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ゲノム・レプリカ  作者: 伊都川ハヤト
TO BE (前編)

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304/408

5-2 you’re my home ②

 *



 同日。時刻不明。

 ヒカルはリリカを背負って、沿道を歩いていた。


 東京駅を出るまでに数時間。駅を出てから、新幹線で約二時間。ここで長めの休憩を挟み、さらにバスで四、五十分ほど移動して、スキー場の傍までやってきたのが一時間程前のこと。ヒカルは可能な限り人目を避けて移動し、リリカを休ませながら山を目指していた。


 スキー場はコアトリクエの一件以来、封鎖されている。近隣のホテルは営業していたが、泊っているのは調査のために訪れている幾人かの学者や、ジャーナリストや、温泉目当ての老人グループがポツポツとある程度だ。


 ヒカルは雪に足を取られながら、一歩一歩を踏み締めるように歩く。スノーブーツでなくスニーカーを履いている彼の足の指先は痛むほどに冷えていて、鼻も赤くなっていた。吐き出す息は真白で、耳は風で千切れそうに痛む。


 リリカは、長野に着いてからは殆ど眠っていた。眠っている彼女の顔は人形のように白く、それはヒカルを不安にさせる。背負っているリリカの重みは、そのまま責任として圧し掛かっているようだ。


「リリカ。ほら、此処だよ。合宿で来たろ?」


 恐らく返事はないと分かっていて、ヒカルはリリカに話しかける。雪道を歩き始めてから、彼はもう何度もそうしていた。そこには、彼女が目を覚ますのではないかという期待と、押し潰されそうな不安を吐き出したい気持ちとがある。


 警備中の警察官の目を盗んでスキー場のコースに出ると、ヒカルは封鎖のために設けられたロープを乗り越えて先に進む。彼の足は、コースの間にある林に向かっていた。身を隠すためにも、リリカを背負って歩くためにも、林の中の方が適していると考えたのだ。


「そういえば、ここってキツネとかタヌキとかもいるんだってさ。スキー教室の時、聞いたんだ」


 ヒカルは、友人たちの顔を思い浮かべて笑った。生まれて初めてのスキーを楽しみ、一緒に食事をし、下らないことで教師から共に叱られた仲間たち。彼らの中に居る時、ヒカルは何処にでもいる高校生だった。


「リリカは、スノボだったよね。今度は、僕もやってみようかな。難しそうだけど、カッコいいよね。ほら、オリンピックで金メダルとった、あの人。あの……なんだっけな、名前」


 言いながらも、ヒカルは有名なそのスノーボーダーの顔も名前も思い出そうとはしていなかった。目に映る雪景色が思い起こさせるのは、スキー教室の日、ヒカルは此処でコアトリクエというアナザーを狩ったという事実だ。


 ヒカルが高校に入学してからのことを思い出そうとすると、そこにはアナザーとの闘いの記憶があった。そしてそれらにはいつも、中林の姿がついて回る。


「そういや……温泉とかもあったよね。風呂が広くて、窓が大きくて……あと……」


 不意にヒカルは、肩越しに吐息が零れるのを聞いた。


 顔を向けると、ヒカルの冷えた頬にリリカの髪が触れる。


 リリカは目を覚ましていたが、声を出すことは出来なかった。彼女は無事であることをヒカルに伝えるように、彼に頬を擦り合わせる。それは一度だけだったが、ヒカルを安堵させるには充分だった。


 ヒカルは立ち止まって体勢を整えると、再び前を向いて歩き出す。中林の指定する場所までは、まだ距離があった。陽は落ちて寒さは一層増し、林の中では手の届く距離でさえ視界が利かなくなり始めている。だがそれでも、ヒカルの足は止まらない。


 寒いねと言って、ヒカルは白い息を吐く。ヒカルの耳には、リリカの「寒いね」と返す声が聞こえたように思った。


「温泉かぁ……。入りたいね」


 言葉にしてすぐに、ヒカルは自分が妙なことを口走ったように思った。


「違うよ、一緒にとかじゃなくてさ! 寒いから、温まりたいなって思ったんだよ。だから別に、変な意味とかじゃないから」


 ヒカルは、焦って早口になっている。

 リリカは頬を赤らめて、目を細めた。


「……し……わせ……」


 リリカの掠れた声が耳元に響いて、ヒカルは足を止めた。ヒカルは集中して聞き取ろうとするが、リリカはもう声を出せない。彼女は不思議と、穏やかな表情をしている。


 再び歩き始めて、ヒカルはリリカが口にした言葉を唐突に理解した。リリカは、「幸せ」と口にしたのだ。それに気付くと様々な感情が溢れ出て、ヒカルはリリカに悟られぬように唇を噛み締めた。


 嬉しさ、悔しさ、寂しさ、不甲斐なさ――湧き上がる感情のそのどれもが、ヒカルの視界をぐちゃぐちゃに歪ませていく。


 寒さのせいにして、ヒカルは鼻を啜った。


 リリカはヒカルの背中で熱を感じながら、遠くの暗闇をボンヤリと眺めている。自分の身に限界が迫っていることは理解していたが、それでもリリカは恐怖を感じなくなっていた。ヒカルが傍に居るからだ。


 そうして二人は山を登り続け、やがて彼らの前には奇妙な空間が姿を現す。車が数台、停められるだろうか。その空間を見て、ヒカルはこの場所に覚えがあることに気付く。もうどれほど昔のことか分からないが、確かに此処に来たことがあるのだ。


 空間の真ん中に立って、ヒカルは辺りを見回した。雪は積もっているが、草木は殆ど生えていない。木は周囲を取り囲むように茂っている。


 此処で間違いないのだと確信して、ヒカルは深く息を吸い込んだ。


「先生。聞こえますか――?」


 ヒカルのその呼びかけに、以前のような親愛の情はなかった。


 一刻の間を置いて、重いものを引き摺るような音が地面から響く。それから数分と経たず、二人の前には地下への階段が現れた。その入り口は暗く、二人を飲み込むように地面にポッカリ空いている。ヒカルが中を覗き込むと、穴の奥にはライトが点けられていた。


 リリカを背負い直すと、ヒカルは迷わず地下へと足を踏み入れた。

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