1-2 ハート ②
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扉の向こうにヒカルの姿が消えると、淡路からは笑顔が消えた。
警戒心があるようでも、ヒカルは根本的には人間を信じている。これが悪意のある人間だったら一体どうするのかと、淡路は呆れていた。少年なりに守りたいという気概は感じるが、それだけでは大切な人の安全を守ることは出来ない。
前方から人の気配が近づくと、淡路には既に笑顔が戻っていた。その仕事用の顔で階段を一歩一歩降りながら、淡路の目は周囲の様子を細かく捉えている。
ここは富裕層向けの低層マンションだけあって、入居者に単身者は殆どなく、住人の入れ替わりも少ない。住民の民度は高く、共有スペースは隅々まで清掃が行き届いている。
途中すれ違った出勤途中の男性とにこやかに会釈し、小道でじゃれている親子に温かな眼差しを向け、淡路は東條家のドアノブにそっと手を掛けた。
時間にして数秒。使用したカードを袖口に戻すと、淡路はさも自宅に帰宅したかのように堂々と室内に侵入した。
玄関に入ってすぐ左がシューズインクローゼット。都内にしては広い玄関ホールを抜けて進むと、左手にバスルームとリネン棚、その正面にはヒカルの部屋と倉庫になっている部屋が並び、その先にはリビングダイニングキッチン。
既によく見知ったレイアウトを頭の中に描きながら、淡路は音を立てずリビングに入り、後ろ手でドアを閉じる。
それに合わせたように、飛んでくる物体。
「――凄いなあ。惚れ直しましたよ」
飛び出したアイスピックが、淡路の左目のほんの数センチ横に突き刺さっている。
淡路の視線の先には、キッチンを挟んだダイニングテーブルでカップ麺を啜っているアオイの姿があった。間にあるキッチンの柱で、アオイの顔は半分ほどしか見えていない。
アオイはスウェットによれたシャツのラフな姿で、長い髪は後ろに軽く束ねた程度だ。リビングダイニングの高い天井から降り注ぐ陽光のさわやかさとは対照的に、彼女は疲れた表情を見せている。
「あ、やっぱり。アオイさんて、お酒が抜けると頭痛がして眠れないタイプですよね」
「帰れ」
「絶対、お腹を空かせて適当なものを食べてると思ったんですよ。今、なにか作りますね」
「帰れ」
「ええと。卵、ありましたっけ?」
「か え れ !」
アオイは怒りに任せて、傍にあったカトラリーを投げつける。淡路は目元や喉元を狙って飛んでくるそれらを丁寧にキャッチしながら、ニコニコと上機嫌だ。アオイにとっては拒絶の意思表示であっても、淡路には仲良く戯れている感覚だった。
アオイはすっかりやる気を削がれて、再びカップ麺を啜る。頭痛で眠れないのも、空腹も事実だ。
「今日、非番」
「僕もですよ」
「一人で、ゆっくりしたいんだけど」
「ああ。僕のことはお構いなく。勝手にやりますから」
淡路はアオイの突き刺さるような視線をものともせずにキッチンに入り込むと、大きな体を折り曲げるようにして冷蔵庫を覗き込んだ。
冷蔵庫の中を覗いて直ぐに、淡路は感嘆の声を上げた。
冷蔵庫の中では、チューブ入りの調味料がフック付きのピンチと突っ張り棒で整理され、バターは専用のケースに切り分けられた状態で保存され、薬味やら使いかけの野菜などはプラスチックのケースで居場所を作られている。
淡路にはそれがアオイによるものとは思えなかったので、直ぐにヒカルだと直感していた。男子高校生の見た目をしているが、ヒカルの中身はベテラン主婦のようだ。
フラフラと近づいてきたアオイが、淡路の頬を掌でぐいと押しのける。彼女はひょいとビールを掴むと、淡路には目もくれずにソファーへ歩いて行った。追い出すことを諦めた背中には、淡路が自由に振舞うことを認める度量も垣間見える。
「凄いなあ」
「別に、いいでしょ。……ってか、あんたうちのカギ複製したでしょ。寄こしなさいよ」
向かい酒を咎められたと勘違いしたアオイが、口を尖らせて缶を開けている。
「あんたも徹夜でしょ」
「ええ。まあ。でも、アオイさんよりは休んでますよ。飲みに行ってないので」
誘われない寂しさを声に乗せて、淡路は笑う。
淡路は昨夜、アオイの位置情報が彼女の友人が経営する店に留まるのを確認し、自宅マンションへ帰宅。短い就寝と着替えを済ませて、タイミングを見計らい、目と鼻の先にあるアオイの住むマンションへやってきたのだった。
アオイは淡路の言葉を耳にして、持ち物に何か仕込まれていると気付く。しかし彼女には、慌てる様子もなければ、探ろうとする素振りもない。
「それで? 勿論、手土産があるから上がり込んだんでしょ?」
「ああ。バレてましたか」
缶ビールを片手にソファで寝転ぶアオイの傍へ行くと、淡路はロックを外してスマートフォンを手渡した。
受け取るアオイの視線が、スマートフォンが特務課の支給品でないことに疑問を投げている。
「昨日の現場付近で、動画撮影していたグループがいたんですよ。なんだったか、ダンスの動画を撮ってたとかなんとか」
睨むアオイに、淡路は、一般市民のスマートフォンを拝借したわけではないと釈明する。これはあくまで個人所有の端末だが、仕事時に使用するためのもので私用のアカウントとは紐づけていない、と。
「そう。面倒だから、全部聞かないであげる」
「全部?」
「私のスマートフォンを、コピーしてる事とか」
反応を見せないことが吉と判断して、淡路はアオイの掌にあるスマートフォンをタッチした。
スマートフォンには、三人の若者が着ぐるみのような姿でアイドルのダンスを真似ている様子が収められている。その十五秒ほどの短い映像の中で、笑顔で踊る三人の後ろに人影が映りこんでいることを淡路が指摘した。
光の加減で鈍い鼠色にも見えるが、それは確かにハンターと呼ばれる少年が身に着けているシルバーのスーツだ。
「実は彼ら、この前にも撮影しています」
動画共有サイトのページを開くと、淡路はあらかじめマークしておいた動画のサムネイルをタッチした。
ダンスしている人物に、変わりはない。だが画面の右端には、先程の動画には姿のなかった通行人が映っている。映り込んだのは一瞬で、顔は見切れている上に片脚しか映っていないが、その格好にはアオイにも淡路にも覚えがあった。
「……白鷹?」
それはヒカルやリリカも通う、地元の中高一貫校の名前だ。動画に映り込む人物は、白鷹高校の制服と思われるチェックのスラックスを身に着けている。塾帰りの高校生だろうか。
改めて二つの動画を比べて確認すると、映り込んでいる公園の時計の時刻からして、五分と間を置かずに撮影されたものであることが分かった。そしてハンターは、学生の進行方向から現れている。
目撃者の証言では、ハンターは被害者である女性の後方から突然現れたとされていて、それ以前の目撃情報は一切確認されていない。
「……期待は出来そうにないけど」
淡路にスマートフォンを返すと、アオイはリビングの隣にある自室へ消えていく。
数分後に再び姿を現した時、アオイは既にスーツに身を固めて髪を整えた後で、表情も仕事中のそれに変わっていた。
「いいんですか?」
「いいも何も、分かってて来たんでしょ? まあ、他に出し抜かれるのも嫌だし、課長にグチグチ言われるのも嫌だし。家に居ても、飲むだけだし」
玄関へ行き、靴を選びながら、アオイは心底嫌そうに課長の名を口にする。
アオイが手にした靴のヒールは、三センチ。普段より低めのヒールを選んだのを目ざとく見つけて、淡路は今日も仕事が長くなりそうだと予感した。
「車、回してよね。飲んでるの、分かってて来たんだから」
「もちろんです。取り急ぎ、動画撮影の公園からですね」
「それから一応、動画は解析に回して。当日の聞き込み情報とリンクするところがないか、佐渡と国後にも確認させて」
「了解です。アオイさん」
先に家を出るアオイを追いかけながら、淡路は彼女の凛とした横顔に惚れ惚れしていた。ほんの少し前まで家着でダラダラと過ごしていたというのに、仕事の事となるとまるで別人のようだ。
「大好きですよ。アオイさん」
「そう」
「そういうところも、ですよ」
「はいはい」
表情を変えず、目線は遠く、歩は早く。そんないつも通りのアオイに熱い視線を投げかけながら、淡路は彼女の後をついていく。
「ところでアオイさん、コートはどうしました?」
問いかけてすぐに、淡路はアオイの横顔から表情の僅かな変化を読み取った。酔いすぎて覚えがないようだが、おそらくいつもの飲み屋にあるのだろう。彼女の性格からして、こうなることを見越していて、予めコートのポケットには仕事道具を入れていないはずだ。
アオイはというと、表情にはほとんど出ていなかったが、脳裏では昨日の退勤後に自分が辿ったルートを必死でトレースしている。畳んだコートを、椅子の背もたれに掛けたところまでは記憶があるのだが――。
「本当に、大好きですよ。アオイさん」
前を行く小さな背中に小声で投げかけると、淡路は静かに微笑んだ。