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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
TO BE (前編)

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306/408

5-2 you’re my home ④

 *



 バスタブを満たす泡を腕で引き寄せるようにして、アオイは肩に湯をかけた。湯船に浸からないようにラフに括った髪は、ゴムが緩すぎたのか崩れそうになっている。


 アオイの視線は、右に左にと定まらない。背中では、焼けるほどの人の熱を感じている。体にはタオルを巻きつけていたが、それは余りにも心許なく感じられていた。


 アオイの後ろには淡路の姿があって、彼はバスタブの縁に頭を乗せ、天井を見上げるような格好で目元にタオルを乗せている。大柄な淡路と比較的背の高いアオイとが一緒では、湯舟は狭く感じられた。


 どうしても一緒に風呂に入りたい淡路と、どうしても体を見られたくないアオイ。二人の主張はどこまでも平行線を辿ると思われたが、やがて彼らは仕方なく、淡路が目隠しすることで合意したのだ。


 二人は特に会話もなく、浴室には僅かな水音だけが響いていた。時折、どちらとなく息を漏らすと、それは水に溶けるような柔らかな音に変わる。


 アオイは浴室の壁や天井や床のタイルを眺めながら、時間が過ぎるのを待っている。淡路はタオルを持ち上げた隙間から、そんな彼女の後姿を眺めていた。


 程無くして、耐え切れなくなったアオイが先に風呂を出ようとする。しかし立ち上がろうとした所で淡路の腕に捕まって、今度は横向きに体を抱えられてしまった。アオイは淡路の肩に顔を寄せて、その視線は彼の首元に向けられている。


 諦めて体を預け、息を吐き出す。すると途端に体からは力が抜け、温かい湯の中に溶けていくような心地よさがあった。アオイは自由の利く右手で、湯を淡路の胸元や肩にかけてやる。


 淡路の体は、何処にでも傷があった。それはアオイの爪程の小さなものや、掌大の大きさのもの、まだ真新しいものと様々で、中には本人にすら記憶にない古いものもあった。それらに触れる度、アオイは彼の過去に触れたように思うのだ。


 過去に触れる度、アオイはこれからの未来についても思った。アオイが思い描いたものは、全て他愛のない陳腐で面白味のないものばかりだったが、彼女にとってそれらは星の様に遠く、キラキラと瞬いて見えている。


 胸に手を当てて、それからその手を滑らすようにアオイは腹を撫でた。今、彼女の内側には喪失感があって、同時に全く性質の異なる別の感覚にも満たされている。アオイはそれを、「与えた」のだと感じていた。


 アオイが呼びかけると、淡路は顔にタオルを乗せたまま返事した。彼女が「変な質問をしても良いか」と尋ねると、彼は目元を見せないまま笑って「構わない」と答える。


「例えば……もしもの話なんだけど」


 アオイは時間をかけてその先の言葉を選んだが、彼女の求めている表現は何処にも見つかりそうになかった。やがて、アオイは諦めて口を開く。


「もし、地球よりも、太陽よりも生きられるとしたら……」


 そこまで言って、アオイは子供染みた自分の言葉を恥ずかしく思い口を噤んだ。そっと視線を上げると、淡路の口元は笑っている。しかし彼は、アオイの言葉を馬鹿にしている訳ではなかった。


「それだけの時間があるなら、願ったりだ」


 それから淡路は、自分には知りたいことも見たいことも沢山あるのだと付け足した。それは、とても人の一生では足りないくらいなのだと。


 アオイが「それはどんなことなのか」と尋ねると、淡路は異国にある遺跡や、海底火山や、砂漠に咲く花のこと、特定海域にのみ存在する鉱物の話をした。それから彼は地理や歴史、生物や科学、物理や気象の話を次々と口にする。


「……それから、メキシコのブルーホールに、与那国の海底遺跡でしょう。あとは」


「海ばっかり」


「じゃあ、ベトナムのソンドン洞窟。全長七、八キロはあったかな。高さも二○○メートルはあって、中にはジャングルが。地底の川なんて、ワクワクしませんか? 地底湖でケイビングなんてどうです?」


「なんだっけ? そういう小説。タイトル忘れちゃった」


「ヴェルヌの『地底旅行』ですね。火口から地球の中心へ降りていく話。地底の海に舟で漕ぎ出したり、絶滅したはずの古生物や巨大な植物や……。そうだ、山にも行きたい。政治だの宗教だの、面倒な理由で入山出来ない所がまだある。端から端まで歩いて……」


 アオイは淡路に体を預けたまま、彼の口元が楽し気に動くのを穏やかな気持ちで眺めていた。淡路は、地球上の全てを自分の目で確かめたいのだと言う。


「じゃあ、地球が消えちゃったら……?」


「そうですね。それじゃあ、手始めに火星……いや、もっと面白い所がいいな。そうだ、金星から行きましょうか」


 それから淡路は、金星を覆う分厚い大気や硫酸の雲の話を始める。彼は次々に太陽系の惑星を移動して、そこに何千年、何万年、何億年と滞在しながら、様々な星の一生を見守るのだと笑った。


「じゃあ太陽も……太陽系の全てが消えて、遠くの星々も消えて……」


 淡路につられて笑いながら、アオイは目を伏せた。自分が途方もない話をしているのは、分かっている。


 宇宙が限りなく広大であることも、星は生まれ死んでいくものだということも、二人は分かっていた。そしてそのために必要な時間は、とても想像できるようなものではないことも。


「あなたの知りたいことも、見たいものも、何もかも全部消えてしまった後。それでも、まだ時間が続くとしたら……」


「その時は、星でも数えて暮らしますよ」


 淡路は、笑った。嘘偽りのない笑顔で、彼は本心からそれを望んでいた。


 顔に乗せていたタオルを隅に放ると、淡路はアオイの体をきつく抱き寄せて、宇宙にも人の好奇心にも、果てはないのだと笑い飛ばす。そしてすぐに彼は、本当に果てがないのか確かめてみたいと笑う。


 淡路と顔を合わせて、アオイも笑った。何故か涙が出そうになって、彼女はそれを誤魔化すように目を閉じる。




「――條! 東條!」


 繰り返し、遠くから響く呼び声。


 アオイが目を開くと、そこには無機質な天井が広がっていた。枕元には、美しい青年の姿。向島タカネだ。彼はアオイの左手を強く握りしめている。


 ここは浴室ではないし、淡路の姿もなかった。アオイは、夢を見ていたのだ。


 場所や時間を尋ねようとして、アオイは上手く声を出せないことに気付いた。そして同時に、彼女は、普段は染めて誤魔化している髪や瞳が本来の金色に戻っていることを思い出す。第二東京タワーで力を発動させた時に、アオイは本来の姿に戻っていたのだ。


 アオイは慌てて向島の視線から顔を背けようとしたが、彼はなにも気にしていない様子で彼女の体を抱きしめた。向島の腕は、震えている。


「俺がどれだけ心配したか、分かるか……?」


 向島はアオイの顔を見つめ、髪を撫でて、再び彼女を強く抱く。


 アオイは事態が飲み込めぬまま、混乱した頭で向島の肩越しにボンヤリと宙を見ている。


「感動のご対面のところ、申し訳ないんですがね」


 向島の肩越しに、アオイの目が佐渡の姿を捉える。佐渡は初めから病室に居たのだが、アオイは彼に声を掛けられるまでその気配には気付いていなかった。


「お目覚め早々ですみませんが、早速、仕事の話といきやしょうか」


 時間がないのだと付け足して、佐渡はニヒルな笑みを見せている。


 不吉な予感を覚えながら、アオイは頷くことも出来ずただ部下の姿を見ていた。

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