1-7 日常へ
七、日常へ
二〇×一年 十一月八日 月曜日
吐く息も白くなり、季節はやがて冬を迎えようとしていた。
リリカの家の玄関の前に立って、ヒカルは吐き出した息が宙に消えていく様を眺めながら、彼女が出てくるのを待っていた。今日は、随分と支度が遅い。
「あれ、ヒカル君。リリカちゃんは来てないの?」
声の方へ雑に目をやると、そこにはヒカルの予想通りに淡路が立っていた。予想通りに、ヒカルの家のドアの前に。
「どうして居るんですか。いつも言ってますけど、当たり前みたいに家に上がり込むのは止めてください」
ここ数週間というもの、淡路は毎日のように家にやってきて、家事の手伝いやら仕事のサポートやらで甲斐甲斐しくアオイの世話を焼いている。
初めはとにかく抵抗していたヒカルだが、アオイの怪我や激務が心配だったこともあり、自分が居ない時に彼女を見守ってくれる存在が増えたことには、素直に感謝もしていた。
なにより、淡路が家に居ると、それだけでリリカの機嫌が良い。
「アオイさん、昨日遅かったろう? それなのに、今日は朝から大事なミーティングで」
「姉なら、僕が起こしました。今日はバイクで行くと言っていたので、迎えは不要です」
「うん。でも、バイクは無理だろうから、僕が責任を持って送り届けるよ」
淡路は、いつものように笑っている。
この時、ヒカルはアオイのバイクのキーの所在を知らなかったので、彼の言葉の意図が読めなかった。
「とにかく、姉はもう平気ですから」
「まあまあ。あれ、ヒカル君、時間は大丈夫?」
家のドアに手を掛けようとしている淡路を目で制止しつつ、ヒカルはリリカの名前を呼んだ。バスの時間が迫っているのは事実だ。
少しして、ドアを豪快に開け放ち、リリカが飛び出してきた。
リリカは首にリボンのように結んだベージュ色のチェック柄のマフラーをしているが、胸の前にも他のマフラーを抱えている。
「ねえ、これ変じゃない?」
そんな事かと呆れつつ、ヒカルはそれを顔に出さないように努めた。「どちらでもいい」や、「なんでもいい」という返答は、この事態をややこしくするだけなので口にしてはいけない。
「うん。凄く、似合ってると思う」
ヒカルは、横顔に淡路の視線が刺さるように感じた。その視線からは、本心なのかと問われているように感じる。
「あ、ほら、淡路さん。似合ってますよね?」
淡路の姿に気が付いて、リリカの目が輝いた。
仕方なくドアノブに伸ばしていた手を引いて、淡路はリリカに笑いかける。
「そうだね。落ち着いていて、大人っぽいね」
「ほら、ね。淡路さんも良いって」
だから、直ぐに出発しよう――逸る気持ちを抑えて、ヒカルはさり気なくスマートフォンの時計を確認してみせた。そろそろ家を出ないと、何時ものバスには間に合わない。
「そっかあ。……ねえ、こっちは? 似合わない?」
手に抱えているマフラーの束から鮮やかな赤いマフラーを選び取って、リリカは肩に掛けて見せる。
(どっちも同じチェックじゃん……)
そもそも似合うものを選んで買ったのだから、今更悩むことなのだろうかとヒカルは心の中で毒づく。
「赤いのも良いなって思ったんだけど。でもほら、この間、ヒマちゃんが検査で引っかかったんだって。だから、派手じゃない方がいいのかなって思って」
リリカのいう検査とは、登校時に抜き打ちで行われる服装検査の事である。
「それ、すっごく派手だったとか、やたら高いやつだったとか、そういうのだろ?」
白鷹高校の生徒は校則で、学生に見合わない高価な物を身に着けないように指導されている。それは、学生が学外で事件、事故に巻き込まれないようにする目的からだ。
「うーん……。そうかも?」
「それくらいなら、派手でもなんでもないと思うよ」
「そう? じゃあ、赤でもいいかな」
「えぇ……」
いつものバスを諦めて、ヒカルはがくりと項垂れた。
二人は普段から遅延を見込んで、二本早いバスに乗っている。次のバスに間に合えば、まだ余裕はあった。
リリカがベージュのマフラーを解こうとした時、不意にヒカルの家のドアが開く。アオイだ。アオイはドアの隙間から顔を覗かせて、そこにヒカルやリリカの姿があることに驚いていた。
「ヒカル。時間、大丈夫なの?」
ベストタイミング。
ヒカルはアオイの言葉で時間に気付いた振りをして、リリカを急かす。
リリカは仕方なく両手に抱えていたマフラーを家の玄関に放り込むと、急いでカバンを手に戻ってきた。
「二人とも、車に気を付けてね。……それから、淡路は、さっさと返してくれる? カギ」
「二人とも、行ってらっしゃい。気を付けて」
笑顔で手を振る二人を後に、ヒカルとリリカはバス停へ向けて駆け出した。次のバスまで、あと三分もない。
階段を一段飛ばして駆け上がるリリカの後を、ヒカルが追った。
あの公園での一件以来、アナザーは動きを沈静化している。ニュースからは、アナザーという単語を耳にしなくなって久しい。
だが、ヒカルの知らない所では別の事件が起きているようで、アオイや淡路は以前と変わらず多忙な様子だ。
キツネ面や、ガスマスクを身に着けた別のハンターの存在が気にかかり、ヒカルは一度だけ中林に彼らの正体を尋ねたことがあった。しかし、中林もそれを知らないという。彼らは中林ではない別の誰かの力によって、ハンターに姿を変えている。
リリカは、以前と同じように元気を取り戻していた。
最近では淡路が頻繁に家に来ることもあって、四人で食卓を囲むことも多くなってきた。食卓を囲む人数がたった一人増えただけでも、それはリリカにとって嬉しいことのようだ。
「いいね、こういうの。だって、家族みたいじゃない」
ヒカルは、何時ぞやのリリカの言葉を思い出す。
皆ですき焼きをした時だったか、鍋だったか。椀を手にニコニコしているリリカにヒカルが理由を尋ねた時、返ってきたのが先ほどの言葉だった。
おかげで淡路に上がり込むためのさらなる口実を与えてしまったが、ヒカルも存外に、人の多い食事も悪くないと思ったのを覚えている。
このままアナザーが現れなければ、こんな毎日を送れるだろうか。
バスに乗り込み、視線に気付いて、ヒカルはリリカの方を見やった。リリカは息を弾ませて、スマートフォンの時計を見せている。間に合ったと言いたいのだろう。
家族に対する強い憧れが、リリカにはあるのかもしれない。以前から漠然と抱いていた印象が確かであることに、ヒカルは気付くようになっていた。早くに父を亡くし、不在がちな母親が居ることを思えば、それは当然にも思えた。
何よりヒカルは、自分も同じように家族に憧れを抱いているのだと気付き、それに驚きを覚えていた。
ヒカルは、両親のことを殆ど覚えていない。
この時代、両親が居ない子供は珍しくもない。
幼少期から施設で過ごす子供が大勢居ることを思えば、アオイのような姉が居るだけ、むしろ自分は恵まれているとヒカルは思っていたのだ。
ヒカルは、親がいないことを寂しいと思ったことは、一度もなかった。アオイもリリカも居て、友人たちにも恵まれたからだ。
ただ最近は、家に帰った時に電気が点いていたり、皿が足りないと気付いたり、ソファが狭く感じたり、そういった何気ないことが、ヒカルには何故か無性に嬉しいことのように思えるのだった。これが家族への憧れでなければ、一体他のどんな感情なのだろう。
このままアナザーが現れなければ、こんな毎日を送れるのかもしれない。
「ねえ、今日のお弁当は?」
「昨日のコロッケ。降りたら渡すよ」
「カボチャの? やったあ。夜は、温かいのがいいなあ」
「茶碗蒸しとか?」
「シチューとか、グラタンとか」
「ホワイトソースか」
家にストックされている小麦粉や、牛乳と野菜も大量に消費できるメニューだ。
ヒカルはいつものように材料や料理の手順を思い浮かべながら、無意識に四人分の分量を考えていたことに気付いてハッとした。家族への憧れがあったとしても、淡路を義理の兄として認めた訳ではないのだ。
それに家族というのは、恐らく、一方的に侵略してきた人間のことを呼ぶのではない。互いに、なっていくものだと、ヒカルはそう考えている。
「あ、ねえねえ、転校生だって!」
スマートフォンを見ていたリリカが、興奮したように声をあげた。
バスが揺れて、ヒカルの目にはチャットアプリの画面がちらりと映り込む。
「上川先生と一緒に歩いてたって、マリィが」
「じゃあ、うちのクラスかな。こんな時期に転校って、あるんだね」
随分と半端な時期だなと、ヒカルは首を傾げる。十一月も、もう二週目だ。
「まあ、色々あるもんねえ」
リリカの表情は明るかったが、声には曇りがあった。
地震も、アナザーも、生きていれば色々なことが起きるものだ。ヒカルもリリカも、それをよく理解している。
「あ、女の子だって!」
「可愛い子かな」
「あー。ね。可愛い子だといいね」
急にリリカの言葉に棘を感じて、ヒカルは車窓に目を反らした。こういう時、リリカが何を考えているのか、ヒカルにはいつも分からない。
そうしてボンヤリとしているうちにバスは学校の傍へ到着し、他の生徒たちに混ざって、ヒカルとリリカも校門をくぐった。
今日は服装検査が無かったと、リリカがぼやく。彼女はまだ、赤いマフラーへの未練を引きずっている。
「今日、買い出し行く日?」
「いや、今日はまだ大丈夫……だけど、後でチラシ見ておく」
ヒカルは二件のスーパーを使い分けているが、そのうちの片方は、時折思い切りの良い値引きをすることがある。その店はwebチラシでゲリラ的に告知をするので、ヒカルは昼休みにチェックをするのが日課になっていた。
「じゃあ、行くなら教えて。チーズケーキの材料を買いたいの」
「それ、どうせ僕が作るんだろ?」
「他に、誰がやるの?」
「チーズケーキって、結構面倒だったような気がするんだけど」
「大丈夫、大丈夫! じゃあ、帰りにね」
「いや、せめて先に、レシピを……」
去っていくリリカの背中に、ヒカルは肩を落とした。あの悪戯っぽい笑顔を見せている時に、大丈夫だった試しがない。
ヒカルが以前チーズケーキを作った時の記憶を思い返しながら教室へ行くと、既にクラスメイトは揃っていた。珍しく最後に登校したことを山田に茶化されながら自席へつくと、それとほぼ同時に、教室の前のドアから担任の上川が現れる。
クラスメイトは皆、転校生のことを既に知っているようだった。皆の期待に満ちた目が、定年間近の恰幅のよい男性教師に注がれている。
「えー、皆さん。えー、今日は、皆さんも既に知っての通りと思いますが。えー」
独特な話し方をする上川の声を遠くに聴きながら、ヒカルの思考は別の所にあった。
昼休みにチラシをチェックして、特売があればスーパーへ寄る。帰ったらグラタンの下準備を済ませて、アオイに帰宅時間を確認。サラダの盛り付けはリリカに任せて、スープを火にかけたら、風呂を洗って、乾燥機から洗濯物を取り出して、それから――。
(そうだ、チーズケーキも作るんだ)
リリカの顔を思い出して、ヒカルにはふと疑問が浮かんだ。
リリカは、家族だろうか。
これまでずっと一緒に居て、きっとこれからも一緒に居るだろう存在。リリカはアオイのように姉でも妹でもないけれど、共に同じ時間を過ごしてきた。
彼女なのか。付き合っているのか。そう尋ねられる度に、ヒカルは半ば機械的に関係を否定し続けてきた。リリカが、そうしているからだ。
リリカは、ヒカルとの関係を言葉にしない。相手の言葉を、ただ否定するだけ。
そしてヒカルもまた、二人の関係を言葉にすることが出来なかった。
では、泉リリカは、家族だろうか。
ヒカルには、その問いにも答えが出ないように思えた。
リリカのことは嫌いではないし、アオイと同じように大切に思っている。でも、何かがアオイとは違うのだ。家族になりたくないかと問われれば、それはハッキリと否定できる。リリカは、アオイのように大切だ。ただ、何かが違っている。
「えー、では、えー、どうぞ。入ってください」
教室が、わっと沸いて、ヒカルの思考は呼び戻された。
ヒカルが視線を前方へ戻すと、教卓の隣には小柄な女子生徒が立っている。
肩で切りそろえられた黒髪に、黒目がちな大きな目。緊張しているのか、クラスメイトの視線に照れているのか、頬は赤く染まっている。
「み、みなさん」
言葉を飲み込んで、黒髪の女子生徒は緊張を和らげるために、一度深呼吸をした。
「父の仕事の都合で、先日この街に越してきました。西園寺アンズと申します」
クラスの男子たちが、騒いでいる。
顔の良し悪しは分からないが、可愛い声だなとヒカルは思った。
「みなさん、仲良くしてくださいね」
小首をかしげて、アンズは笑った。
転校生がやってくるくらい、この街は平和になったのかもしれない。アナザーの出現が減ったことを思い出して、ヒカルはそう考えた。
このままアナザーが、現れなければ――。
平和な日常の到来を予感して、ヒカルは期待に胸を膨らませるのだった。
第一部 終




