姿を見つけて、ヒカルは微笑む。
だが、それらは全て幻だった。
現実には一つの落書きもなく、ぬいぐるみを手にした子どもの姿もない。ヒカルが見ているようなものが、リリカの目に映ることはない。しかし、彼らが互いのそれに気付くこともなかった。
幻の子どもたちは皆、足先まで届く白いワンピースの裾を揺らしながら、ヒカルを導くように現れては消え、また現れては消えていく。彼らは振り向く度に人懐こい笑顔をヒカルに向けて、それから時々、小さく手を振った。
何処かで見たような子どもたち。彼らに笑顔で応えながら、ヒカルはどんどん施設の奥へと進んでいく。
そうして何時しか、ヒカルの体は温室の中にあった。遥かに高い天井には青空が投影され、辺りには熱帯のような木々が茂っている。あちこちに清らかな水が流れて、温室の中は華やかな香りに包まれていた。
温室の中程まで足を踏み入れて、ヒカルは前方に見覚えのある人物を見つける。それは確かに、中林だった。
青年姿の中林はロッキングチェアに身を預けて、ティーカップ片手に読書を楽しんでいる。彼はヒカルの来訪には気付いているようだったが、キリの良いところまで読み進めてしまいたいのか、本から顔を上げようとしない。
タワーは崩壊したはずだが、中林はそこからどうやって脱出し、此処へやってきたのか。アオイは、あの後どうなったのか。なぜ、リリカを巻き込んだのか――。尋ねたいことは幾らでもあったが、それらは一つもヒカルの口からは発話されなかった。
今、ヒカルの唇は、怒りのために震えている。
「遅かったな。……無理もない。道など忘れてしまったろうね」
中林の声は、罪悪感や後ろめたさのようなものを感じさせなかった。彼にとって今この瞬間は、普段と変わらぬ日常の一時に過ぎないのだ。
「おかえり。可愛い息子よ」
顔を上げると、中林は愛情を込めてヒカルに微笑みかけた。
「……ただいま。お父さん」
今すぐにでも力任せに全て壊してしまいそうな怒りを必死に抑え込みながら、ヒカルは皮肉をタップリ込めてそう答える。
その言葉がなによりも中林を喜ばせたことに、ヒカルは気付いていないのだった。
月・水・金の21時に更新中




